前世の恋人
「ホアナ、僕は前世の恋人と再会した。婚約を解消して欲しい」
侯爵令息エリベルトは、幼いころからの婚約者である公爵令嬢ホアナをずっと愛せないでいた。
先日、ふと足を踏み入れた下町で美しい平民の少女ブルハに会って、エリベルトはその理由がわかったような気がしていた。
ブルハはエリベルトの前世の恋人だったのだ。
(そしてホアナは前世の僕の妻で、僕の子どもを身籠った愛妾、前世のブルハを毒殺しようとした女だ!)
そんな女を愛せるはずがない、とエリベルトは思う。
ブルハに出会って記憶が戻る前から、エリベルトには前世の残滓があったのだろう。
それでホアナを愛せなかったのだ。
前世のエリベルトは国王だった。
もう今は滅んでしまった古い王国の王だ。
毒を飲まされた愛妾は無事だったものの、国王の血を引くお腹の子どもは亡くなってしまったため、前世の妻である王妃は処刑された。
(それ以降のことは思い出せないが、きっとブルハの前世と幸せに暮らしたに違いない。今世でもこんな女との因縁は断ち切って、ブルハと幸せに生きるんだ)
「……わかりました」
ホアナはエリベルトが驚くほどあっさりと婚約解消を受け入れた。
互いの両親が反対したら説得してくれるとまで言う。
もしかしたら、とエリベルトは考える。
(彼女にも前世の記憶があったのかもしれない。それで僕に執着していたが、僕の真実の愛の相手が現れたことで諦めた。前世のように罪を犯して罰せられたくないと思ったのだろう。あるいは前世で自分が仕出かしたことへの罪悪感に苛まれたのか)
エリベルトが侯爵家の跡取りの座から退き、分家の次男で婚約者のいなかったヘルマンが代わりにホアナを娶って本家を継ぐということで、すべてが解決した。
身分や財産と引き換えに得た真実の愛は、エリベルトを満足させた。
侯爵家の持っていた子爵位を与えられて侯爵領境の砦の管理を任されたエリベルトは妻としてブルハを迎え、幸せな暮らしを始めたのだった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──ブルハと結婚して一年と少し経ったころ、
「……どういうことだ?」
数ヶ月間束縛されていた砦の管理から子爵領の館へ戻ったエリベルトを待っていたのは、生まれたばかりの嬰児の遺体だった。
首に残った痛々しい指の跡が死因だろう。女性の指だ。
遺体で嬰児なのでわかりにくいけれど、知っているだれかの顔に似ている気がした。
布に包まれた遺体を抱く家令が答える。
「奥方様の寝台の下に隠されていました」
「ブルハの?」
もう一度どういうことだ、と聞き返しかけて、エリベルトは口を閉じた。
聞くまでもない。
ブルハが殺したということだ。
「どうして……」
「奥方様が身籠っていらっしゃるのではないかという噂は、館の中でも囁かれておりました。けれど旦那様が砦へ行かれていた時期と照らし合わせると、どうにもおかしくて……みなの勘違いかもしれないと思い、奥方様ご自身が口にされるまでは、とご報告を控えておりました」
「そうか……」
言いながら、エリベルトは嬰児がだれに似ているかに気づいた。
下町で暮らしていたブルハは孤児院出身で、エリベルトの求婚を受けた後で同じ孤児院出身の人間を何人か子爵家で雇えないかと相談してきた。
規模が小さい子爵家では雇うことは出来なかったが、新しい跡取りとなったヘルマンに頼んで侯爵家に雇ってもらった。その何人かに含まれていた青年に似ていたのだ。
(もしかしたら前世の記憶が戻るまで、ブルハはあの青年と恋仲だったのかもしれない。僕がいないときに押しかけられて、無理矢理……いや?)
そもそもブルハは前世の記憶を思い出していたのだろうか、とエリベルトは今になって疑問に思った。
求婚は受け入れてくれた。エリベルトの愛にも応えてくれた。前世の話をいつも楽しそうに相槌を打ちながら聞いてくれた。
だがエリベルトは、ブルハの口から前世の記憶が語られるのを聞いた覚えがなかった。
「その赤子は丁重に弔ってやってくれ。隠していたのを見つけたことはブルハには言うな」
「はい。それと旦那様……」
「ほかにもなにかあったのか?」
「旦那様が侯爵家へ紹介した奥方様のご友人が、侯爵領の領民の家を襲って亡くなりました。その家の家長が元兵士で腕に覚えがあったため返り討ちにされたのです。名前は……」
家令に教えられた名前は、エリベルトが嬰児に似ていると思った青年のものだった。
襲われた家には生まれたばかりの子どもがいて、その子の髪と瞳の色はエリベルトと同じだったと家令は続ける。
どんなに良いように考えようとしても、家令に伝えられた情報を組み合わせれば導き出される事実はひとつだった。
ブルハは浮気をしていた。
そして、それを誤魔化すために彼女はエリベルトに似ていない我が子を殺し、情夫はエリベルトに似た子どもを攫おうとして死んだのだ。
子どもを攫おうとしたのは、妊娠していたと使用人達に指摘されたときに備えてだろう。
もしかしたら攫った子どもも殺して、エリベルトの子どもだったけれど……と言い逃れをするつもりだったのかもしれない。
とりあえずエリベルトは、ブルハには青年の事件については伝えないよう家令に命じて、侯爵家のヘルマンに手紙を書いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
家令の報告を受けてからしばらくして、エリベルトは生家の侯爵家を訪れた。
紹介した青年の不祥事について詫びるためだ。
エリベルトの両親は養子にした新しい跡取りヘルマンと公爵令嬢ホアナの結婚を機に当主の座を譲り、今は王都の別邸で隠居暮らしをしている。
犯人が返り討ちに遭って死んだとはいえ、事件自体が消え去るわけではない。
身内だからこそ、きちんとした謝罪が必要だった。
若き侯爵家当主ヘルマンとの長い話し合いを済ませ、エリベルトはずっと聞きたかった話題に水を向けた。
「先触れの手紙に書いていた件なのだが、ホアナ……ホアナ夫人はどうおっしゃっていたかい?」
「前世の記憶についてだったね。君が国王でホアナが王妃、あのブルハ夫人が愛妾だったという……婚約解消の際に前世がどうこうと言われたときは、浮気を誤魔化すための君の戯言だと思っていたけれど、どうやらホアナにも覚えがあるようだよ」
ヘルマンは少し不機嫌そうに言った。
分家の跡取りは彼の兄だった。成人後は独立して自分ひとりで人生を築く予定だった彼にとって、ホアナとの結婚と侯爵家本家の相続は降って湧いた幸運だっただろう。
彼はその幸運を受け入れ、ホアナを愛し大切にしていると聞いている。妻が前世でほかの男、それも自分が良く知っている人間と夫婦だったなんて聞いて気分が良くなるはずがない。
「王妃と、愛妾に夢中な国王は白い結婚だったそうだ」
少しだけ口元を綻ほころばせたヘルマンに、エリベルトは首肯した。
エリベルトもそれを覚えている。
国王はだれよりも愛妾を愛していたが、王妃の実家の後ろ盾と幼いころからの妃教育を終えた有能な彼女自身を失うことは出来なかったのだ。
それからヘルマンは、少しだけ眉間に皺を寄せて続ける。
「王妃は幼いころから国王を愛していたらしい。あくまで前世の、ホアナとは関係のない女性のことだけどね」
「あ、ああ、そうだ。前世の王妃とホアナ夫人は違う。記憶を受け継いだだけの別人だ」
ちらりとヘルマンに視線を送られて、エリベルトは気づいた。
自分自身もそうだ。
前世の記憶があっても自分は国王じゃない。ブルハも愛妾ではない。
「とはいえ、長年の冷遇に疲れ果てて亡くなる前のころは愛情も消え果てたそうだ。国王との長い外遊が終わったら、自分から離縁を申し出ようと考えていたらしい」
「……」
ヘルマンの話を聞いて、そうだった、とエリベルトは思い出す。
愛妾が毒を飲まされたと聞いたのは長い外遊から帰国した直後だった。外遊の間、王国のことは宰相である王妃の父に任せていた。
王妃が愛妾を殺すのなら、外遊から戻るのを待つ必要はなかったのだ。
(国に残っている父親や自分の手のものに命じて、事故に見せかけて殺せばいい。国王に関与を疑われたとしても、ふたりが帰国するまでの間に証拠を処分出来る。わざわざ疑われる状況で毒殺する必要なんてなかった!)
エリベルトの背中を嫌な汗が流れる。
前世の国王は愛妾の懐妊を無邪気に喜び、毒によって彼女の子どもが喪われたことを心から悲しんでいたけれど、その子の父親は本当に国王だったのだろうか。
王宮の医師が詳しく確認していたら懐妊の時期がおかしいとわかったのかもしれない。
(だから、その前に自作自演で? 罪を着せるのにちょうど良い人間が帰国したから?)
今となっては真実を知るすべはない。
「ホアナは言っていたよ。王妃は愛妾と子どもを毒殺しようとしてはいない。あれは冤罪だったって」
「……」
「はっきりした記憶を思い出したのは君に婚約解消を言い出されたときだけど、その前から君を見るとずっと……恐怖を感じていたそうだ。それなのに婚約者として誠実に振る舞っていた彼女を俺は尊敬している」
ヘルマンとホアナが直接顔を合わせたのは、彼女がエリベルトとの婚約を解消して、彼が侯爵家の新しい跡取りに決まってからだった。
だが侯爵家の本家と分家は仲が良かったので、エリベルトはその前からヘルマンにホアナの話をしていた。
どうしても愛せないと愚痴を言うたびに窘められて、いつしかヘルマンにホアナの話をしなくなったのをエリベルトは思い出した。
「そういえばブルハ夫人に再会? したとき、君は前世の恋人だと気づいたんだよな?」
「あ、ああ?」
「前世の妻だとは思わなかったのか? 王妃を処刑した後も恋人のままだった?」
「それは……」
思い出せない。
「まあ国王だったとしたら身分や政治的な事情もあっただろうしな。でも……生まれ変わっても求められるほど愛されていながら、妻になれなかった女性はどんな気持ちだったんだろうね」
エリベルトは、侯爵領の領民を襲った青年とブルハの関係はヘルマンに話していない。
自分の紹介で受け入れられた人間だから謝罪しただけだ。
先ほど考えた前世の愛妾の懐妊時期についての考えも口にはしなかった。なのにヘルマンの考えは、エリベルトの心に浮かんだ疑惑に答えるようなものだった。
(前世の愛妾は生まれ変わっても国王に会いたいと思っていただろうか。ブルハは僕を愛したから求婚を受け入れてくれたのだろうか)
前世の恋人がどうのとわけのわからないことを言う人間であっても、エリベルトは侯爵家の息子だった。ブルハに求婚したときは跡取りでもあった。
下町で暮らす孤児院出身の女性に逆らえる相手ではなかっただろう。
もちろん身分や財産目当ての気持ちもあったに違いない。
エリベルトは前世についてヘルマンの妻に聞いたことも含めて、改めて謝罪をしてから帰路に就いた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
エリベルトがヘルマンのところから戻ると、ブルハは亡くなっていた。
だれからも聞かされていなかったのに、会えなかった期間で察したのか、青年が返り討ちに遭って死んだことに気づいたかららしい。
残されていた遺書らしき紙片には、エリベルトと命を奪った子どもへの謝罪が書き連ねてあった。
(もしもブルハとあの青年が生まれ変わって来世で再会したならば、自分達の前世は愚かな貴族に引き裂かれた哀れな恋人達だったと思うのだろうな)
エリベルトは、夢から醒めた。
前世も今世もずっと愚かな夢を見ていたのだと、今は理解していた。
<終>