四通の手紙
この王国の貴族子女が通う学園の生徒会室の扉は、少しだけ開いていた。
室内では一組の男女が絡み合い、情熱的な口付けを交わしていた。
──生徒会長であるこの国の王太子と男爵令嬢である。
「……」
室内へ踏み込もうとした子爵令息の肩を公爵令息が掴み、止めた。
子爵令息は優秀な成績が認められて王太子の学友に選ばれた少年だ。
一方公爵令息は、家が王国一番の権勢を誇っていることから学友に選出されていた。もちろんそれだけでなく、王太子を支えるのに相応しいとだれもが頷く優秀さも持っている。
子爵令息に向かって首を横に振り、公爵令息は潜めた声で告げる。
「……騒ぎにしてはいけない……」
子爵令息は俯き、悔し気に唇を噛んだ。
王太子には婚約者がいる。王国二番の権勢を誇る侯爵家の令嬢だ。
子爵令息と公爵令息はつい先日、王太子と男爵令嬢の不適切な関係を非難した侯爵令嬢を根拠のない嫉妬で狂った愚かな女性だと罵ったところであったのだ。
ふたりの少年は頷き合って、その場を立ち去った。
歩きながら彼らは、子爵令息の握った手紙の送り主に思いを馳せた。
今日は生徒会活動のある日ではない。彼らは王太子の学友として生徒会活動に携わっていたが、この手紙が届かなければ、今日はここへは来なかった。
★ ★ ★ ★ ★
「君が本当に愛しているのは僕なんだね!」
「もちろんじゃない! でもアタシはただの男爵令嬢なのよ? 王太子様に逆らえるわけないわ。それに卒業したら王太子様は侯爵令嬢と結婚するから、それまで我慢すれば良いと思って……ごめんね」
「謝るのは僕のほうだよ! 僕がもっと早く気が付いて、君を救えていたら!」
この王国の貴族子女が通う学園の裏庭で、子爵令息と男爵令嬢が抱き合っていた。
あまり人の来ない場所だし、ふたりのいる茂みは木々に囲まれている。
しかし、木々の隙間からその光景を見つめている少年達がいた。
「……」
王太子と公爵令息である。
王太子の手には手紙が握り締められていた。
その手紙に導かれて、彼らはここへ来たのだ。溜息のように王太子が呟く。
「……私は道化だったようだな」
「殿下……」
「彼らのためにも私は男爵令嬢から距離を置こう。君にも心配をかけたな」
「いいえ、俺は……」
恋人達の隠れた茂みから立ち去る少年達は、自分達もまた見つめられていることに気づいていなかった。
見つめていたのは手紙の送り主である。
──それから時間が過ぎていったが、子爵令息へ送った手紙の結末も、王太子へ送った手紙の結末も送り主の望んだ形にはならなかった。なので、送り主はもう一通手紙を書くことにした。
★ ★ ★ ★ ★
連れ込み宿の衣装戸棚に殴った娼婦を閉じ込めた男爵は、数日前に届いた手紙を握り締めていた。
男爵は美しい妻と娘を心から愛している。
娼婦に声をかけて宿へ連れ込んだのは、ひとりでは宿に入れてもらえないからだ。この宿には権力者もお忍びで色欲を満たしに来る。目的のわからないひとりだけの男など入れてもらえない。
男爵は自分に似た地味な外見の息子はあまり愛していなかった。
息子が母親に対して、距離を置いているように見えていたせいもある。
自分に似たところがひとつも見つからないくらい妻に似た美しい娘のほうは、目に入れても痛くないのではと思えるほど可愛がっていたのだが、当の娘には莫迦にされ都合の良い財布扱いしかされていない。それでも良いと、これまでの男爵は思っていた。
この宿の窓の外には狭いが露台がある。
男爵は自室の露台から隣室の露台へ飛び移った。
彼は身体能力に優れた武人なのだ。そのぶん今ひとつだった政治能力は、代々の家臣とそちらの才能のあった息子が補ってくれていた。
そういえば、と男爵は思い出す。
代々の家臣はみな、妻との結婚に反対していた。
美し過ぎる女性は災難のもとにしかならないと言われていたのだ。
家臣達の言葉は正しかった。
男爵は、息子が母親から距離を置いていた理由も理解した。
手紙に書かれていた通り、男爵が見張っていた連れ込み宿の一室に妻と王国一番の権勢を誇る公爵家の当主が入って来たのだ。妻は男爵には見せたことのない女の顔をしている。そして彼女の腰を抱く公爵は、男爵令嬢と同じ耳の形をしていた。
男爵は手紙の送り主の望んだ通り、窓を破って妻と公爵に襲いかかった。
★ ★ ★ ★ ★
「私は王位継承権を放棄して、神殿で修業をすることになった。男爵令嬢の奸計に落ちて王国を乱した責任を取るためだ」
侯爵令嬢である私の婚約者だった王太子殿下、いえ、今はただの王子殿下となられた方が我が家を訪ねてきたのは、公爵家の一族郎党が処刑されてからしばらく経ったころでした。
王国一番の権勢を誇っていた公爵家の当主はそれだけで満足せず、娘を未来の王の愛妾にして、真の最高権力者になろうとしていたのです。
公爵家の罪状は、国を乱そうとしていたのですから反逆罪です。
その娘は公爵令嬢ではなく、公爵家の寄子貴族ですらない男爵家の夫人に産ませた男爵令嬢でした。
もしなにかで男爵令嬢が捕まったとしても、自分に辿り着く前に誤魔化せるようにと画策していたのです。
令嬢の見せかけの父親に夫人との浮気現場を押さえられてしまったため、その愚劣な努力は崩れ去ってしまいましたけれど。
私は殿下に微笑んで見せました。
「それで私に婚約解消を伝えに来てくださったのですね」
「あ、いや……」
「お気になさらなくても大丈夫でしたのよ。私と殿下の婚約は、もうすでに解消されて白紙撤回されていますもの」
「なんだと?」
「殿下と男爵令嬢の関係を非難して、根拠のない嫉妬で狂った愚かな女性だとご学友方とご一緒に罵られた日に、父に婚約解消をお願いしましたの。国王陛下のお許しは公爵家の処分が決まってからでしたけど、今はもうすべての手続きが終わっていますわ」
王国一番の権勢を誇っていた公爵家を失った王家に、王国二番……いいえ、今では王国一番の権勢を誇ることとなった我が侯爵家の願いを拒めるはずがありません。
子爵令息は、公爵家と無関係な形で男爵令嬢を王太子殿下に近づけるための踏み台でした。
公爵令息は父親に言われるまま、異母妹の男爵令嬢と王太子殿下を結びつけました。
野心家で女癖の悪い父親に苦しむ母親を見て育ったのに、公爵令息はどうしてそんな愚かな真似をしたのでしょうか。もっとも人間はだれもみな愚かなものです。母親はなにをしても愛してくれると信じて、愛してくれない父親の愛を求めて従っていたのかもしれません。
光を失った瞳に私を映して、殿下が唇を開きます。
「私、は……王族籍からは外されていない。数年の修業が終わったら、王太子となった弟の補佐に入る予定なのだ」
「まあ、そうでしたの。そのときは夫ともども応援させていただきますわ」
「……夫?」
「殿下との婚約がなくなった時点で、私は新しい方と婚約いたしましたの。私、来年の今ごろには人妻ですのよ」
世の中には外聞というものがございますものね。
殿下が神殿へ入ることが公表されるまで、私の新しい婚約については秘めておりました。
これから発表したならば、殿下が修行のために私と別れ、私は殿下に罪悪感を抱かせないために新しい婚約をしたと思われますでしょう? 思われなかったとしても、公爵と男爵夫人の密会の日時と場所を調べ上げてくれた侯爵家の優秀な家臣達が、そう思われるように世論を操作してくれますわ。
「君は……私以外のだれかと結婚するのか……」
「はい」
殿下のお顔が絶望に染まりました。
この方は男爵令嬢に溺れながらも、私と別れるつもりはなかったのです。
ええ、ちゃんとこの耳で聞きました。
私を正妃にして侯爵家の後ろ盾を貪りながら、愛妾にした男爵令嬢を慈しむおつもりだったのです。
それは公爵や公爵令息、男爵夫人が夢見た未来でもありました。
公爵の野望を正妃の案として正式に議会提出して検討させるより、愛妾の我儘を殿下が無理を通して強行させるほうが早いし楽ですものね。
でもそれは、男爵令嬢の夢見た未来ではなかったのです。
私が結婚すると聞いた殿下の瞳には、かつての私のような嫉妬の炎は見受けられませんでした。
あったのは自身の所有物を奪われた屈辱と絶望だけです。
殿下は最初から婚約者の私を愛したことはなかったのでしょう。
ですが屈辱を覚えたということは、繰り返しやって来てこれ以上恥を晒したりしないはずです。
結婚後に絡まれるよりも、このほうが良かったかもしれませんね。
殿下が口説きさえすれば私が復縁を受け入れると思っていた国王陛下には、残念な結果になりましたけれど。
殿下が帰った後で、私は手紙を焼きました。
男爵令嬢から届いた手紙です。この手紙に導かれた私は殿下と男爵令嬢の不適切な関係を知り、殿下の身勝手な未来予定を知ったのです。
それによって怒り、殿下に嫉妬をぶつけたときはまだあの方を愛していたような気がしますが、狂った愚かな女性と罵られて、愛は霧散してしまいました。
手紙を書いた男爵令嬢は、私に殿下との婚約を破棄させて、自分が正妃になりたかったのでしょう。両親と異母兄に命じられたからだけではなく、彼女は自分の意思で子爵令息を利用して殿下を誘惑していたのです。
とはいえ、そのときの私には侯爵令嬢として、王太子殿下の婚約者としての誇りと責任感がありました。
父に婚約解消をお願いしたものの、認められないとおっしゃる国王陛下のお気持ちも理解出来たのです。
私と殿下の婚約解消によって、権勢を誇る我が侯爵家と王家の間に不和が生じたと思われたら王国が乱れてしまいますもの。
その後男爵令嬢のことを調査し、公爵の陰謀を知り、どうしたら王国を乱さない結末が迎えられるのかと悩んだ末、私は三通の手紙を書きました。
一通目で望んでいた結末は、子爵令息に殿下と男爵令嬢の関係を教え、公爵令息から父親に計画の中止を訴えさせることでした。
だけどそうはなりませんでした。
二通目で望んでいた結末は、殿下が男爵令嬢から距離を取る前に、彼女が自分に近づいて来た事情を探り、秘密裏に事を収めることでした。
それが出来ていたら、公爵家の一族郎党が処刑されるなんてことにはならなかったはずです。
主犯の公爵と共犯の公爵令息、男爵夫人と男爵令嬢が毒杯を与えられて、公式には病死として始末されるだけで良かったでしょう。
けれど殿下は悲劇の主人公を気取って、男爵令嬢から離れただけでした。
私の筆跡と気づかれぬよう苦労して手紙を書いたのも無意味だったようです。殿下はきっと、私の筆跡など覚えていらっしゃいません。
王太子教育で学んだはずの色仕掛けへの対応策も覚えていらっしゃらなかったくらいなのですから。
私や父、我が侯爵家が男爵令嬢を利用した公爵の陰謀を指摘しても、殿下を奪われた嫉妬による言いがかりだと話を逸らされて、くだらない言い争いをしている間に証拠を消されていたでしょう。
冤罪を着せられた哀れな女性として、殿下の男爵令嬢への愛が再燃していたかもしれません。
ですから当事者に動いてもらわなくてはいけなかったのです。
私は、一時的に王国が乱れるのは承知の上で男爵に三通目の手紙を送りました。
このまま放置していたら、公爵は第二、第三の男爵令嬢を送り込んで殿下を篭絡するでしょう。
女癖の悪い公爵には、母親の違う多くの娘がいるのです。新しい娘は今回の男爵令嬢より巧妙かもしれません。
男爵は夫人と公爵に重傷を与えて、ふたりの不貞を訴えました。
そこで王家の調査が始まり、男爵は夫人と公爵の処刑後に自害なさいましたが、ご子息が跡を継ぎ家は存続しています。利用されて傷つけられただけの方が共犯にされて処刑されたのでは酷過ぎますものね。
公爵夫人と公爵家の家臣達は……お気の毒でした。
──やっと手紙が燃え尽きました。火刑となった男爵令嬢と同じように、白い灰になってしまいました。
ふと、男爵令嬢からの手紙を殿下に見せていたら、という考えが頭に浮かびました。
もっと王国を乱さない形で事を収められたでしょうか?
いいえ、と私は自分の考えに対して首を横に振りました。あのころの殿下が私の話を聞いてくださるはずがありません。ニセモノだ、男爵令嬢を貶めようとしているのだ、と筆跡も確認せずに私を罵ったに違いありません。
王国はまだ乱れています。
でも父や私の未来の夫が安定に向けて励んでくださることでしょう。
私も微力ながら力を尽くすつもりです。これから忙しくなります。
四通の手紙のことなど、捨ててしまう灰と一緒に忘れてしまいましょう。
<終>