第3話「しあわせな家庭」
本作はフィクションです。
登場する人物・制度・社会状況はすべて架空のものであり、現実のいかなる存在とも関係はありません。
本作は誰かを傷つけるための物語ではなく、
見過ごされがちな“理不尽”と向き合い、問い直すための物語です。
──高槻和真の回想──
俺の名前は、高槻和真。
三十代半ば、都内に本社を構える某大手IT企業の営業部長をやっている。
妻の理沙とは、大学を卒業してしばらくしてから付き合い始めた。
初めてのデートは、たしか遊園地だったと思う。
まだお互いに少しぎこちなくて、手をつなぐタイミングに迷ったりしてさ。
何度か出かけて、いろんな話をするうちに、少しずつ距離が縮まっていった。
そして迎えた冬──年が明けたある日、俺たちは初詣に出かけた。
雪がちらつく寒い朝だった。
石段で足を滑らせそうになった理沙を、思わず手を伸ばして支えた。
その時の、手袋越しのぬくもりと、見上げた顔に浮かんだ照れ笑いは、今でもはっきり覚えてる。
並んで参拝したあと、彼女が小さな声で願い事を呟いた。
「世界中のみんなが、幸せになりますように──」
あまりに青臭くて、理想論みたいな祈りだった。
でも、不思議とその言葉が心に引っかかった。
彼女の優しさがにじんでる気がして……あの瞬間、少しだけ世界が美しく見えたんだ。
あれから十数年。
私は出世街道を駆け上がり、年収は二千万を超えた。
理沙は家庭に入り、娘の美羽は今年、小学三年生。
郊外の閑静な住宅街に、庭付きの一戸建てを構えて暮らしている。
駅から少し遠いが、静かで空気がいい。
理沙が気に入った間取りで、子育てにも最適だという不動産屋の言葉に背中を押された。
この暮らしは、私の努力の結晶だ。
朝六時前に家を出て、満員電車に揺られ、夜遅くに帰宅する。
接待、予算、会議、報告書、クレーム、成果主義──全部飲み込んできた。
歯を食いしばって、足掻いて、ようやく手にしたこの「しあわせ」を、私は誰に遠慮することもなく誇っていた。
朝の光が、リビングに柔らかく差し込んでいる。
ダイニングテーブルの上にはホットプレート。
理沙がエプロン姿でパンケーキを焼いている。
「ママ、こげてるよー!」
娘の美羽が、笑いながらつっこむ。
「ほんとだ。……焦がしバター風味ってことで!」
理沙が肩をすくめて笑うと、美羽もくすくすと笑った。
二人の笑い声が、我が家の空気を温めていく。
私はソファに腰掛け、熱いコーヒーをすする。
苦みと香ばしさが鼻腔をくすぐり、心が落ち着く。
テーブルの隅には新聞。
今朝もまた、魔法少女に関する記事が一面に躍っていた。
「最近、物騒ねえ……魔法少女の話、本当なのかしら」
理沙が眉をひそめる。
「どうせ都市伝説だよ。ネットが盛ってるだけさ。実際に見たって話、聞いたことないしな」
和真が苦笑いしながら言うと、美羽はホットケーキにシロップをたっぷりかけ、きらきらした目で言った。
「でも、ほんとに魔法が使えたら楽しそうだよね」
「へぇ、もし魔法が使えたら何したい?」
フォークを口に運びながら尋ねると、美羽はちょっと考えてから答えた。
「んー……おっきな家を建てる!」
「なるほど。夢がでかいな」
「だって、こんなおうちに住めたら楽しそうだもん!」
彼女の無邪気な笑顔に、思わず口元が緩む。
「努力すれば、美羽もいつかこんな家を建てられるさ」
「うーん、魔法のほうが早そう!」
「はは、それはズルっていうんだぞ」
私は吹き出して笑い、少しだけ真面目な声で続けた。
「現実にはな、ズルの代償ってやつがあるんだよ」
──だが、その瞬間だった。
空間がきしむような異音が響いた。
目の前の空気が歪み、虹色の稲妻が走る。渦を巻きながら、そこに“穴”のような歪みが生まれる。
──現実には起こり得ないはずの現象が、目の前で形を成していった。
そして、そこに“少女”が現れた。
まだ幼さの残る顔立ち。
金色のミディアムヘアが淡く輝き、赤い瞳がこちらを真っ直ぐに見据えている。
身にまとうのは、白を基調としたドレス。赤いラインがあしらわれ、小さな翼のような装飾が背に揺れている。
手には、赤い光をまとった鋭い槍。
足元は白いソックスと赤いメリージェーン。
どこか古風なその姿は、まるで絵本から飛び出したようでいて──同時に、冷たく異質な“武装”だった。
「な、なんだ……? 泥棒か? コスプレ……?」
私は椅子を蹴って立ち上がりかけた。
だが、言葉は途中で喉に詰まった。
──槍が、音もなく振るわれた。
そして次の瞬間、理沙の胸元を槍が貫いた。
「……り、理沙……?」
言葉にならない悲鳴とともに、理沙の身体が崩れ落ちる。
赤い液体が、床に広がっていった。
「年収、確認済み。二千八十万円」
少女──ノゾミは、淡々とした声で言った。
理沙の身体が床に崩れ落ちる音が、現実感を伴って耳に届いた。
倒れた彼女の目は虚空を見開き、もう何も映してはいなかった。
「──理沙!? なにを、なにをしたッ!」
私は咆哮し、ダイニングの椅子を掴んで少女に向かって振り上げた。
だが、少女──ノゾミはその場から一歩も動かず、わずかに指を動かしただけだった。
「『マジカル・サブスタンス:自白剤』」
その言葉と同時に、私の身体に鋭い何かが突き刺さった。
気づけば、空中に浮かぶ注射器のようなものが、私の首筋に針を打ち込んでいた。
痛みはなかったが、体の奥からふわりと何かが広がっていく感覚。
脳の制御装置が剥がされていくような、忌まわしい心地よさ。
「これは……なにを……ッ」
「喉元まで来てるくせに、いつも飲み込むだけの本音。全部、吐かせてやるよ」
ノゾミの声は、どこか冷めていた。
「質問するから答えな。お前は──お前たちは、他人の苦しみをどう思ってる?」
「……関係、ない……俺は、努力して、働いて……正しく、稼いでる……ッ!」
「それは聞いてない。“他人の苦しみ”について聞いてる」
言葉が止まった。答えたくない。
けれど、喉の奥から何かがこみ上げてくる。舌が勝手に動く。
「……他人がどうなろうと……知ったこっちゃ、ない。……他人を気にしてたら、出世なんて、できねぇよ……」
まるで悪夢のように、私の口が勝手に本音を吐き続けていく。
「──清掃員のミスで書類が濡れたことがある。腹が立って、発注先を替えた。あいつ、クビになったっぽい。
でも、知らん。自業自得だ。……なに? 片親で子どもがいた? ……俺の責任じゃない。
……同僚がメンタルやられて辞めた? 俺の成果が上がった。むしろ、ありがたかった」
ノゾミは黙って、私の語りを聞いていた。
目の端に、美羽の姿が映った。テーブルの下に隠れて、震えている。
「……パパ……?」
涙に濡れた瞳が、私を見ている。こんなものを、娘に聞かせていいはずがない。だが、止まらない。
「部下が家庭の事情で休みたがった? 知るかよ。家庭を犠牲にできない奴が、稼げるわけねぇだろ……。
子どもの貧困? 低学歴? 生活保護? そんなもん、敗者の言い訳だ。……社会は“結果”だけを見ればいい……!」
(やめろッ!! やめてくれッ……!!)
頭を抱え、叫んだ。涙が止まらない。口を押さえても、言葉がこぼれる。まるで、喉が破裂したかのように。
「俺は努力したんだ! お前たちみたいな怠け者とは違う!」
叫ぶような高槻の声に、ノゾミは静かに首を振った。
「──出たよ、そのセリフ」
彼女は一歩を踏み出す。血に濡れた槍の切っ先が、じわじわと高槻に向けられる。
「確かに、怠けている奴もいる。だがな、ほとんどの人間は頑張ってんだよ。ただ……報われねえだけだ」
ノゾミの声は低く静かだったが、怒気がにじむような熱を帯びていた。
「それを“努力不足”って決めつけたのは、お前たちのほうだ。
“結果”だけで人の価値を測ってきた。
自分たちが勝ち続けるために、いったい何人の“負け”を踏み台にしてきたと思ってんだ?」
──そんなこと、考えたこともなかった。
私はずっと、自分の努力が正しく報われてきたと思っていた。
遅くまで働いたし、成果も出したし、リスクも背負った。
その報酬として、今の生活があるのだと、疑いもしなかった。
でも、もしその裏で……
私が幸せになることで、誰かが仕事を失い、家を失い、家族を失っていたのだとしたら?
もしそれを「仕方ない」で片づけてきたのだとしたら?
胸の奥が、ひどくざらついた。
「──そろそろ、いいだろう」
ノゾミはゆっくりと美羽に歩み寄る。
「やめろ……頼む、娘は関係ない……美羽は、何も……!」
「でも、関係あるんだよ。お前の年収は、家族全員の“加害”なんだ」
「……だったら、私だけを殺せばいい。娘には……美羽には罪はない! その子は、ただ……ただ私の娘で……!」
「罪はない? そうだな。たしかに、その子自身は何もしてない」
ノゾミの声は静かで、どこか哀しげですらあった。
「でもな──罪がない人間ほど、先に死んでるんだよ」
和真は息を呑む。
「お前たち高所得者が、金を抱え込んで、回さなかったせいで……救えた命が死んだ。
薬が買えなかった。治療が受けられなかった。生活に潰されて、冷たくなっていった子どもたちがいる」
ノゾミの目が、まっすぐに和真を貫く。
「お前らは命を選別する側だった。金があるかどうかで、生きていいかを決めてきた」
「それを“仕方がなかった”だの“努力しただけ”だの言い訳して──いざ自分の番になったら“やめてくれ”か?」
彼女は乾いた笑みを浮かべた。
「虫が良すぎるんじゃねぇか?」
和真は何も言えず、ただ震える。
「1580万オーバー、三人分の命のツケはちゃんと払ってもらう。──それが平等ってもんだろ?」
ノゾミは、槍を構えた。
それは、美羽を見下ろす処刑人のようだった。
その瞬間、私の中で、なにかが壊れた。
胸が裂けるような苦痛に、思わず叫びが飛び出す。
「やめろぉぉぉぉおおおおお!!」
空気が凍りついた。
世界から、音が消えたように思えた。
何を叫んでも、どんな祈りも届かない。
ただ、冷たい絶望だけが、ゆっくりと満ちていく。
──次の瞬間。
美羽の小さな体に、ノゾミの槍が容赦なく突き刺さった。
肉が裂け、骨を砕く鈍い音。
赤い飛沫が、夜空に散った。
それはまるで、一輪の花が咲いたかのように――美しくさえ見えた。
小さな身体が後方に倒れ、ぐったりと地面に横たわった。目を見開いたまま、娘は動かなかった。
私は絶叫した。
理沙を失ったときとは比べものにならない。
心が、本当に物理的に引き裂かれるのを感じた。
私の人生が、家族が、希望が、あの一突きで滅んだ。
血の海に沈んでいくのは、ただの少女の遺体ではない。私の全人生だった。
ノゾミが、血塗れの槍を軽く振って血を払った。そして、こちらへと一歩ずつ、無言で歩み寄ってくる。
「……あとは、お前だな」
脚が震えて立っていられなかった。私は膝をつき、頭を垂れた。自分の鼓動すら聞こえない。
「違う……これは違うんだ……!」
「違わないよ」
彼女の声は静かだった。だからこそ残酷だった。
「それが、“お前たち”だよ。自己弁護して、無関係なふりして、自分だけ幸せで……あとは、どうでもいいんだろ?」
私は、それでも言わずにいられなかった。
声は震え、涙で視界がにじんでいた。
「……それでも」
「ん?」
「……それでも、私は……幸せだった……あの子がいて、妻がいて……
それが、すべてだったんだ……」
ノゾミが眉をひそめる。
「他人を不幸にしてでもか。搾取してでもか」
私は、ゆっくりと頷いた。
もう、取り繕うことなどできなかった。
「そうだ……他人を顧みなかった……でも、それでも……
私は、あの家族と過ごした日々が……幸せだったんだ……」
ノゾミはため息をひとつ漏らした。そして、静かに呟いた。
「──なら、死ね」
槍が振り下ろされた。
顔に真紅の光が走った。
視界が、音が、すべてが滲み、流れていく。
────。
──私は走馬灯の中にいた。
春の日のキャンパス。
桜が舞う中、振り返った理沙の笑顔。
おそるおそる差し出したコーヒー。震える手。
「あの、よかったら──」
小さなアパートのキッチン。
一緒に作った失敗だらけのオムライス。
笑い合いながら床に座って食べた晩ごはん。
雨の日のプロポーズ。
傘を忘れて、二人でびしょ濡れになった。
「……ほんとに私でいいの?」
「お前じゃなきゃ、ダメなんだよ」
病院の窓辺。
生まれたばかりの美羽が、小さな声で泣いていた。
理沙が涙ぐんで微笑む。
「この子、あなたにそっくりね」
初めて歩いた日。
初めてしゃべった言葉。
保育園の発表会。
お弁当を広げた遠足の午後。
三人で川沿いを歩いた帰り道。
何気ない日常。
けれど、それがすべてだった。
──それらが、遠ざかっていく。
夢のように、音もなく。
そして、深い沈黙の中。
血に濡れたフローリングの上。
高槻家三人は、冷たくなって、静かに横たわっていた。
──翌朝──。
テレビが、冷徹に報じた。
「都内の住宅街で発生した殺傷事件。被害者は大手企業の部長・高槻和真さん、その妻と娘の三人。
遺体には魔法的な痕跡があり、関係機関が調査を進めています」
SNSは一瞬にして炎上した。
《魔法少女、ガチで存在してるっぽくね?》
《いや、普通にヤバい事件じゃん》
《一般家庭にまで手を出すのはやりすぎ》
《でも、年収2000万の家庭だろ?それって……》
《金持ちざまぁwwww》
《次はどこの上級国民かな〜♪》
正義も倫理も、ただのネタに飲まれていく。
哄笑と皮肉と嫉妬に彩られた社会の反応が、スマホの画面に延々と流れていた。
そして──その裏で、ある“画像”が密かに捜査線上に浮かび上がる。
高槻邸の玄関内部、廊下の一角に設置されていた防犯カメラ。
ワープゲートは録画に映らなかったが、問題はその後だった。
事件の直後、ダイニングから廊下を抜け、静かに歩いて玄関へ向かう“少女の姿”。
ブロンドの髪、白いドレス、赤い目。
カメラはその横顔を、真正面からではないものの、はっきりと捉えていた。
映像は社内ネットに流出し、瞬く間にネットへ。
「これ……本物の魔法少女じゃね?」
匿名掲示板とSNSの両方で、“現実の魔法少女”という言葉が、再び炎のように燃え上がる。
闇の中、チープルが呟いた。
「不幸な一家チーね……でも、こんなことやってるチーたちのほうが、もっと不幸かもしれないチー」
隣でノゾミがふっと笑った。
「はは、笑わせんなよチープル。こんな充実した日々は──生まれてから一度もなかった」
一瞬の沈黙を置いて、ノゾミは言う。
「私は、世界一幸せな魔法少女だよ」
──闇に沈むその声は、冷たくも美しく、狂気を帯びて響いた。
【第3話・終】
今後の更新については、少しお時間をいただくことがあるかもしれません。
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