変容
何も考えない、何も感じない、それで十分。
私がその言葉を呟いたわけではない。ただ、心の中で反響するそれが、私という人間のすべてを形作っている気がした。
一ヶ月後、体調が回復したと医師は言った。
執事も侍女たちも、その事実を嬉しそうに語り、両親は安堵の表情を浮かべた。けれど、その「良かったですね」という言葉を受け取る私は、何の感情も抱けなかった。
回復とは、一体何なのだろうか。
体が動くようになり、会話ができるようになり、食事が喉を通るようになれば、それで回復と言えるのか。
では、壊れてしまった心は? 冷え切った胸の奥は? 何もかもを諦めたこの気持ちは? それも回復の一部に含まれるのかと問いたかった。
だが、問う意味はないと知っている。答えなど求める必要もない。私はただ生きている、それ以上でも以下でもないのだから。
「アリシア様、お加減はいかがですか?」
侍女のエリーナが、優しく声をかけてきた。
彼女の微笑みは完璧だった――まるで劇場の舞台で披露される演技のように、正確で、非の打ち所がない。きっと、誰にでも同じ笑顔を向けているのだろう。
私は彼女を見つめる。
言葉を選ぶ必要すら感じない。ただ、短く答えるだけで済むことだった。
「大丈夫よ」
それだけ。何も足さず、何も引かない。
彼女の顔に浮かんだ一瞬の困惑を、私は見逃さなかった。だが、それに対して何かを思うこともなかった。困惑しようが、怒りを覚えようが、それは彼女自身の問題だ。私には関係がない。
「そうですか。それは良かったです」
エリーナは言葉を継ぐものの、その声は明らかに迷いを帯びていた。
私が以前ならどのような反応を返したか、彼女は記憶の中から引き出そうとしているのだろう。だが、無駄だ。以前の私はもうここにはいないのだから。
家族の夕食の席も、同じだった。
「アリシア、今日は鶏肉の煮込み料理だよ。お前の好きなものを用意させたんだ」
父が得意げにそう言った。彼の声には、いつもの威厳が漂っている。
だが、私にはそれがわずかに空回りしているように聞こえた。父が「娘を喜ばせようとしている」という意図を滲ませているのが、あまりにわかりやすかったからだ。
「ありがとう、いただくわ」
短く応じる。その言葉が食卓にどう響いたのかは、気にしなかった。ただ、それが必要な反応であることを理解して言葉を発しただけだ。
母がフォークを止め、私をじっと見つめる。以前なら「まぁ、素敵ね」とか、「お父様に感謝しなさいね」といった言葉が自然に出た場面だろう。だが、今はそれすらも消え去っている。
「アリシア、本当に大丈夫なの?」
母の声が上擦る。そこに含まれるのは、心配というよりも困惑だった。
彼女もまた、私がいつもの「アリシア」ではなくなったことを感じているのだろう。
だが、それをどう受け止めれば良いのか分からない。それが、彼女の言葉の奥からにじみ出ている。
「大丈夫よ」
もう一度、同じ言葉を返す。二度目の「大丈夫」が一度目と変わらない響きだったことに、母は再び目を伏せた。
「……なんだか、変ね」
母が呟いた言葉に、父が頷くのが視界の隅に映る。
変――その言葉は的を射ているかもしれない。だが、それがどうしたというのだろうか。
私は変わった。それだけだ。それが良いことなのか、悪いことなのかは私には分からないし、判断する意味もない。
ただ一つ確かなのは、私が周りに何も期待しなくなったこと。期待がなければ、失望することもない。だからこそ、私はこうして生きていける。
私の「変化」が彼らを困惑させ、慌てさせる。それが分かっていながら、私は何も感じない。以前の私なら、その反応に痛みや罪悪感を覚えたかもしれないが、今の私にはそれすらもない。
表情を失った私に向けられる視線の重さ。その視線の先にあるのは不安、疑念、そして少しの恐怖――だが、それも私には届かない。私はただ、静かにこの空間に存在する。それで十分だ。
周囲の人々が私の中に「何もない」ことを恐れるのなら、それは彼らの問題だ。私はただ、こうしてここにいる。それだけで満足しているのだから。