里見義康、立つ!
「秀吉の遺言」外伝です。
里見義康は徳川一色の関東で唯一豊臣の旗を揚げることを決意する。
里見義康はなぜ豊臣に与するのか…。
里見義康は徳川家と豊臣家の戦で、豊臣方に与することに決めた。
義康はかつて秀吉の小田原城攻めでの遅参を咎められ、62万石もあった領地を没収され4万石にされていた。その後、秀吉にその才を高く評価され、9万2千石に高直しされた。その際には羽柴性を下賜され、安房守・侍従に叙任されている。秀吉は義康の野心が好きであった。また強力な水軍を所持している面も評価した。触れあううちに武家としての作法も優れており、心技体の揃った武将であると褒めたたえた。
秀吉の没する数年前に、いきなり秀吉が訪ねてきた。秀吉は大阪より船で館山港に寄せてやってきたのであった。慌てた義康はすぐに館山城天守に招き入れた。
秀吉は天守の披露目の間に座すと
「おお、安房侍従、息災であったか?」
と相変わらずの人懐っこい笑顔で言葉をかけた。
「は、お陰さまでこうして脂ぎっております。」
と返答する。
「そうか、それは上々。そちとは北条との戦がはじめての出会いであったのぅ。」
「は、そうでございましたな。」
と昔話で盛り上がって話が進んだ。
話が途切れた頃合いを見て、義康は
「上様、お立ちになりあちらに参りませぬか?」
と天守閣の海に面した方角を指差した。
「うむ、行ってみよう。」
というと秀吉は立ち上がり歩を進めて海を眺める。
「この海は大阪の海とは違っておるのぅ。海の色も違う。海の色も一色ではないの。」
目を細めて海を眺めている。
「は、ここの海は2つの潮の流れがございます。大阪の海は一つの潮の流れしかございませぬから。この大海に面した日の本の中で2つの流れが混じり合うのはここのあたりの海だけでございます。」
と義康は説明する。
「ふむ、2つの流れか。義康よ、仮に余が黄泉へ参った時にこの日の本の国はどう流れるかのぅ。」
と海を眺めながらつぶやいた。あくまで穏やかな声であった。義康は秀吉が何かを伝えたいのだと感じて、あえて黙っていた。
しばらくして、こちらに振り返った秀吉は
「義康よ、そちに秀頼の守役を頼みたい。表立っての守役は片桐且元に命じておる故、あくまで裏で育てて欲しいのじゃ。」
と核心と思われる話にいきなり入っていった。
「裏の守役でございますか。私に務まりましょうや?して何をお教えすればよいのでしょうか。」
と義康は伺う。
「ふむ、その事じゃが…。あとは今宵酒でも酌み交わしながら話そうぞ。」
と秀吉は笑った。
その夜のことである。秀吉は義康に今後の日本についての事を色々と話したのであった。義康としては秀吉に信頼されたことが、大変嬉しかった。秀吉としては、秀頼が成長するまで見守って欲しいと頼んだ。この時の義康には秀頼の後ろ盾になるだけの力はないのであるが…。
ただ秀吉は、秀頼が成長して主君の器でなかった時は、政りごとから手を引かせて欲しいと言って笑った。
「やっとできた子で秀頼は誰よりも可愛い。だが器でなかったら、誰ぞに担がれもするだろう。して世は再び乱れよう。それは歴史が証明しておる、鎌倉殿もそうであろう。信長公と儂がやっと日の本を纏めたのじゃ。秀頼と同じく、この国も儂の子供なのじゃよ。」
とても優しい目で秀吉が話す。さらに続けて
「さて子供の将来じゃが、今の大名に託せる人間は、残念ながらおらぬ。」
と今度はさみしい目で語る。この時、秀吉が子供と言ったのは日本のことである。
「儂がこの国を纏められたのは、信長公の意思を継いだからじゃ。儂は信長公だけを見てきた。信長公の考え方、進もうとされている道、やり方、すべてが手本じゃった。気がついた時に、儂だけが信長公の後継者たりえた理由じゃよ。」
今度は何かを懐かしむような遠い目をしている。
ここで秀吉の目がきっと鋭くなると
「義康、儂はこの国の未来を、数人の武将達に託すことにした。残念ながら一人で背負っていけるだけの者はおらん。なので数人でこの国を纏めていかねばならん。そちもその一人じゃ。そして、そちに秀頼の守役を頼むのは、そちが儂の子飼いの大名ではないからじゃ。冷静な目で秀頼を見れるであろう。」
とじっと義康の目を見据えた。
こうして色々なことを義康に話して聞かせた。義康は感激し、この方のために尽くそうと決めたのである。翌日、秀吉は上機嫌で帰っていった。
数年後、秀吉は信長の待つ冥府へ遠征していった。世の流れは、まさしく秀吉の言っていた通りに乱れ始めた。関ヶ原の戦いでは豊臣方に付きたかったのであるが、質を取られ、じっと我慢せざるを得なかった。しかし、やっと腰を据えて豊臣方に与する決意をしたのである。
さて、里見家は百首水軍とういう水軍を備えていた。この水軍はかつて北条水軍とせめぎ合っていたが、実力は百首水軍の方が強かった。また秀吉の小田原討伐でも海上からの大砲による攻撃に参加している。
百首水軍を率いるのは竜崎弥七郎であり、その武勇は知られており、里見家では200石を拝領していた。水軍のもともとの拠点は上総竹岡の百首城であったが、里見家が上総を召し挙げられ、安房に移った時に、岡本城に移された。秀吉の北条征伐が終わった時に、一艘の大型の鉄甲船と5台の大砲を下賜されていた。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は水軍の重要性を認識しておらず、諸国に戦船の取り壊しを命じていた。しかし義康はこれを壊すことなく秘匿したばかりでなく、新たに2艘の鉄甲船を建造することを弥七郎に命じていた。
鉄甲船は織田信長が考案し、九鬼嘉隆に造らせた船で、諸外国でも鉄を張り付けた船などなく、今の時代でも世界最先端の戦艦である。里見家の鉄甲船は完成まで1年半の時をかけ先年ようやく完成した。
家康は海外との貿易を各大名が独自に行うことを禁じた。各水軍は交易や海上の通行税による収入が断たれ力を弱めていったのであるが、義康は岡本城の面した富浦港を整備し、諸外国と交易を行っていた。
江戸湾をはさんだところの、かつて交易で栄えていた相模湾の商人たちを呼び寄せたために、岡本城の周りは急激に栄えていた。義康は弥七郎を湊奉行に任じた。弥七郎は相模湾を経由し近畿地方と商いを行い、湊の使用に税をかけることで里見家の経済も潤っていた。この勝手な徴税が家康に知れれば改易は免れない。また商船を装い豊臣方・大阪城と繋ぎをとっていた。
義康は、これらの弥七郎の働きを評価し300石を加増し、竜崎弥七郎は500石の知行となった。
弥七郎の抱える水軍の兵はほとんどが里見家本隊の兵ではなく、普段は港で働き、ことがあれば集ってくる者たちである。いずれはみんなを正規に召抱えたいと義康は思っていた。
ここで里見家の主だった武将を纏めてみると以下のようになる。
安房里見家12万2千石(飛び領地含む) 当主・里見義康
筆頭家老・板倉昌察(現在、豊臣家 伏見・向島守将)
家老・堀江頼忠、大塚賢介(里見忍頭領)
家老補佐・鳥居成次
湊奉行・竜崎弥七郎(百首水軍頭領)
常陸国鹿島3万石飛領地 代官・地引内匠助
徳川家康の命で宇都宮城を本田忠正と守ることになった義康は、大多喜城の忠正に、木更津・笹子あたりで合流し、共に宇都宮を目指そうと使者を出した。本多忠正は共に宇都宮を守る義康と共に向えることを喜び了承した。
義康は堀江頼忠、竜崎弥七郎に留守居役を命じて残りのものを引き連れ1500兵の行軍を開始し、途中の久留里城に立ち寄った。久留里城は徳川家旗本の土屋忠直が2万石で城主を務めていた。守兵は500人ほどである。
「これは土井殿、我らはこれより、本多忠正殿と共に上様に命じられた宇都宮を守りに参ります。領内を留守にいたしますゆえご挨拶に参りました。」
と義康は丁寧に頭を下げながら忠直に告げた。
「これはご丁寧にご苦労様でございます。お働きをご祈念いたしまする。」
「は、ありがとう存じます。ところで土井殿、我らは木更津にて本多殿と合流する手はずになっておるのですが、いささか早う進みすぎました。誠にぶしつけでございますが、今宵1晩、城内をお借りできませぬか。兵を休ませとう思いまして。」
と頼み込んだ。
「そうでしたか。お構いはできませぬが、このような所で良ければどうぞお休みくだされ。」
と忠直は了承したのであった。
その夜、義康は土井忠直ら久留里城守兵の寝込みを襲い、あっという間に制圧した。土井忠直は軟禁され、厳しい監視下に置かれた。守兵の500人は忠直の命で義康の荷駄隊に組み込まれた。久留里城には竜崎弥七郎が呼ばれ城代を務めることになった。久留里城に留め置かれた守兵は、攻められる心配はなさそうであるので僅か200人である。
久留里城を治めた義康は翌朝、本多勢と落ち合う予定の木更津・笹子に向けて進軍していった。