里見家常陸領
里屋九助が百首城下の来島長親の屋敷を訪ねてきたのは、1608年11月のことである。
「九助、どうだ? 商いは上手くいっているかい? 」
「はい、お陰様で、大殿からも医者や人足など、御支援をいただいており、いい塩梅でございます。」
「そうか、それは良かったの。
で、今日はどうしたのじゃ? なんぞ変事でもあったか? 」
「はい、本日はこれをお持ちいたしたのと、御相談が二つほど……。」
九助はそういうと一つの茶筒を差し出した。
その茶筒は漆塗りで細かい飾り細工が施されていた。
「お、これは見事じゃのう。これを我に? 」
長親は茶筒を手に取り、眺めながら言った。
「はい、実はその茶筒は伊達藩が近年力を入れております漆の工芸品『仙台堆朱 』と言われるものの一つでございます。」
「ふむ、で? 」
「その漆でございますが、当方が扱おうと思いまする。できますれば、堺、大阪、京辺りに卸すことができますればと、お願いに上がりました。」
九助は仙台で産業として力を入れ出した漆を、文化の盛んな近畿に送ろうというものであった。漆器の原料である漆の需要があると見たようである。
すぐに長親は了承し、那珂湊から一旦、銚子港を経由し大阪などとの商いを認めた。
また漆器は海外でも人気の品であり、九助は海外との仙台堆朱の商いを一手に握り、大きな益を得ていくことになる。
「それが相談の一つ目か? ならば二つ目はなんぞ? 」
「はい、そろそろ那珂湊を里見様の物にしていただきたく。」
九助の話はこうであった。
那珂湊は徳川領であり、現在は徳川家康の十男・徳川頼宣の施政下に置かれている。那珂湊は東北の物資を江戸に送るための仲卸で賑わってきた湊である。昨年に来島長親の後ろ盾で、九助が湊に入り振興させ、商港としても賑わいつつある。徳川頼宣は当然の如く、商家に税を課したが、税率が高いとの事。それ故に、相模商人などは那珂湊に店を開くことを嫌っているそうだ。
ここは商いに造詣の深い里見家に治めてもらいたいというのが、九助の話であった。
【那珂湊は徳川家にとっても大事な港。もし里見家が抑えるようなことになったら、どうなるか先が見えない。大きな戦に発展するかもしれない危険性をはらんでいる。】
そう考えた来島長親は、答えを保留し、九助を下がらせた。
「うむ、面白い。内匠助を呼び策を練るか。」
長親が九助の話を里見義康に言ってみた所、意外にも義康は興味を持ったのである。
義康は、まず里見忍びの物を常陸に送り込み徳川頼宣について調べさせた。
次に銚子代官の池引内匠助を呼び、どの様に那珂湊を治めるかの談合を重ねた。
その談合には、時には竜崎弥七郎や来島長親、那珂湊の商家・里谷九助が呼ばれる事もあった。
〔1609年4月 久留里城 里見家評定〕
里見家当主・里見義康が集いし将達に告げる。
「里見家は常陸国の那珂湊を治めることにする。異存のある者は申せ。」
将達は先年に船戦の試し戦として、那珂湊を攻めた事を知っている。
家老である堀江頼忠がすっと手を挙げた。義康は述べよと促す。
「かの港は徳川譜代である徳川頼宣が治めておる地。それに江戸までの物資の仲立ちの地、我らが治めて、徳川は黙っているでしょうか? 」
堀江頼忠は疑問を口にした。
「もっともな意見じゃ。じゃが江戸は動けぬと見た。江戸は大阪を向いており、信濃の真田殿もいる。下手に動けば真田殿が下る。となれば頼宣の兵のみに対すれば良い。」
「は、伊達や佐竹が海からと言うことはございませぬか? 」
「なに、そうなれば我が百首水軍で叩くまで。のう、弥七郎。」
いきなり話を振られた竜崎弥七郎は答える。
「はっ。那珂湊を抑えたのちは、銚子港に軍艦2艘を待機させまする。それに百首港ではいつでも多くの軍艦が出れるようにしております。船戦では負けは致しませぬ。」
この弥七郎の返答に堀江頼忠も口をつぐんだ。
今度は恐れながらと土岐義成が手を挙げる。この義成は里見氏が滅ぼした土岐氏の末裔で父は大多喜城主であったこともある。義康は重臣達の反対を押し切り、こうしたかつて反目した諸将達も召し抱えていた。
「我らが里見の旗を揚げたとて、那珂湊の衆達は従いますでしょうか? 」
「これも、もっともな意見じゃ。これについては長親殿が説明して下され。」
「は、ではこの長親がご説明申し上げます。
那珂湊には大きな商家というのはただ一軒・里屋があるだけで、小さな商家が幾つかあるだけでございます。実はこの里屋は私めが抱えておりまする。その里屋の主人・九助に命じ、那珂湊の商家は全て里見家に従う約定を取り付けております。」
「なんと、そうでござったか。」
土岐義成も納得した。
「ではよいかな。まず、那珂湊には安宅船が2艘。これは元は5艘あったが、昨年我らが打ち砕いた。でこの2艘の安宅船、これは竜崎が抑えよ。」
「はっ。」
「次に那珂湊には代官所が一つある。そこは印東主膳、そちが抑えよ。歯向うようであれば切れ。抑えたら、そのまま、そこを我が里見家の代官所とする。主膳が代官を務めよ。」
「はっ。」
「土岐義成は金上の廃城に入り整備せよ。鳥居成次は中根城を同じく整備せよ。その両城が我が里見家の常陸における拠点となる故、心してかかれ。常陸の仕置は鳥居成次に任せる。寄騎に土岐義成。
池引内匠助は銚子代官の職を解き、代わりに石田新兵衛を新たな代官に任ずる。池引内匠助は儂のそばにおれ。」
「ははっ。」
〔1609年5月〕
里見家は那珂湊を抑え、一帯を支配した。3万石程の領地であり、飛び地であったが経済収益は良かった。金上城には300兵、中根城には500兵程の守兵である。鳥居成次は常陸領内で、あと500兵程寡兵するつもりである。那珂湊の商家には税をかけることはやめ、新たに店を興す者が来やすいようにした。
徳川頼宣(実際はその付家老・水野重好)は、度々、領境(里見家が勝手に決めたものである)の砦に寄せるなどしているが、その度に押し返している。最近では静かなものである。
頼宜の付家老・水野重好は7歳の頼宜を支えている。頼宜が抱える兵は8千あまりで、近くの徳川方勢力が助力しても1万5千位と見ていた。その兵力で、里見家と本格的に事は構えられないと見ていたのである。
1609年末現在、里見家の治める地は49万石になった。
館山城で里見義康は、次なる手を模索していた……。
この時分(1609年5月)の里見家各城の城主・城代
久留里城(本拠城) 里見義康
勝浦城 城主・大岡賢介
大多喜城 城主・池引内匠助
館山城 城代・堀江頼忠
百首城 城主・竜崎弥七郎
岡本城 城代・印東河内守
大網城 城代・山川豊前守
※館山城の城主は豊臣秀頼領の向島に出向している板倉昌察とされ、留守を堀江が預かる形となっている。
常陸領
中根城 城代・鳥居成次
金上城 城代・土岐義成