藤康の初陣
一六一〇年七月
国許へ戻った里見義康は下総香取・小見川城の藤堂正高を攻める。大将に嫡男・藤康としたが、齢七歳で初陣であるため実際に采を振るう副将に地引内匠助を命じ、堀江頼忠、大塚賢介、石田新兵衛ら歴戦の将達が従った。兵数は五千である。相手の藤堂正高は藤堂高虎の異母弟で二十二才と若いが剛の者として知られている。秀忠は里見家に隣接する地であるため二千兵あまりを正高に預けていた。
「若殿。香取は三千石とはいえ戦上手と言われておる藤堂正高が治めております。それに近くには水野勝成など、やはり戦好きな輩もおり援軍に駈けつけるやもしれませぬ。」
地引内匠助が藤康に状況を説明する。藤康は頷いて理解しようとしている様が伺えた。
「そうか、援軍が来ると厄介という訳だな。大塚、その方の手の者に援軍が来ぬよう差配させる事はできぬか? 」
藤康は大塚賢介が里見忍びの束ねている事を理解していた。
「はっ。やってみましょう。されど、長い時は稼げないとお思い下され。良くて二日ほどは抑えられましょう。」
すでに水野勝成の領内には数名の里見忍びが潜入していて、民達を纏めあげていたのだ。勝成は民たちの信が薄く一揆を扇動して時を稼ぐつもりである。しかし勝成が一揆を治めるのは難しい事ではなく、一揆が制圧されるまで二日であろうという事だった。
内匠助は藤康と大塚賢介のやり取りを聞いて笑顔で頷く。
「若。よう学んでおりますな。良い手でございますぞ。」
「爺。私は初陣の身。分からぬ事が多い、色々教えてくれ。この先の戦の仕様は爺に任せる。だが、一つだけ申しておく。無理はするな。」
藤康は幼い頭で考えていた。幼年の自分が戦に出る事で周りに負担になるのではないかと思っていたのである。それはある意味では当たっているが、それよりも従う将にとっては主の嫡男の初陣に同行できる名誉を感じているということは理解できていない。
「若は私どもの事を考える必要はございませぬ。我らは我らの仕事をするまででございます。若はこの戦で何かを学ばれよ。それが爺の願いでございますぞ。」
実際の小見川城攻めは火力の差もあり、あっという間に城を制圧して終えた。水野勝成が援軍に駈けつける暇もなかった早さであった。
こうしてもぎ取った下総香取郡は大阪に出向いている宿老・板倉昌察の所領となる。昌察の留守の間は黒川権右衛門を城代に据えたのだった。この地は豊臣秀頼と里見義康との約定どおり永年に渡って、板倉家代々の所領とされるのであった。
銚子から利根川添いに香取まで所領を広げた義康は利根川の整備を行う。大きな船が運航できるように川幅を広げ堤を整備して行く。この利根川の大改修工事は一万余名が動員され六年にも渡る大工事となる。大規模な工事は人が大量に流れ込むと同時に多額の銭も落ちていく。また、利根川の工事に伴い、利根川の入口である銚子港も規模を大きく広げられて、港の周りは賑やかになって行った。
里見家は富津港、銚子港、那珂湊と海に囲まれた地の利を生かし、さらに利根川の水運を利用し内陸部まで豊かになっていくのである。
こうして少しづつだが着実に里見家が頒図を広げていくと徳川としても看過できなくなってきた。とは言っても大阪方面や関東を伺う信濃勢に対することが何よりも重要である。そこで家康は臼井城の水野勝成に小見川城の奪還を命じ、五千兵を預け里見方面の指揮官に命じた。水野勝成の抱える兵三千と合わせると八千兵となる。それに加え、下総の小大名達は水野勝成の指揮下に組み込まれた。
水野勝成は先年、矢作城を奪われた経緯もあり、打倒里見を掲げている。虎視眈々と小見川城を狙う勝成であった。




