焦り
◆◆◆
「アルノー様、あなたにはもう、我慢ができません!」
エリザベートの声が、華やかなサロンの空気を切り裂くように響いた。昼下がりの優雅なひとときが一変し、部屋中の視線が彼女に注がれる。アルノーはその場で硬直する。
「エリザベート、一体どうしたんだ? 落ち着いて話を――」
「落ち着いて話を? あなたにその資格があるとでも思っているのですか!」
エリザベートの目には怒りが燃えていた。彼女のいつもの穏やかな笑顔はどこにもなく、白い手袋をはめた手が震えている。
「私の縁談が破談になったのは、あなたのせいです! あなたが私に執拗に付きまとい、ところ構わず『特別な存在』だとアピールしてきたから! あの方がどう思ったか、分かりませんか?」
その言葉に、周囲がざわめいた。
破談――それは貴族社会において、特に女性にとって致命的な烙印となる場合が多い。
「待ってくれ、それは誤解だ! 僕はただ、君を――」
「弁解しないで! あなたのせいで私は婚約者を失った。二度と、私に近づかないでください!」
絶縁を告げるその声には、涙に似た怒りが含まれていた。エリザベートは顔を背けると、決して振り返ることなく部屋を後にした。彼女の背中を追うこともできず、アルノーはただ立ち尽くすだけだった。
彼の周囲には視線が突き刺さっている。だが、それが冷たい非難の目であることに、彼はまだ気づいていなかった。
◆◆◆
彼が毎日花を贈ってくるようになったのは、エリザベートとの絶縁の噂が広がり始めた頃だった。
はじめは一輪のバラだった。それが次第に豪華なブーケになり、花だけでなく、宝石や装飾品までもが付け加えられるようになった。部屋には見知らぬ贈り物が山のように積み上がり、そのすべてが私宛だと告げられた。
「アリシア、これを受け取ってくれ。君に似合うと思って選んだんだ」
彼が屋敷に直接訪れるのも日常となった。
かつて、彼に来てほしいと何度祈ったことだろう。それが今、こうして実現しているというのに、私の中には何の感情も湧き上がらなかった。
彼が門の前に立っていることを告げられるたび、私はただ一言こう言うだけだ。
「帰っていただいて」
その言葉が届くたび、彼がどんな表情をしているのか、私は知りたくもなかった。知ったところで、私の胸は痛むこともなければ、温かくなることもないのだから。
今日も、侍女が報告に来た。
「アリシア様、アルノー様が……お花と贈り物をお持ちになって……」
その声はどこかおずおずとしていた。きっと、私がどう答えるかを恐れているのだろう。彼女たちも気づいているのだ。私がアルノー様に、いかなる期待も抱いていないことに。
「帰っていただいて」
「ですが、アリシア様、アルノー様は……」
「帰っていただいて」
二度目の言葉には、明確な拒絶が込められていた。侍女はそれ以上何も言えず、深く頭を下げて部屋を出ていった。
その後、彼が門前でどれほど私との面会を求めても、執事や侍女たちが毅然と断った。その光景を私は窓越しに見た。彼がどんな言葉を叫び、どれだけ花束を抱え、どんな目で屋敷を見つめていたのか――そのすべてを、ただの景色として眺めていた。
「アリシア、お願いだ……話をさせてくれ!」
彼が扉越しにそう叫んだ日もあった。その声には焦りと後悔が滲んでいた。だが、その言葉がどれだけ本心であろうと、私には関係のないことだった。
扉の前に立つ侍女が困惑しているのが分かった。彼女は私を見つめ、どうすべきかを伺っている。
「どうぞ、そのままお引き取りいただくようお伝えして」
私は穏やかにそう言った。侍女は小さく頷き、再び扉の外に戻っていった。その後、彼の声がやむまでの時間、私はただ静かに椅子に座り、本を読み続けていた。
贈り物も、花束も、言葉も、今の私には何の価値もなかった。
私が求めたのは、彼の「今」ではない。かつて失われた瞬間だった。そしてそれを取り戻すことはできない。
私は、彼に期待をしない。だからこそ、私の静けさは守られる。彼がどれだけ私を訪ねてこようと、どれだけ後悔の言葉を並べようと、私はそれに応えることはないだろう。
ただ一つの確かなこと――私は、私の中にあるこの静寂を手放すつもりはなかった。