獣人は番を選ぶ。【 番 】
ヒト族の王国、王都の商会裏口に面した路地で、二歳ほどの子どもが遊んでいた。
黒髪に黄金色の瞳、ふくふくとした健康そうな男の子だ。
路地の入口に背中を向けて立っていた男と毬投げを楽しんでいた男の子は、現れたフリオの姿に顔色を変えた。
「とーちゃ!」
怯えた顔をした男の子に、毬投げ相手が駆け寄って抱き上げる。
子どもを抱き上げた男が振り向いた。
ふたりはどちらもヒト族で髪色も同じ黒だが、男の瞳は青い。
「フリオ卿……今さらなんのご用でしょうか?」
怪訝そうな表情だ。抱き上げられた男の子のほうは安心しきった顔をしている。
熊獣人のフリオは三年前まで、この商会と取り引きをしていた。
いずれフリオが継ぐことになる獣人国の侯爵領で山火事が起こり、焼け落ちた麦畑から失われた収穫を補填してもらっていたのだ。今はもう、他国の商会に頼らなくても自領だけで賄えている。
「彼女の母親の形見が見つかったので、届けに」
「そうですか! それは良かった。ありがとうございます、彼女が喜びます」
「かーちゃ、よろこぶ?」
嬉し気な男に頷かれて、男の子はフリオに対して『あーとう』と言った。
ありがとうのつもりだろう。
賢い子だ、と思ってフリオは泣きたくなった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
商会の応接室で久しぶりに会った商会の跡取り娘は、フリオの番ではなかった。
獣人にとっての番は神に与えられた運命の相手だ。
男性は番以外の相手と交わっても変わらないが、女性は番以外の相手と交わると番を認識するための魔力が変わってしまう。
フリオが母親の形見を渡すと、跡取り娘が笑顔になった。
「まあ、ありがとうございます。もう見つからないと思っていました。……切れ目が」
彼女の母親の形見は腕輪だった。今は切れ目が入れられている。
「すまない。俺の……今の妻が二の腕に嵌めるために切れ目を入れたんだ。上から包帯を巻いて隠していた。君の魔力を纏うことで俺を騙していたんだ」
六年前の秋、フリオは侯爵領で失われた小麦の補填を願ってこの商会へ来た。
獣人国のほかの貴族家や商会との契約もあったし、なにより侯爵領の領民が冬を越せるだけの小麦もなかったからだ。
商会は伝手を使い無理をして、侯爵領のために小麦を集めてくれた。
「どうして……」
フリオは跡取り娘を見つめる。三年前まで、フリオは彼女の夫だった。
「どうして番だと言ってくれなかったんだ。君が番ではないと言い張るから、俺は君への想いは恋情だと思わされてしまった。ちゃんと番だとわかっていれば、今の妻になど騙されなかった!」
フリオの母はヒト族の平民である彼女を嫌っていた。
自分の遠い親戚に当たる今の妻を娶らせようと、以前から画策していた。
しかしフリオは三年前まで今の妻を恋愛対象としては見られなかった。今の妻が二の腕に包帯を巻いて現れるまで、フリオの最愛は目の前の女性だったのだ。
「……祖父が獣人だったので、私も父も獣人の血を引いているんです」
跡取り娘は母親の形見の腕輪を見つめながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「祖父は祖母を番だと言って結婚しましたが、祖母が父を身籠ると番ではなかった、騙されたと言って去っていきました」
「……騙したのはその獣人のほうだな。そういう詐欺師がいることは知っている」
「祖父は騙したのではなかったのではないか、と父は考えています。もちろん祖母が祖父を騙したわけではありません」
「番を誤ったというのか? いや、ないとは言い切れないな。相手が番の魔力が染み込んだものを持っていたら、騙されてしまうかもしれない。俺もそうだった」
「それもありますが……どうやらヒト族の女性は、身籠ると子どもの魔力のほうが強くなるようなのです。父は母を番だと感じていたのですけれど、母が私を身籠るとその感覚が薄れたと話してくれました。それでも父はヒト族として生きてきたので、番かどうかよりも母が母であることのほうが大事だったと言っていました」
父親は母親が自分を産み落とすと、また番だと感じるようになった、と跡取り娘は言葉を続ける。
「フリオ様が私を番だとおっしゃったとき、正直に言うと私も同じことを感じていました。でも父が言ってくれたのです。私が番と認めて結婚した後で、貴方が身籠った私を番だと感じなくなったら、番を偽ったとして親子ともども罰せられてしまうかもしれないと」
「……だから君は番ではないと言い張ったのか。結婚したとき、俺に番が現れたら離縁するという契約を結んだのはなぜだ?」
普通ヒト族が獣人族に乞われて結婚するときには逆の契約を結ぶ。
獣人に番が現れても離縁しない、という契約だ。
離縁しないという契約で保護しておかなければ、番が現れた途端、獣人がヒト族を放り出してしまうかもしれないからだ。
「私に流れる獣人の血は祖父から伝わったわずかなものですし、フリオ様だって勘違いなさっているかもしれないでしょう?……今はそれで良かったと思っています。フリオ様は誠実な方だから、離縁の契約を結んでいなければ私との結婚を継続させようとなさったでしょう? あのとき、すぐに離縁していなければ」
跡取り娘は、ふっと応接室の扉のほうへと視線をやった。
すぐそこにいるわけではないが、商会の建物内か近くにいる黒髪の男の子のことを思っているに違いない。
獣人族はヒト族よりも強い魔力と身体を持つ代償として出産率が低い。番がもてはやされるのも、番同士なら確実に子どもが出来ると思われているからだ。もしすぐに離縁しないまま彼女が身籠っていることがフリオの両親に知られていたら、あの男の子は今ごろここにはいられなかっただろう。
母と子が引き裂かれるだけではない。
フリオが離縁を受け入れなかったら、ヒト族を嫌う侯爵夫人がなにをするかわからない。
父である侯爵は目の前の彼女を厭うことはなかったけれど、夫人の意見に逆らうこともなかった。今の妻を番と信じていたフリオが、責任感だけで夫婦関係を継続させている女性を守り切れたとも思えない。
「君はこの腕輪を大切にしていた。いつ無くしたのか聞いても良いだろうか」
「……ひとりで街へ買い物に行ったとき、引ったくりに襲われて。財布は奪われなかったのに、この腕輪だけ」
「そうか……」
普通なら侯爵家跡取りのフリオを夫に持つ彼女がひとりで買い物に行くはずがない。
お忍びで行きたがっても侍女と従者が離れないだろう。
生まれ育ったヒト族の国ならまだしも、慣れない獣人族の国ならなおさらだ。
(つまりそれが、我が家における彼女の扱いだったということだ。おそらく彼女が身籠って子どもの魔力のほうが強くなっていたために、俺の関心も薄れていた)
今の妻はフリオに、腕輪は落ちていたのを拾ったのだ、と言った。
「あの子が大きくなったら、貴方が父親であることを伝えようと思っています。それからどうするかは、あの子が決めるでしょう」
「……」
今の妻は身籠っている。
フリオは、生まれてくる子どもは自分の子ではないのではないかと疑っていた。
今の妻と離れてフリオが侯爵領へ行っていた時期に身籠ったのではないかと思われるのだ。番という触れ込みで結婚したのに、なかなか身籠らない今の妻は侯爵夫人に責められていた。浮気をしてでも身籠りたいと思っても不思議はない。
フリオは目の前の女性を見た。
再婚しても、今の妻が番なのだと思い込んでいたときも、なにかあると心に浮かび、会いたくてたまらなかった女性だ。
彼女が身籠るのが遅かったのは、ヒト族の国とは環境も風習も違う獣人族の国へ嫁いで来て、慣れるのに時間がかかっていたからだろう。
フリオが運んできた腕輪は、今も番としての魔力を放っているのに、目の前の女性からはそれを感じない。
彼女が再婚したからだ。
番でない男性を選んだ女性から番としての魔力が消えてしまうのは、獣人男性が野性の獣のごとく力尽くで番を奪わないようにだと言われている。
「フリオ様は初めて私に会ったとき、俺の番だ、とおっしゃいましたね。三年前も帰って来るなり、本当の番と会った、と……今の夫は、私のことを名前で呼んでくれるんです。番でありさえすればだれでも良いのではなく、この世にただひとりの私として愛してくれているんです。私は今、幸せです」
「……」
(俺は何度も君の名前を呼んだ……愛しい君の名前を呼ばないはずがない!)
だが今さらそんな話をしても無駄なのだと、フリオにはわかっていた。
再婚した彼女から生まれたことも知らなかった息子を取り上げることも出来ないし、したくもなかった。
これ以上嫌われたくはないのだ。
(大切なのは番かどうかではなく、愛しているかどうかだったのに!)
獣人は番を選ぶ、選んでしまう。少なくともフリオは選んでしまった、偽りの番を。
そして、フリオの本当の番はもういない。
どこにもいなくなってしまったのだ。
<終>