表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/20

変容

何も考えない、何も感じない、それで十分。


私がその言葉を呟いたわけではない。ただ、心の中で反響するそれが、私という人間のすべてを形作っている気がした。


一ヶ月後、体調が回復したと医師は言った。


執事も侍女たちも、その事実を嬉しそうに語り、両親は安堵の表情を浮かべた。けれど、その「良かったですね」という言葉を受け取る私は、何の感情も抱けなかった。


回復とは、一体何なのだろうか。


体が動くようになり、会話ができるようになり、食事が喉を通るようになれば、それで回復と言えるのか。


では、壊れてしまった心は? 冷え切った胸の奥は? 何もかもを諦めたこの気持ちは? それも回復の一部に含まれるのかと問いたかった。


だが、問う意味はないと知っている。答えなど求める必要もない。私はただ生きている、それ以上でも以下でもないのだから。


「アリシア様、お加減はいかがですか?」


侍女のエリーナが、優しく声をかけてきた。


彼女の微笑みは完璧だった――まるで劇場の舞台で披露される演技のように、正確で、非の打ち所がない。きっと、誰にでも同じ笑顔を向けているのだろう。


私は彼女を見つめる。


言葉を選ぶ必要すら感じない。ただ、短く答えるだけで済むことだった。


「大丈夫よ」


それだけ。何も足さず、何も引かない。


彼女の顔に浮かんだ一瞬の困惑を、私は見逃さなかった。だが、それに対して何かを思うこともなかった。困惑しようが、怒りを覚えようが、それは彼女自身の問題だ。私には関係がない。


「そうですか。それは良かったです」


エリーナは言葉を継ぐものの、その声は明らかに迷いを帯びていた。


私が以前ならどのような反応を返したか、彼女は記憶の中から引き出そうとしているのだろう。だが、無駄だ。以前の私はもうここにはいないのだから。


家族の夕食の席も、同じだった。


「アリシア、今日は鶏肉の煮込み料理だよ。お前の好きなものを用意させたんだ」


父が得意げにそう言った。彼の声には、いつもの威厳が漂っている。


だが、私にはそれがわずかに空回りしているように聞こえた。父が「娘を喜ばせようとしている」という意図を滲ませているのが、あまりにわかりやすかったからだ。


「ありがとう、いただくわ」


短く応じる。その言葉が食卓にどう響いたのかは、気にしなかった。ただ、それが必要な反応であることを理解して言葉を発しただけだ。


母がフォークを止め、私をじっと見つめる。以前なら「まぁ、素敵ね」とか、「お父様に感謝しなさいね」といった言葉が自然に出た場面だろう。だが、今はそれすらも消え去っている。


「アリシア、本当に大丈夫なの?」


母の声が上擦る。そこに含まれるのは、心配というよりも困惑だった。


彼女もまた、私がいつもの「アリシア」ではなくなったことを感じているのだろう。


だが、それをどう受け止めれば良いのか分からない。それが、彼女の言葉の奥からにじみ出ている。


「大丈夫よ」


もう一度、同じ言葉を返す。二度目の「大丈夫」が一度目と変わらない響きだったことに、母は再び目を伏せた。


「……なんだか、変ね」


母が呟いた言葉に、父が頷くのが視界の隅に映る。


変――その言葉は的を射ているかもしれない。だが、それがどうしたというのだろうか。


私は変わった。それだけだ。それが良いことなのか、悪いことなのかは私には分からないし、判断する意味もない。


ただ一つ確かなのは、私が周りに何も期待しなくなったこと。期待がなければ、失望することもない。だからこそ、私はこうして生きていける。


私の「変化」が彼らを困惑させ、慌てさせる。それが分かっていながら、私は何も感じない。以前の私なら、その反応に痛みや罪悪感を覚えたかもしれないが、今の私にはそれすらもない。


表情を失った私に向けられる視線の重さ。その視線の先にあるのは不安、疑念、そして少しの恐怖――だが、それも私には届かない。私はただ、静かにこの空間に存在する。それで十分だ。


周囲の人々が私の中に「何もない」ことを恐れるのなら、それは彼らの問題だ。私はただ、こうしてここにいる。それだけで満足しているのだから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ