那珂湊襲撃
1607年8月9日
百首城下・来島長親の屋敷…里見家当主・里見義康、里見家百首水軍頭領・竜崎弥七郎、豊臣家家臣・来島長親が車座に座していた。
「さて、弥七郎も参ったので、話をはじめるといたそう。」
義康が切り出した。
「どんなお話しなのか、いささか胸が躍りまする。」
好奇心を抑えられないでいるのは長親である。
弥七郎は黙しているが、やはり好奇心に満ちた顔をしている。
「ふふふ、ならば話そう。我が里見の領内はこの2年で地力を蓄えることができた。領内も良く治まっておる。長親殿の水兵たちの鍛錬も順調と聞く。そこでだ。そろそろ戦を仕掛けようと思ってな。」
「おお、それは良いお考えでござりまする。」
すぐに長親が賛意を示した。弥七郎も大きく肯いて義康に尋ねた。
「では、いよいよ矢作城を攻めるのでございますか。」
弥七郎の問いに義康はにやりと笑って答えない。義康は二人に考えて見ろと言っているのだ。
少しの間の後、長親が口を開く。
「いや矢作城ではございますまい。なぜなら私どもにお話しされるのですからな。矢作では水軍は必要ありませぬ。」
「ふふふ、さすがに長親殿でござるな。さよう。こたびは海からの戦を仕掛けようと思ってござる。」
ここで義康は一拍置いて、茶を啜った。喉をうるおし再び口を開く。
「で、攻めるのは那珂湊。」
「那珂湊でござるか。あそこは商港でございますな。」
弥七郎がいささか不思議そうに尋ねる。
「うむ、そなたの申す通り商港じゃ。那珂湊は徳川にとって重要な拠点じゃ。東北の物資は那珂湊に集められ、そこから陸路で、または利根川を経由し江戸に運ばれる。」
「なるほど、そこの湊を叩いて物資の流通に害を与えようと言うのでございますな。」
得心顔の弥七郎だ、
「そうよ、さすがに大事な拠点ゆえ、吝嗇な家康殿も安宅船を5艘ばかりおいて、警護しているらしい。」
「なるほど、義康様のお考えは分かり申した。が、どうでしょう? 那珂湊は抑えるのには少々離れておりませぬか?抑えた後の仕置が難しいのでは? 」
「それも長親殿の申す通りじゃ。なのでここは叩くだけ叩いて終いじゃ。治めることはしない。こたび湊を攻めるもう一つの目的じゃが……。」
また義康は言葉を切って茶を啜る。今年の夏は特に暑く、喉が渇く。長親と弥七郎も茶を啜った。
「水軍の試し戦じゃよ。なかなか実践を積む機会がないであろう?」
「あ、なるほど、それはありがたきことでござる。ですが、また一つ疑問が湧き申した。」
「ん!? なんでござろう? 」
「義康様は、今はまだ鉄甲船は使いたくないのではございませぬか? できれば隠し通せればよいと私も愚行いたしますが……。」
「お見事、いや長親殿はよく頭が回るなぁ。長親殿の言う通りであるので、こたびは鉄甲船は用いずに安宅船を用いて行う、ただし大筒、大鉄砲は使う。」
大筒や大鉄砲を使った戦の実践の機会が、なかなかないだろうと長親に気を使ってくれたのだった。
「は、お気遣いありがとうございまする。」
長親は義康の気持ちが嬉しかった。
「さすがに殿でございまする。家臣として嬉しゅうございます。」
弥七郎も嬉しそうに肯いた。
こうして常陸国・那珂湊を攻めることになった。
その後、正式な軍議が久留里城で開かれた。その軍議では、那珂湊を攻めると同時に、下総・銚子に軍を出すことにもなった。銚子に軍をすすめ、陣屋を設け付近を治めるのは兵千を率いて池引内匠介が務めることになった。陣屋が構築された後は池引は代官として留まることにもなる。上総の里見領内から海岸沿いに版図を広げようという目論見であった。
1607年8月20日
池引内匠介は銚子に向かい陣屋を構築した。千もの兵が詰めるので、大きな陣屋であり中には兵たちの長屋が整然と建てられた。すぐに上総から地続きの村々に触れを出し、里見領となることが告げられた。海岸線に沿った非常に細長い領土であるが、銚子の領土を含めると五万石にもなる。
下総・矢作城を守るのは本多忠正である。忠正は以前に里見家の捕虜から父である忠勝へ送り届けてくれた池引とは面識があり、恩も感じていた。そのこともあり、これ以上領土を侵さない限りはと黙認していた。
池引も忠正の姿勢を悟り、銚子で徳川方への物資が利根川を経由し入らぬようにしていたのであるが、矢作城への搬入に関しては特別に認めていた。
忠正の配慮もあり、領内の仕置は至極順調に進んだのである。
8月23日、那珂湊へ百首水軍は出航した。本来は池引隊と同じ日に出る予定であったが、潮目の関係でずれこんだのである。
昼過ぎ、安宅船5艘、関船15艘の百首水軍は那珂湊沖に現れたのであった。




