彼女の願いを
王太子に婚約を破棄されて、侯爵令嬢は毒杯を賜った。
ふたりともまだ学園在学中だった。
妃教育で王家の秘を教えられる時期ではない。しかし残念ながら侯爵令嬢は優秀過ぎた。学園卒業後、結婚式直前に教えられるような知識まで修め終えていたのだ。
体質に合わなかったのか、毒杯を仰いだ侯爵令嬢は酷く暴れた。
周囲の人間を攻撃したわけではない。
彼女は毒で死にきれなかったときのために用意された短剣を掴み、自分の顔を相好がわからなくなるまで切り裂いてから亡くなったのだ。毒の苦しみを痛みで忘れようとしたのではないかと、立会人は証言した。
それから王太子の学園卒業までの間に、三人の少女がいなくなった。
三人とも侯爵令嬢の取り巻きで、王太子の学友達と婚約していた少女達だ。
「子爵令嬢は確かに死んだのだな」
四人の少女達がいなくなっても、学園生活は続く。
昼休み、学園の中庭で王太子に尋ねられて、名高い天才少年が頷く。
彼は平民の出だったが、たぐい稀な魔術の才能を見込まれて貴族家の養子となっていた。
彼は貧しい出自の反動か美しく華やかなものを好む。本人も美しい容姿の持ち主である。
子爵令嬢は、その美貌と燃える炎のような赤い髪に惚れ込んだ彼が、王太子の学友という立場を利用して前の婚約者から奪った少女だ。
彼女は今回の婚約破棄騒動後に少年へ意見して、怒った彼から学園に来るなと命令されて以降、王都の子爵邸に閉じ籠っていた。
「事故ということになっていますが、彼女が首吊り自殺をしたということは殿下もご存じのことと思います。僕は彼女の父親に呼び出されて子爵邸へ行っていました。侯爵令嬢のことで気鬱の病になった彼女が、僕との婚約解消を望んでいたのです。でも僕はどうしても受け入れられなくて、拒むと彼女は自分の部屋に戻り、そして……」
「そなたは遺体を見たのだな?」
「部屋の鍵穴からですが。その……縊死は体液を流出してしまうので、婚約者の僕に直接見せるのはしのびないと言われて……窓からの夕暮れの光で、彼女の赤い髪が煌めいていて、天井から縄で吊り下げられた体が、ゆらゆらと……」
言いながら、少年の体もゆらゆらと揺れる。
王太子の学友という自分の立場を利用して威圧的に接していたものの、彼は彼なりに婚約者を愛していた。
学園に来るなと言ったのだって、気の強い子爵令嬢が侯爵令嬢のことで王太子にも意見することを恐れたからだ。そんなことになったら、子爵令嬢だけでなく子爵家も少年も少年の養家にも累が及ぶ。
「そうか。伯爵令嬢は……」
「殿下もご覧になられたことと思います」
「ああ、そうだな……」
放課後の学園で人々の見つめる中、校舎の窓から落ちた少女がいた。
その顔は体が地面に辿り着くまでの間に校舎を囲む樹木の枝で傷つけられていて、相好がわからないほどぐちゃぐちゃになっていた。
王太子は、自分の隣で同じ光景を見ていた恋人のデスディチャが、顔がぐちゃぐちゃになるなんて侯爵令嬢と同じ、あの女の呪いだわ、と呟いたのを覚えている。
落ちた少女は伯爵令嬢だとされている。
顔が不明なので髪の色と状況から判断するしかなかったのだ。
実際、翌日から伯爵令嬢は学園に登校していない。伯爵令嬢は、今王太子が声をかけた騎士団長の息子の婚約者だった。
王太子は三人目の学友に声をかけようとしたけれど、彼はもういないことを思い出して唇を閉じた。
三人目の学友は国内でも有数の豪商の跡取り息子だった。
王太子の恋人であるデスディチャの異母姉の婚約者だった彼は、男爵令嬢が正妻だった母親と暮らしていた男爵邸の離れが焼失し、中から黒焦げの遺体が見つかった後で学園を退学して神殿へ入った。実家との縁も切ったという。正妻は数年前に亡くなっていて、見つかった遺体は一体だけだった。
「そなた達は、自分の婚約者の死は侯爵令嬢の呪いだと思うか?」
「「……」」
ふたりは答えない。
俯いて、王太子と視線を合わせない。
答えられるわけがない。王太子自身だって、侯爵令嬢が呪うのなら親友だった取り巻き令嬢達ではなく、己の立場も考えずに男爵家の愛人の娘に溺れた挙句、身勝手な婚約破棄をした自分のほうだと思う。
「……恐れながら殿下」
「うむ」
「侯爵令嬢は仲の良かった取り巻きを救うために命を奪っているのかもしれません。子爵令嬢は僕との婚約を望んでいなかった。前の婚約者を愛していたのです。でも僕は殿下のご学友という立場を利用して、彼女を縛り付けていました」
そこまで言って、天才少年は騎士団長の息子を見た。
騎士団長の息子は口を開かない。
下町の娼館に馴染みの娼婦がいる彼は、婚約者を愛していなかった。欲しかったのは婚約者の家の財力だ。婚約者の家も騎士団長の息子の家の権力を望んでいたので、意に添わぬ婚約を厭う伯爵令嬢の言葉を聞くものはだれもいなかった。
「男爵令嬢については聞くまでもない、な」
騎士団長の息子と同じで、男爵は金目当てで正妻を娶った。
正妻の産んだ娘を跡取りにすると言いながら、正妻と嫡子を離れに追いやって、男爵は母屋で愛人親娘と暮らしていた。
跡取りにすると言いながら、豪商とはいえ平民の男を嫡子の婚約者にしていた。その平民が王太子の学友に選ばれるほど優秀だったのは誤算だっただろうが、そのおかげで愛人の娘が王太子に見初められたのだから笑いが止まらなかったに違いない。離れが焼失して、後妻となった愛人ともども正妻と嫡子への虐待容疑で捕縛されるまでは。
両親が捕縛されたこともあり、王太子の恋人デスディチャはこの場にいない。
もう二度と会うことはないかもしれない。
王家が王太子とデスディチャの関係を許さないだけでなく、デスディチャは学園に通えるような状態ではなくなってしまったのだ。学園にも通えないような状態で、だれかの妻になることは出来ない。
「デスディチャは男爵邸の窓の向こうに、死んだはずの異母姉の姿を見たと言っていた。ちょっと嫌がらせをしただけなのに、異母姉が慕う侯爵令嬢のことで嘘をついただけなのに、と混乱して真実を話してくれたよ。私は侯爵令嬢がデスディチャを虐めていると聞かされて、彼女との婚約を破棄したのだが……」
侯爵令嬢は王太子を愛していた。
婚約した幼いころからずっと。
王太子の心がべつの女性に移っても、彼女は王太子を愛し続けていた。愛していたからこそ妃教育を急ぎ、王家の秘まで受け継いだ。婚約破棄されたら毒杯を賜るしかなくなった自分を憐れんで、王太子がずっと……ずっとずっとずっと側に置いてくれるのではないかと夢見て。
愚かな夢だと王太子は思う。
愚かだと思うが笑う気にはなれない。侯爵令嬢に傷つけられたと泣きついて来たデスディチャの言葉をすべて信じて、婚約破棄までした自分のほうがもっと愚かだからだ。
侯爵令嬢が自分の顔を切り裂いてから亡くなったのは、婚約破棄のときの自分が侯爵令嬢に、嫉妬に狂った醜い顔だと罵声を浴びせたからかもしれない。
──デスディチャが学園に戻ってくることはなかった。
当主夫婦も捕縛されたまま生涯を終えた。彼らは正妻親娘を離れに閉じ込めただけでなく、正妻の実家からの援助を着服し、正妻親娘には満足な食事すら与えていなかった。正妻の実家からも訴えられて、横領と殺害未遂で罰されたのだ。
デスディチャが心の病の療養をする神殿へ入って俗世を離れたので、跡取りのいなくなった男爵家は消え去った。
学園卒業後、王太子は自ら廃太子となり、新しい王太子となった弟の補佐を務めた。
天才少年は養家への恩を返すために魔術師を続けている。
騎士団長の息子は出奔して傭兵となり、若くして亡くなった。
★ ★ ★ ★ ★
……本当にねえ。
もしも冥府とやらで彼女と再会出来たなら、絶対に文句を言ってやりますわ!
私達まだ未成人でしたのよ?
学園を卒業していなかったのですからね。
そんな私達に顔のない屍を遺して、これを利用して自由になりなさい、だなんて、あんまりじゃありませんこと?
いくら彼女のお父様の侯爵やお兄様の次期侯爵がお力を貸してくれてもねえ?
でも確かに、死んだことにして逃げ出すしかなかったのも事実ですわ。
天才少年は子爵令嬢に執着していましたし、騎士団長の息子の場合は伯爵令嬢の実家もロクなものではありませんでしたし、私も……あのままだったら父と後妻に利用されていたでしょうし、異母妹が王太子の恋人だということで貴方の実家にも圧力をかけられていたでしょうし。
この件ではお力を貸してくださいましたけど、侯爵家が表立って王家に逆らうような真似は出来ませんものね。
彼女自身がそれを望んでいませんでしたもの。
子爵令嬢のときはご家族も協力してくださったので、彼女の部屋に死体を吊るして自殺したように偽装しましたの。
窓から入る夕暮れの光で、侯爵令嬢の金髪を赤い髪のように見せるのは大変でしたわ。
狭い鍵穴からの光景だから誤魔化されてくださったのでしょう。
でも……歪んでいたものの、天才少年は本当に子爵令嬢を愛していらっしゃいました。
学園に入学したてのころ、貴族家に引き取られていても平民の出だと虐められていた彼を気の強い子爵令嬢が救い出して、それが恋したきっかけだったのですって。
ええ、彼とともに殿下のご学友をなさっていたのですから、貴方もご存じですわね。
自分でもよくわからないまま殿下のご学友としての立場を使って子爵令嬢を無理矢理婚約者にしたこと、天才少年は密かに悔やんでいたのかもしれませんわ。
だから偽装だと気づいても黙っていてくださったのかも……なんて、考えても仕方がありませんね。
執着していたことも事実なんですもの。
これから子爵令嬢は、家を捨ててまでともに生きることを選んでくれた本来の婚約者と幸せになるのですわ。
彼女と同じ金髪だった伯爵令嬢は、しばらくはお仕事に生きるそうです。
きっとすぐ有名な商人になられることでしょう。
騎士団長の息子の家に目をつけられるほどご実家の羽振りが良かったのは、伯爵令嬢が考え出した奇抜な商品と見事な販売戦略のおかげでしたもの。
ご実家はもっとご令嬢を大切にするべきだったと思いますのよ。
いくら王太子殿下のご学友とはいえ、常に馴染みの娼婦を優先させるような方との婚約なんてねえ。
私は……私は貴方次第ですわ。
なにも言わずに計画を実行してしまって申し訳ございませんでした。
離れが焼け落ちて、とても驚かれたでしょうね。
私は彼女とはまるで違う黒髪だったので屍を黒焦げにするしかなかったのです。
貴方が正当な手段で父や後妻を訴え、私を救い出そうとしてくださっていることは存じていました。
そうなっていれば、結局は異母妹も破滅していたことと思います。
彼女がデスディチャを虐めていただなんて、すべて嘘だったのですから。
……まあ、多少厳しい言葉をかけていたのは事実ですけれど。
幽霊? 私が忘れ物を取りに帰ったときに目撃されたのかもしれませんね。
そんなことで気鬱になるほどか弱い異母妹ではないと思っていたのですが、驚きです。
それはともかく私は、私達は……彼女の最後の願いを叶えたいと思ってしまったのです。
彼女の屍によって私達が救われるという願いを。
もちろん彼女には彼女の欲望もあったのだとわかっていますわ、取り巻きという名の親友だったのですもの。
王太子殿下の御心に生涯消えない爪痕を遺すために、彼女は死んだのです。なんて愚かで、惨めで……激しい恋だったのでしょう。
彼女は死によって殿下を手に入れたのですわ。
知っている?
恋をした人間が愚かで惨めで、激しい情熱の炎に焙られて自分でもどうしようもなくなることを知っている、とおっしゃるのですか?
ふふふ、そうですわね。
貴方のいるこの神殿へ来て、ふたりきりで話せる部屋に入った途端抱き締められて口付けされたこと、忘れていませんわ。
……とても嬉しかったです。
貴方が私を捨てない限り、これからはずっと一緒にいますわ。
もう黙って妙な真似をすることはありません。
ええ、そうですね。
彼女もきっとこれからもずっと元王太子殿下と一緒にいらっしゃるのでしょう……ずっとずっとずっと。
彼女の願いはすべて叶ったのですわ。
<終>




