序章
……やっちまった。
他の連載も終わってないのに、思い付いたら消える前に書いてしまえと。
……とりあえず一個ずつ終わらせていきます。
大国デルタ。
高層ビルが乱立し、道路同士が立体交差する大都会。
夜になっても人の波が衰えを知ることのないその国には、人の目が届かない路地裏が数多く存在する。
ここはその路地裏の一つ。人の気配がなく、月の光も及ばず、車が一台あれば塞がれてしまうような通路。
今はそこに、向かい合うように立つ人影が二つあった。
一つは黒髪で、青年の男。もう一つは女。
腰まで伸びた栗色の髪。青みを帯びて白く光る瞳。
端的に言うとするならば、月と見紛うような淡い光を放つ瞳を持った若い女だった。
少し寂しげな風が吹き抜けて、二人の髪を優しく撫でていく。
サラサラと擦れ合う髪に指を通しながら、女は言う。
「--あなたがわたしの主人だなんて、そんなこと認めると思うの?」
唐突に、女が威圧するように凄んだ。常人なら思わず後退りしてしまうほどの迫力に、男はただ顔に笑みを張り付けて崩さない。
「……なんとか言いなさいよ」
不安からか怒りからか、女は体を震わせた。尤も、何故かは彼女自身でも理解していないのだが。
「自分に聞いてみたらどうだ。もしかすると、俺より詳しいんじゃないのか?」
男が漸く口を開いた。静かな通りに染み渡るように。
女の戯れ言を、切り捨てるように。
男の言葉に反応して、女は慌てて首に視線を移す。
焦燥に駆られる意味などないと解ってるのに、知ってるのに。
一見して冷淡そうな雰囲気を纏う彼女を、なにがこれほどまでに狂わせるのか。
変わるはずのない事実を、何度となく確認させるほどに焦らせるものとはなんなのか。
それは黒い光沢を帯びた輪。首に嵌められた、所謂、首輪だった。そこから、男の手まで弛んだ鎖が伸びていて。
--男の所有物。言外に語るそれを見て、女の月のような瞳が揺れる。水面に移った月が、波紋によって在り方を忘れるようにして。
「わたしがあなたに……なにをしたの? わたしに罰を受ける理由はないわ。わたしにだって……人でいる権利はある……っ!」
声が溢れる悔しさに震える。目は悲しみの涙に濡れていた。
男はそれを見ていながら、笑うのみ。
「本当にそう思うのか?」
「思うわよ! 誰だってそう! わたしが悪いって言うの!? それを言うならあなたが--」
「俺がなんだ? ……甘ったれるな。お前がしたことを忘れたか?」
女が半狂乱に叫ぶ。しかしそれは男の言葉に遮られて届かない。
怒られた子供のように下唇を噛む女に、男が首輪から伸びた細い鎖を力一杯に引いた。
「ぅくっ!?」
「お前がなにをしたのか、忘れたとは言わせない。なぁ、お前は解ってるんだ。なのに目を合わせない。罪から、真実から! もう一度言う。甘ったれるなッ!!」
女の平常心を易々と焼き尽くすほどの男の怒り。必死に抑えようと脚が震える。
女の胸の内、自分の中枢にまで突き刺ささる言葉。
それは断罪。目を背けたこと、契約に反する女の態度に対してのものだ。
「これは命令だ。思い出せ」
男の言葉は、女を重く縛った。びくりと震える身体、握り締めた手には爪の跡。俯き見ると、儚く揺れているのは手なのか、それとも身体なのか。
そんな些細なことより、あまりに圧倒的な強制力を発揮する男の命令。彼女の思考は暗い闇に呑まれていく。
彼女にとって過去の記憶、それは輝かしい栄光の勲章であり、彼女自信の誇りだった。
その順風満帆な旅路が転落人生と化した、たった一つの出来事までの軌跡を彼女は追っていく。
意志の力ではどうにもならない。世界でただ一つ。彼女を強烈に突き動かす強制力によって。
カタカタ、カタカタカタ……
俺を壊す音がする。
真っ暗な中に響く、音。
ふと、気付くと俺は座っているようで。
口から垂れていた涎を拭う。
ここはどこだ?
夢から覚めて、目を開く。それから、気になっていた音の方に目をやる。
一つの部屋に、大量の机。音は俺の右から聞こえていて、隣の誰かが右足を揺すっている。
「そ、んな……」
丸く白い背景に黒い針。
全てを悟った俺は、狂いそうになる。
教壇の上、スーツの男。
そいつが紺のスポンジを深緑の板に押し当て、上下左右に動かした。
掠れて消えていく白い文字。
俺は、うなだれた。