第1話「断罪の夜に魔法は目覚める」
本作はフィクションです。
登場する人物・制度・社会状況はすべて架空であり、現実とは無関係です。
これは誰かを傷つけるための物語ではなく、“理不尽な世界”を問い直すための物語です。
夜のオフィスビルは静かで、どこか空虚だった。
カーペットの上を小さな車輪の音が滑る。業務用の掃除道具を積んだカートを押しながら、無財 希は無言で歩いていた。
「……あ」
ふと、モップの先が滑った。清掃済みの床に、小さな染みを見つけた。
コーヒーのような、それでいて少し赤いような──
誰かの靴に踏まれ、広がったそれは、すでに乾いて床の色と同化していた。
希は肩を落とした。見落とし。それだけで、また評価が下がる。
目の前に、予想通りのタイミングで上司の坂井が現れた。30代後半、小太り、妙に声がデカい。
「おい無財。これ、拭き残しだぞ?」
「……すみません」
「お前さ、何年この仕事やってんの? こういうとこ、ちゃんと見ろって言ってんだろ? 毎回毎回……」
「……はい」
「はあ……。明日からのシフト、ちょっと考えさせてもらうから」
その場でモップを手渡され、坂井は去っていった。
希は無言で、黙々と床を擦った。染みは、意外に頑固だった。
──必要とされてる仕事なのに。
──なんで、こんな扱いされなきゃいけないんだろう。
床に這いつくばりながら、心の奥に燻るような“何か”が、じわじわと膨らんでいく。
夜の電車に揺られ、帰路につく。座席に座る老人、スマホに夢中な若者たち。誰も彼も、他人のことなんてどうでもいいという顔。
家賃4万5千円、六畳一間のワンルームに着いたのは、午前0時を回ったころだった。
玄関を開けると、埃っぽい空気が鼻を突いた。靴を脱いで、散らかったゴミをまたいで中へ。
キッチンに置かれたコンビニの袋から、唐揚げを取り出す。冷たくなって、脂が白く固まっていた。
テレビをつけると、野球中継のハイライトが流れていた。
画面の中で、スター選手が満面の笑みでインタビューに答えている。
『──年俸は100億円を突破しました!』
希は、唐揚げを口に入れたまま、テレビを見つめた。
「……は?」
無意識に、口から笑いが漏れた。
笑って、すぐに泣きたくなった。
「なんで……」
唐揚げを口から出し、床に放り投げた。
「なんで私が……毎日、誰かのケツ拭いて、掃除して、耐えてる私が……年収100万で……」
「……ボール投げてる奴が100億なんだよ……!」
声が震える。喉が焼けつくようだった。
年収差もムカつくが、それ以上に──自分の生活が、人生が、あまりにもみじめだった。
「……無理……もう無理だ……やってられるかよ」
彼女は立ち上がり、押し入れの奥を開けた。
ずっと見ないふりをしていたロープを取り出す。
古びた、けれど頑丈そうな麻縄。
彼女は無駄に慣れた手つきで、それを天井の梁に括りつけた。
脚立を置く。足元が少し揺れた。
深呼吸を一つ。目を閉じる。
「……私には無理だった」
──普通の生活がしたかっただけ。
──誰かと笑い合って、休みの日に散歩して、たまに贅沢して。
「……努力しても、無駄だった」
──勉強もした。就職もした。人間関係だって、壊れないよう気を使った。
──それでも、私は社会の最底辺にいる。
「もう、いいや……」
足を、踏み出した。
瞬間、首に食い込む感覚と、肺が悲鳴をあげる苦しさが襲った。
天井が逆さに揺れた。世界が、遠ざかっていく。
「っ……ぐぅ……!」
苦しい。簡単に死ねるって思ったのに。
想像より、遥かに、痛い──
(いやだ……死にたくない……誰か……誰か助けて……!)
死のうとしていたはずの心が、あまりの苦しさに一気に反転する。
もがき、叫び、視界が暗転しかけたその刹那──
ロープが、唐突に「プツリ」と切れた。
重力が襲い、希は床に叩きつけられる。
鈍い衝撃と同時に、部屋の隅から“それ”は現れた。
「やっと出番チー!」
ガラス玉のような、澄んだ紫の瞳。
首元には、青と白の縞模様のリボン。
両肩からは、小さな白い羽が生えている。
体中には包帯や絆創膏が貼られ、綿がところどころから飛び出してる。
ボロボロになって捨てられたおもちゃのような、不気味さと哀愁をまとっていた。
それが、ふわりと宙に浮かんでいた。
「……っ、な、何だよお前……!」
希は思わず一歩後ずさる。
理屈では処理できない気味の悪さが、背筋をじわじわと這い上がってくる。
目を逸らしたいのに、目が逸らせない。
「チープルっていうチー。新しい魔法少女の契約者を探してたチー」
「死にそうだったから、ロープを切ったチー」
奇妙な存在は、まるで悪びれもせず、無邪気な口調でそう名乗った。
希は目を見開いたまま、肩で荒く息をしていた。
汗と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、怒気混じりの声を絞り出す。
「なぜ助けた!! ……ふざけるな……余計なことしやがって……!」
その声は低く、かすれていた。
怒りとも、恐怖とも、絶望ともつかぬ感情が、喉の奥からにじみ出ていた。
「死ねたと思ったのに……! お前なんかに……戻されたくなかったんだよ、このクソみたいな世界に……!」
チープルはピクリとも動かず、微笑んだまま言った。
「助けたわけじゃないチー。君の命、いただいたチー。これからはその命で“悪人”を片付けてもらうチー」
「は? 何言ってんだ……?」
「契約チー。“生きる”という契約。その代わり、君には使命があるチー。社会の悪人を粛清する魔法少女になってもらうチー」
希は黙った。
虚ろな目の奥で、わずかに、何かが動いた。
「……悪人、って?」
チープルの声が急に熱を帯びた。
「年収1億の詐欺師、血税で豪遊する政治家、宗教ビジネスで信者を騙すインチキ教祖──」
「……」
「高所得者がお金を独り占めしなければ、救えた命がたくさんあるチー。
高所得者がお金を独り占めしなければ、金銭的犯罪は大きく減らせられたチー。
全ての悪いことの根源は、高所得者のお金の独占のせいだチー」
希の眉が、ピクリと動いた。
「……言ってること、全部正しいな」
声は静かだった。だが、その中に確かな熱があった。
「私は……正義の味方なんかじゃない。だけど、“許せない奴”を潰すなら、やってやるよ」
チープルが満足そうに頷いた。
「契約成立チー。変身、開始──!」
チープルのかけ声と同時に、希の身体が柔らかな光に包まれた。
薄桃色と金の粒子が宙に舞い上がり、夜空に反射する宝石のように、きらきらと輝きを放つ。
重く垂れていた肩がふっと軽くなり、足元から風が吹き上がるような感覚が走る。
かすかな鈴の音が鳴り、くすんだ作業着は光となって溶け、代わりに純白のドレスがふわりと形を成していく。
髪が瞬く間に金色へと染まり、肩先で柔らかく揺れた。背中には小さな翼が浮かび上がる。
目を開けると、世界が少しだけ違って見えた。視界は澄み、身体は羽のように軽い。
──そして、手足はほっそりと縮み、声も、肌も、全てが若返っていた。
鏡があれば、きっと別人が映っているだろう。
数年前の、自分でも忘れかけていた“少女のころ”の顔がそこにある。
胸の奥に、確かな怒りの火が宿っていた。
もう二度と、誰にも踏みにじられない。世界に立ち向かう力を、その手に宿して。
そして、彼女は“少女”になっていた。
歪んだこの世界に、逆らうための魔法少女──マネーヘイト・ノゾミが、今ここに誕生する。
「変身、成功チー! 魔法少女・マネーヘイト・ノゾミの誕生チー!」
鏡に映った姿は──自分ではない誰か。
「なにこれ……」
「見た目が子どもになるから“魔法少女”で通じるチー。社会の目をごまかすための仕様チー。便利チー」
「28歳なのに……はあ……まあ、今さらどうでもいいか」
チープルがくるりと宙で一回転し、希の顔を見上げる。
「じゃあ、さっそく街へ飛んでいくチー!」
「あ? 飛ぶって──」
金色の長い髪が風にたなびいた。
魔法少女・マネーヘイト・ノゾミは、夜空にふわりと浮かんでいた。
「おお……マジかよ、飛んでる……!」
「魔法少女になると、空を飛べるだけじゃなく、身体能力も跳ね上がるし、魔法も使えるチー」
「そりゃまあ魔法少女だからな……他に何かあるのか?」
「知能も少し強化されるチー」
「知能? それってどういう?」
「危険察知が鋭くなったり、議論とか交渉で相手を言い負かすのが上手くなるチー」
「なるほどな……まあ、助かるっちゃ助かるか」
「ちなみに、先に言っとくチー。弱点は──まあ、今のところ“ない”ってことでいいチー。
一応、ある条件が揃うと弱体化するかもしれないけど……その条件、まず達成できないから安心チー」
「……どう聞いてもフラグにしか聞こえねぇぞ」
闇に沈んだ都市のネオンが、足元に広がっていく。
「どれが……高所得者かなんて、見た目じゃわからねぇな」
ビル群の間にある大通り、そこは人の波で溢れていた。
終電間際の駅に急ぐ者、タクシーを拾おうとスマホを掲げる者、誰もがただ自分の時間に追われている。
ノゾミの視線は、その群れを淡々と見下ろしていた。
「これを使うチー」
チープルが、小さな手で差し出したのは、片眼鏡風のスコープだった。
「“ステルス・インカムスコープ”チー。これをかければ、年収が見えるチー」
ノゾミは眉をひそめたまま、それを手に取り、かけてみる。
──見えた。
人々の頭上に、赤や青の文字が浮かぶ。
「年収340万」「年収560万」「年収870万」……
その数字たちは、ノゾミにとってまるで値札のようだった。
「ほとんどのやつが私より上じゃねぇか。腹立つな……いっそ全員、片づけてやるか?」
「まあまあ、そう焦るなチー。まずは“年収1000万以上”あたりから目星をつけるチー」
だが、見回しても“年収1000万”を超える者はなかなか見当たらなかった。
「思ったより、いないもんだな」
「だったらあれがいいチー」
チープルが、手を上空に向けた。
そこにあったのは、ジャンボジェット機。
エンジン音が遠くから低く唸っている。機体には企業名がプリントされ、見慣れたマークが金色に光っていた。
「あれに乗ってるのは、VIP中のVIPチー。年収数千万~億単位がゴロゴロいるチー」
ノゾミはステルス・インカムスコープで覗き込んだ。
「年収1億2000万」「年収9500万」「年収3億8000万」──無数の光る数値が、機体の中で跳ねている。
だが、その中に混じって、こんな数字もあった。
「年収120万」
「……低所得者もいるのか?」
「あーそれは高所得者の子供チー。親から毎月10万円のお小遣いを貰ってるチー」
ノゾミの眉がぴくりと動いた。
「このガキ……社会を舐めてんな」
「やるチー?」
ノゾミは黙って右手をかざした。手のひらに淡い光が集まり、脈打つようにエネルギーが凝縮されていく。
「……何これ……勝手に……」
戸惑いながらも、ノゾミは指先に意識を集中させた。
頭の中に、言葉にならない指示や感覚が流れ込んでくる。まるで、撃ち方だけは最初から知っているような、不思議な直感。
──これが魔法攻撃。
手をかざし、呪文を唱えれば、エネルギー弾が放てる。狙いを定め、意識を集中すれば、飛行機ごと吹き飛ばすことも可能だ……たぶん。
「撃つチー?」
ノゾミは、ゆっくりと手を下ろした。
「……やっぱ、なんか違う気がする」
「怖気づいたチーか?」
「違う。金持ちは憎い。でも……あの中にも、社会のためになってるやつはいるかもしれない」
「それは違うチー」
チープルの声が、低くなった。
「確かに世の中のためになってるやつもいるチー。でも、それが“お金を独り占めしていい理由”にはならないチー。
本当に社会を思うなら、せいぜい平均の2倍──1000万くらいが限度チー。それ以上は、ただの搾取チー」
ノゾミは目を伏せた。
「……そう、かもな」
「仕方ないチーね。じゃあ、“やったフリ”だけでいいチー。今後は、それから考えるチー」
ノゾミは無言で再び手をかざした。
狙いをつけるフリをして、エネルギーを溜める演技だけ。
「……ああ、やったフリな」
その瞬間。
「“ルクス・ファイナンス”!」
チープルが、勝手に呪文を唱えた。
「はっ──」
ノゾミの掌から、白熱の光弾が放たれる。
一直線に空を裂き、轟音とともに機体へ命中した。
炎と煙が巻き起こる。
機体が傾き、機内の客席からは絶叫がこだまする。
衝撃音。崩れる翼。
光の尾を引きながら、ジャンボジェットは、遥か郊外の森へと墜落していった。
地面に轟く爆発音が、夜空を震わせた。
「これでいいチー。救われた命が、確かにあるチー」
ノゾミは、風に吹かれながら、ただそこに浮かんでいた。
頬をなぞる夜風が、生ぬるく感じる。
肩が、震えていた。
その震えは、やがて──
喉の奥から、くすぶるような嗤いとなって、漏れ出した。
「……ふ、ふふ……ふふふふ……」
笑いが止まらない。
口元を覆うことも忘れて、彼女は声をあげて笑った。
「あは、あははははは!!」
「なんチー?そんなに面白かったチーか?」
「違うよ……チープル」
ノゾミは、息を吐くように、ぽつりと呟いた。
「お前……正しいよ。ああ、間違いない。ずっと間違ってたのは、私のほうだった」
その目は、夜の向こう側を見ていた。
空の奥の、さらに奥。
そこに広がる“敵”の世界を、確かに捉えていた。
そして、静かに言った。
「……高所得者を殺すことは、正しい」
【第1話・終】
今後の更新については、少しお時間をいただくことがあるかもしれません。
「続きが待ちきれない!」という方には、全話+設定資料をまとめた完全版をBOOTHにて公開中です。
よろしければ、そちらもご覧ください。
BOOTH(全話・設定資料・キャラデザイン収録)
https://natsuhikari3.booth.pm/items/7205748
また、FANBOXでは本サイトより先に数話分を公開しています。
最新話や活動報告も合わせて読めますので、興味のある方はぜひチェックしてみてください。
FANBOX(最新話公開・活動報告など):
https://natukawahikari.fanbox.cc/