忠勝刀
久留里城を抑えた翌日、里見軍は木更津・笹子に着き、本多忠正隊を待っていた。夕刻になり忠正隊五百兵が現れた。
ところが義康はいきなり鉄砲を撃ち掛け殲滅してしまったのである。忠正は足に大きな傷を負い捕縛された。忠正を捕え悠々と大多喜城に入場した。
徳川一色であった関東に豊臣方の大きな大名が出現したことになった。
さらに義康は徳川秀忠の小姓頭・板倉重宗の領地で代官の守る大網城を攻め落とし上総までほとんどを手にした。この時点での里見家は四十万石にもなった。
しかし、急激に版図を広げたため、無理がでてきている。兵士、将の数の不足が深刻である。
当面は内政に務めざるを得ない。飛び領地であった常陸・鹿島は放棄し代官を命じていた地引内匠助を引き揚げさせた。
康義は久留里城を本拠城にし、大規模な普請を行い、大量の募兵も行っている。城の普請は義康の得意とするところであり、これまでも館山城など天守閣を備えた立派な城を構築している。
募兵するなかで安西氏や土岐市などの遺臣を積極的に採用している。安西氏、土岐氏はかつて里見氏が滅ぼした一族であり、家臣の中では不安視する声もあったが、義康は雇い入れた。
上総を手に入れたことで、もともと百首水軍の拠点であった百首城を、再び百種水軍の拠点とし、念願であった水兵たちを、雇い入れた。その数二三〇名である。その者達は竜崎弥七郎の配下となったのだが、その録は、水軍維持費として義康が出すことになった。
また、義康は先ほどまでの水軍の拠点・岡本港は交易港としてさらなる整備を命じた。
こうして着実に領内の地固めをしていく。
徳川方も大阪方面に視線は向いていたが、大阪に向かう際に背後をつかれる形になるために里見家を無視はできなくなった。そこで伊勢に転封させたばかりで、先日、筒井城に遠征させていた本多忠勝を呼び寄せ、空き城になっている矢作城に入れて里見の抑えとした。この時、忠勝の本領はあくまで伊勢とし、矢作は飛び領地扱いとした。
忠勝が下総・香取の矢作城に入り、ひと月したころである。門兵が忠勝の館に、お伺いを立てにやってきた。
「いかがした? なにぞ変事があったか? 」
「は、先ほど里見義康殿の使者と申す者がやってまいりまして、殿にお目通りを求めております」
「なに! 里見の使者とな? うぬ、何用であろうか?していかほどの人数で参っておるのか? 」
「は、それがたった一人でございまする」
「うむ、たった一人で参ったとあらば、会わねばなるまい。城の控えの間に通しておけ」
「は、御意に」
こうして忠勝は義康の使者と面会した。
「して、我が徳川家に反旗を翻した里見義康殿のご使者よ、何用じゃ。こちらに寄せてくることをわざわざ知らせてまいったか? 」
と険しい顔で問いただした。
一方の使者は毅然としてその視線を受け止め、こう返答した。
「は、我が主、里見義康の命で、先に当方が捕えております本多忠正殿、土井忠直殿をお返しに上がりました。なにとぞお受け取りをとのことでございまする」
「なんと!我が方の将を返すと申すか! 」
話では2将とその近衆二十名ほどを返しに、すぐ傍まで来ているという。
「なんぞたくらんでおるのではあるまいの!? 」
忠勝の疑問はもっともである。普通であれば裸に剥いて放り出せばいい話である。それを危険を承知でわざわざ届けに来ると言う。
「なにもたくらんではございませぬ」
と使者はあくまで毅然としている。この使者も敵地に赴いたものであるのだが、見事な立ち居ふるまいである。
「あい、分かり申した。お受け取りいたすゆえよしなにお願いいたしまする」
と最期は忠勝は使者に頭を下げた。
半刻後、本多忠正、土井忠直を引き連れた里見の一隊が大手門に寄せた。
すぐさま門は開かれ、一行は中に入っていった。忠勝は再び驚いた。忠正らを連れてきた里見の一行は僅かに二人の将に率いられていたからである。
「拙者、里見義康が家臣・池引内匠助でございます。徳川殿の将お二人をお連れいたしました」
と忠勝に叩頭しながら言上した。
「これはわざわざ御苦労でございまする。したがお伺いしたき事がござる、よろしいか? 」
「は、拙者のお答えできる範囲でございますれば」
「うぬ、義康殿はなぜ危険を顧みず、わざわざ降将をお届けくださったのであろう? 」
「は、主の申すには、この時勢ゆえ敵味方に分かれるは致し方のないこと。が、しかし将同志には遺恨はないと申されております。それに忠正殿はお怪我をしておりますゆえ、解放した後に、よからぬ輩に襲われぬとも限りませぬゆえ、お送りした次第でございます」
「なんと、これは誠に恐れ入る。義康殿にとってはたかが敗将であるのに……。 もう一つ伺ってもよろしいか? 」
忠勝はいつの間にか穏やかな言葉になっている。
「池引殿は僅か2人で参られた。逆に捕えられるとは思わなんだか? 」
「は、主の申すには忠勝殿は、そのような方ではござらぬので安心してよいとのことでございました」
こうして敗将であった二人の将は無事に本多忠勝に送り届けられた。
ところが池引内匠助と従者が矢作城の門を出ようとしたところ、門兵の内の一人がいきなり槍を突き出したのである。池内の従者が肩をえぐられた。
内匠助はきっとその門兵を睨みつける怒声を上げる。
「これは忠勝殿の指図であるか!? 」
内匠助は指し物を取り上げられていたので無手で対峙した。
「なにを申す。逆賊めらが!」
と門兵は吐き捨てるように言うと再び槍を構えて突き出そうとした。
その時である忠勝が走り寄ってきてその門兵を一刀で切り捨てた。
「池内殿、申し訳ござらぬ。義康殿に何と申してよいか、申し訳ござらぬ」
と幾重にも詫びた。
内匠助は平然としていた。
「どこにもこのような輩はいるものでござる。お気になさらずともようございます。我らも覚悟の上で参りました故」
と笑顔で忠勝に答えた。
「これはありがたきお言葉でござる。したが我は義康殿の好意に、池引殿に何もお答えすることはできまぬ。故にこれをお受け取りいただきたい」
というと近衆の者に命じて持ってこさせた大刀を手渡した。
「我は宝物など持ち合わせておりませぬが、これは無銘ではありますが、かつて信長公にお目通りした際、拝領した刀でござる。どうぞお持ち下され」
と丁重に断ろうとする池引に無理やりの様に手渡したのである。
「これはありがたく頂戴いたします」
と最期には池引きも受け取った。
「しからば失礼いたしまする。次にお会いする時は戦場かもしれませぬが、その時はお互い正々堂々と渡り合いましょう」
と池引内匠介は怪我をした従者を庇いながら引き揚げたのであった。
この時の刀は池引家の家宝となり「忠勝刀」と呼ばれた。
「うむ、あの池引殿はなかなかの武者であるな。あのような物を従えておる義康殿は幸せ者であるな」
と解放されてきた息子・忠正に語りかけた。
「義康殿も我らを誣いることなく、げがの手当ても良くしてくれました。一角の人物であると思います」
と忠正も頷く。
この後、忠勝は家康に大阪での戦線に加わりたいと直訴し、伏見城の戦いが激しくなると、再び筒井城に戻っていった。矢作城は本多忠正が守る事となった。