来訪
「……で、一体どれくらい悪いんだ?」
その声に含まれる乾いた響きが、私の期待を一瞬で砕いた。いや、期待などするべきではなかった。侍女エリーナの言葉が耳に残る。来ないほうが、むしろ良かったのかもしれない。
けれど、目の前のアルノー様を見た瞬間、そんな考えは頭から吹き飛んだ。私は無意識に手を伸ばし、彼の姿を求めてしまう。
「……来てくださったのですね」
自分の声がどれほど震えていたか、私は気づいていた。それでも、彼に届いてほしい。ただ、その場に立っているだけの彼が、私にとってどれほど大きな意味を持つかを伝えたかった。
彼は立ったまま、ちらりと私を見る。ほんの数秒の視線。それだけで、また私の心に空虚が広がる。
「一応婚約者として、君の容態を確認するのが僕の役目だからね。何か必要なものはあるかい?」
一応――そう言ったの?
彼にとって、これは義務の一環に過ぎない。彼が口にした「来る理由」は、彼がそこにいなければならない理由そのものであり、私自身ではなかった。
「いいえ……特には」
答える声がか細くなった。けれど、まだ彼がここにいることだけが、私を繋ぎ止めている。
「そうか。それなら良かった。お大事に」
そう言って、彼は踵を返そうとする。あまりにもあっさりと、何のためらいもなく。まるで、ここでの彼の時間は一瞬たりとも無駄にできないものだと言わんばかりだった。
「待って!」
声が枯れ、喉が軋む。それでも、彼の背中に向けて叫んだ。
「行かないで、ください」
彼の歩みが止まる。振り返る彼の表情には、明らかな困惑が浮かんでいた。それは、憐れみではない。怒りでもない。ただ、少し厄介だと思っているような顔だった。
「アリシア、僕は忙しいんだ。今日はこの後も予定がある。それに、君はゆっくり休んだ方がいい」
そうして再び彼が背を向けた瞬間、私は思わずベッドから手を伸ばした。震える腕を無理やり動かし、彼の袖を掴む。
「お願いです……もう少しだけでも……」
手に触れた彼の袖の感触は、冷たかった。私の指が掴む力も弱く、すぐに崩れ落ちそうだった。それでも、この瞬間だけは手放したくなかった。
「……私は、ずっと待っていたのです。アルノー様が来てくださるのを……ただ、それだけを……」
涙が止まらない。言葉にすればするほど、私がどれだけ惨めかを痛感する。それでも言わずにはいられない。彼がこの部屋を去れば、私にはもう何も残らないのだから。
彼が小さくため息をついたのが聞こえた。そして、袖を掴む私の手をそっと外す。その動作は、どこか優しげで、それがなおさら辛かった。
「……僕がここにいても、君のためにはならないよ、アリシア」
彼の言葉が、私の中の何かを砕く。私のためにならない――それなら、彼はここにいる意味がないということだろうか。
いや、最初から彼にとって、私の存在そのものが「無意味」なのだと、これ以上なくはっきりと告げられたような気がした。
「どうか……どうか、もう少しだけ……」
最後の懇願も、彼の背中には届かない。アルノー様は、振り返ることもなく部屋を出ていった。扉が閉まる音が響き、再び静寂が戻る。
その瞬間、私は自分の手を見つめた。掴もうとした袖も、掴む力も、どこにもない。ただ、震える指先が残っているだけだった。
「――行かないで、一人にしないで、お願い……」
その言葉を何度繰り返しても、扉の向こうにいる彼には届かない。届くことのないその言葉が、虚しく部屋の中にこだました。