ずっと地獄にいれば良い。
きっと私は地獄に落ちるのでしょう。
マリアンヌに酷いことをしてしまったのですから。
それでも私は後悔していませんわ。あの日望んだ復讐が成し遂げられそうなのですもの。
★ ★ ★ ★ ★
「父上! どんなに反対されても、僕はリュゼと結婚する! 彼女を愛してるんだ!」
王都の伯爵邸の一室で、この家の跡取りであるローランは叫んだ。
母親であるカトリーヌ夫人に似て美しい彼の隣には、彼とは系統が違うものの人目を奪う美しさを持った少女が立っている。
ローランの恋人リュゼである。
この王国の貴族子女が通う学園にローランが入学する年に、カトリーヌ夫人が自身の世話係として孤児院から引き取った少女だ。
彼女は学園にこそ通わなかったが、引き取られてからの六年間、常にローランとともにいた。
彼の婚約者で後に妻となり、三年間の白い結婚の末に先日離縁されて伯爵邸から追い出された子爵令嬢マリアンヌよりも、ずっと。
息子の言葉に、伯爵家当主ジュリーは眉間に皺を寄せる。
マリアンヌの実家の子爵家は伯爵家と共同事業をおこなっていた。
政略結婚だが貴族の家では当たり前だし、ローランもリュゼが現れるまではマリアンヌに好意を抱いているように見えた。
ジュリーは妻に視線を投げた。
彼女は言葉を発しない。
カトリーヌはなぜかこのリュゼという少女がお気に入りなのだ。少なくとも周囲にはそう思われていた。三年前、結婚式の直前にローランがマリアンヌとの婚約を解消してリュゼと結婚したいと言ったときも、反対する素振りは見せなかった。
(マリアンヌを嫌っていたわけではないはずなのに)
ジュリーは思う。
伯爵家と子爵家は当主夫婦同士が友人関係にある。子爵は学園在学中から、伯爵が愚行を晒した際には苦言を呈してくれる良い友であった。
息子に姉妹がいないぶん、妻はマリアンヌを実の娘のように可愛がっているのだとジュリーは認識していた。
(いや、可愛がっていたからこそ、心の離れたローランとは結婚させるべきではないと思ったのかもしれない)
考えながら、ジュリーは息子を見た。ローランが叫ぶ。
「父上、リュゼは僕の子どもを身籠っているのです。伯爵家の跡取りです。どうか結婚を認めてください」
(こんな息子と結婚させてしまった詫びも含めて、マリアンヌと子爵家には謝罪をしなくてはならないな)
三年前は、リュゼと引き離してマリアンヌと結婚させてしまいさえすればローランが改心すると思った。
だからカトリーヌを説得して、手切れ金を渡してリュゼを伯爵邸から追い出した。
なのにローランは、下町にリュゼを囲って関係を続けていたのだ。
(別れさせて、ほかの貴族令嬢と再婚させても相手を不幸にするだけだ。この娘のことは伯爵家の跡取りを産むだけの人形だと考えよう)
溜息をついて、ジュリーは息子に首肯した。
「わかった。ふたりの結婚を認めよう」
「ありがとうございます、父上! 僕達の真実の愛が認められたよ、リュゼ!」
「嬉しいわ、ローラン!」
「ふふ……」
妻のカトリーヌも喜んでいるようだ。
しかし、とジュリーは首を捻る。
カトリーヌはリュゼのような少女を嫌っていると思っていたのだ。儚げな外見や低い身分、相手のいる男性に擦り寄る行為──ジュリーの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。伯爵は思い出してしまったのだ。
「ふ、ふふふ、ふふふ、あーっははははは!」
「母上?」
「小母様?」
いきなり狂気を帯びた笑い声を上げたカトリーヌに、ローランとリュゼは戸惑いの表情を向けている。
ジュリーはリュゼを見つめていた。
思い出したくないのに思い出してしまった記憶が、彼女によく似たべつの女性の面影を記憶の淵から浮かび上がらせる。
(どうして気づかなかったんだ。この娘はこんなにもエーヌに似ているのに! 髪と瞳の色が私と同じだったというだけで!)
「ローラン、リュゼ、結婚おめでとう」
「は、はい。ありがとうございます、母上」
「小母様のことをお義母様と呼べるなんて幸せです!」
「ま、待てっ! やはり結婚は許せないっ!」
ローランとリュゼが瞳を見開く。
「まあ、どうしてですの、貴方。一度認めておいて取り消すだなんて、若いふたりが……お腹の子が可哀相ですわ」
ジュリーの妻は感情の窺えない微笑みを浮かべている。
リュゼに似たエーヌとは、ジュリーが学園に在学していたころに、伯爵家で下働きをしていた平民の少女だ。
とても美しく、ジュリーはひと目で恋に落ちた。エーヌもジュリーを愛していると言った。
あのときのジュリーにとっては婚約者のカトリーヌのほうが邪魔者だった。
彼女がエーヌを責めるのは当たり前のことだったのに、貧しくても懸命に生きているエーヌを虐めるだなんて酷い女、冷たい女だと罵っていた。普通の貧しくても懸命に生きている人間は、婚約者や配偶者のいる相手に擦り寄ったりしないのに。
最終的にジュリーはリュゼに身籠ったと告げられると敵の首でも獲ったかのように息巻いて、カトリーヌに婚約破棄を宣言したのだった。
盗賊団の引き込み役だったエーヌが捕縛されたのは、それから数日後のことだった。
前に襲った家からの戦利品を分配している場で自分の分け前を選んでいたところだったのだから、冤罪なわけがない。
そのままエーヌはいなくなり、カトリーヌとの婚約破棄は無かったことにされた。
(今はそれで良かったと思っている。盗賊団の引き込み役でなかったとしても、エーヌは平気で不貞をするような女だ。きっと上手くは行かなかっただろう)
最初はカトリーヌに冷たく当たっていたジュリーだが、穏やかな日々が不貞で舞い上がった頭の中を落ち着かせてくれた。
やがて息子のローランも生まれて、ジュリーはこれが幸せなのだと理解した。
エーヌが身籠っていた子どもについて案じたことなどなかったし、本当は最初から自分の子どもではなかったのだろうとも思っていた。エーヌは盗賊団の頭の女でもあったのだ。
次のジュリーの言葉を待つ三人から視線を逸らす直前に、リュゼの姿を盗み見る。
捕縛後に王都の大広間で処刑された頭とは髪と瞳の色が違う。
ほかの団員にも同じ髪と瞳の色はいなかった。ジュリーとエーヌの組み合わせでなければ、きっとリュゼにはならない。
(エーヌの処刑だけ一年後だったのを不思議に思っていたが、身籠っていた子どもを出産してからだったからか)
処刑されるエーヌの姿を見ても、ジュリーは涙が出なかった。
最後まで見届けなくてはいけないと思って処刑場に来たものの、着いたときから早く家へ戻ってカトリーヌに会いたいと考えていた。
日々の鬱憤を罪人の処刑で紛らわせている人々の喧騒と、処刑されたほかの罪人達の血肉の匂いで生じた吐き気を我慢していたことだけは忘れられずにいる。
「……お前達の結婚は、結婚は……許そう」
消え入りそうな声でジュリーは告げた。
近親婚はこの王国の神殿に禁じられている禁忌のおこないだ。
だが罪人の母から生まれて孤児院へ送られたリュゼの出生はあやふやで、証明することは出来ないだろう。むしろ今さら告発しても、なぜ出会ったときに気づかなかったのだと、ジュリーのおこないに疑惑を持たれるに違いない。伯爵家に醜聞が生まれるだけだ。
エーヌの顔を覚えているのは、今はジュリーとカトリーヌしかいない。
ジュリーの両親の先代伯爵はもう亡くなっているし、エーヌとのことを相談するジュリーを窘めてくれた子爵は彼女と直接会ったことはない。
家令は代替わりしているし、エーヌと接していた使用人達も入れ替わっている。
王都の伯爵邸の一室で、ローランとリュゼは歓声を上げていた。
カトリーヌは幸せそうな笑みを浮かべている。
ジュリーの大好きな表情だ。
そしてジュリーは地獄にいた。
これからも、ずっと見つめ続けなくてはいけないのだ。
自分そっくりな息子と自分の罪の証が禁忌をおこない続ける姿を──
★ ★ ★ ★ ★
私の復讐を止める機会は何度もあったのです。
リュゼを伯爵家に入れたときジュリー様が気づいていたら、私は復讐など忘れて彼女をローランの異母姉として迎え、良きところへ嫁がせていたでしょう。
なのにジュリー様は髪と瞳の色が違うというだけで、私を捨ててまで結ばれようとした真実の愛のお相手の顔も思い出さなかったのです。
あのときのことなどなにも教えていないのに、ローランまで真実の愛だとか言い出すものだから、思わず吹き出してしまいましたわ。
ジュリー様とローランはよく似た親子です。
ローランに私は、愛しい息子と感じる気持ちと、父親と同じ不貞男だと嫌悪する気持ちと、何度窘めてもリュゼとの関係を終わらせなかった愚かさへの空虚な絶望を抱いています。
いっそこの子にも早々に見切りをつけられたら良かったのかもしれません。きっと思い直してくれる、ジュリー様と同じ過ちは犯さないと、期待していたのが悪かったのです。
リュゼとローランが恋仲になったとき、あの娘を追い出しても良かったでしょう。
私は罪人の娘だからといってリュゼを見下すつもりはありませんでしたが、母親と同じように相手のいる男性に擦り寄る姿を見せられたことで、すでに見切りをつけていました。本当に親子というのは似るものですね。
ジュリー様に言われたら、逆らわずリュゼを追い出していましたわ。
なのにジュリー様は、いずれ政略結婚をするのだから若いうちは恋をしても良いだろう、なんておっしゃってふたりを見逃したのです。
顔も覚えていない真実の愛のお相手との恋は、ジュリー様にとっては良い思い出として昇華されていたようですわ。
相手は伯爵家を襲って金品を奪い、皆殺しにするつもりだった盗賊団の引き込み役でしたのに。私は……まだなにも忘れられていないのに。
──エーヌは私を呼び出して、ジュリー様との睦み合いを見せつけました。
自分のほうがジュリー様に愛されているのだと自慢しました。
なぜそんなことをしたのでしょう。私の嫉妬を煽ってジュリー様と対立させることで、彼の愛情を燃え立たせようとしていたのかもしれません。仲間が伯爵家を襲うまでは、なにがあってもジュリー様に庇われて居座れるように。
マリアンヌとの結婚を強行したのも悪手でした。
共同事業のこともあるし、ジュリー様が子爵との友情を失いたくなかったのだろうということはわかります。
でも悪手です。
私がもっと積極的にローランの望む婚約解消を後押しすれば良かったのかもしれません。
だけどマリアンヌに、小母様も私をお嫌いですか、と問われて胸が潰れそうになったのです。私のとき、先代伯爵夫人は最後まで私の味方をしてくださいました。
それに、可愛い息子のローランが道を踏み外すのを望んでいたわけではないのです。
ごめんなさい、マリアンヌ。
案の定すべてが最悪の結末を迎えました。
ジュリー様に婚約破棄を言い渡されたとき、心に誓った復讐は成し遂げられそうですけれど。
あのときの私が望んでいた復讐とは違っている気はしますが、それでも復讐は復讐です。
……もしリュゼが良い子で不貞を働かずに我が家からどこかへ嫁いでいれば、息子のローランが父親とは違い色欲に惑わされないでいれば、ジュリー様がリュゼに気づくか厳しい処置を取っていれば、復讐など忘れて……いいえ、考えても仕方がありません。
ローランに関しては、母親の私の育て方も悪かったのでしょう。もしかしたらジュリー様そっくりなローランが色味以外エーヌに生き写しのリュゼと親しくしている姿を見た時点で、私は狂ってしまったのかもしれません。
マリアンヌが良い方と出会って、これからは幸せな人生を送ってくれることを祈っています。
……私のようにはならないでね。
いずれ私はローランとリュゼに真実を告げます。そこで私の復讐は終わるのです。ええ、後悔なんかしていません。
愚かなジュリー様とその分身のローラン、あの薄汚いエーヌは死に逃げしたものの生き写しの毒婦リュゼ、そして浅ましい恋慕と憎悪で狂った私は、これからもずっと地獄にいれば良いのです。
<終>




