多良崎城の戦い(一)
○常陸国・水戸城
水野重好は松平信吉から下総に向けて出陣する旨の知らせを受けて、時を合わせて動き出した。多良崎城を攻めるのだ。兵は四千、多良崎城には千兵あまりが詰めていると見ている。城攻めには籠城方の三倍ほどの人がいると言われている。十分に勝機はあると見ていた。
また重好は鳥居が援軍に駈けつけられぬように伏兵を五百と、更に徳川に与して本領を安堵されている土豪に鳥居隊の進軍を妨げるように命じた。土豪らは併せて七・八百といったところだ。鳥居隊を退ける事は期待していないが、足止めくらいはできるとみていた。
(千葉重胤、かつては名家であったが落ちぶれた挙句に、かつては敵対していた里見の録をもらうなど情けないやつよ。奴の武勇伝など聞いた事もないしな。
これ以上、里見に常陸領内を好き勝手にされる訳にはいかぬわ。頼宜様がご成長あそばされるまで、水戸は家老の儂が盛り上げてゆくわい)
水野重好は那珂湊を攻められた時から、反撃の好機を伺っていたのである。水野勝成が小見川城を攻めるという話を聞いた時に、これぞ好機と捉えたのだ。
「水野様、準備が整いましてございます 」
近衆の者が出陣の準備が整った事を告げた。
「よしっ! いざ、参ろう! 」
重好の掛け声とともに出陣した。
○多良崎城
千葉重胤は寄親で常陸組頭の鳥居成次より、徳川方から攻められるやもしれぬから守りを固め、いざという時に備えよと言われていた。重胤なりに常陸領内の徳川勢力の様子を見ると、地理的に見ても重胤の守る多良崎城が攻められる可能性が多いと感じていた。
(ここで城を取られる訳にはいかぬ。主の義康様は取られたとてすぐに取り返すと言っているが、先の事は分からぬ。何の功も上げておらぬ新参の儂が里見家で生きてゆくには、ここが踏ん張りどころよな)
重胤はかつての名家・千葉氏の当主であるが、父の代から里見家に押されて落ちぶれた。流浪の時を過ごしていた時に里谷九助に声をかけられて鳥居成次を紹介された。鳥居成次は何かと面倒を見てくれて、重胤自身は成次に仕えるつもりであった。
しかし、成次は
「重胤殿はかつて房州を広く治めておられた千葉氏の御当主。某ではなく里見にお仕えなされよ。里見家と千葉家では色々な遺恨もおありでしょうが、里見義康様はお仕えする価値のあるお方ですぞ」
と里見家直臣となることを進めたのであった。
重胤自身は、千葉家が凋落し里見家が力を伸ばした事は時の流れの中で致し方のない事だと思っていた。そして現在の里見家が力を付けたのは、他ならぬ義康の力だということも分かっていた。
義康自身は千葉重胤の事を特に気にしている訳ではない。成次の推挙ゆえに成次の寄騎として常陸においたに過ぎない。
里見家にとって常陸国は、東北から房州に下って攻められた時の防波堤的な意味合いが強い。そこで信のおける鳥居成次を置き、外様の土岐義成や千葉重胤を寄騎に付けたのである。義康は房州の内、下総まで広く治める事となれば常陸の国で頒図を広げる事もあろうが、今はその時期ではないと思っていた。
(儂が登用された時には家老の印東采女佑殿等は反対したと言う。まあ、そうであろうな。先年の土岐定義の反乱もある。多良崎城は事があれば、真っ先に攻められよう。多良崎城が攻められている間に時が稼げると言うことよ。したが儂はここの城代をしっかりと務めて見せるわい)
千葉重胤の思考は中断された。重胤が流浪に身に落ちる以前より仕えて身の回りの世話をしてる与吉が事を告げに来た。
「殿。大塚様のご配下の方がお見えになっております。急ぎの用とかで…… 」
家老の大塚殿の配下の者と言うことであれば、忍びの者ではないかと重胤は察した。
「そうか。すぐに、ここに通せ 」
「はっ」
すぐに、その者は現れた。重胤の前に現れた男は、片膝をつき頭を垂れて、事を告げた。
「私は大塚家家臣・曽谷二郎時頼と申します。早速ですが、用件を申し上げます。水戸より、ここ多良崎城に向けて兵が出ました。向こうてくるは四千余りでございます」
(やはり来るか。儂の正念場じゃな)
重胤は近衆の者に命じすぐに戦支度をさせたのである。




