嘘を、ひとつ。【インモラル】
結婚して三年目になるマッテオ様が、彼女の葬儀から戻っていらっしゃいました。
一ヶ月前のお義母様の葬儀のときよりも悲しげな顔をなさっています。
夫のマッテオ様と私は、幼いころからの婚約者でした。早くに実母を亡くした私をもうひとりの母として可愛がってくださったお義母様がお亡くなりになってから、私は心に決めていたことがあります。
「お帰りなさいませ、旦那様」
伯爵家の若い当主である夫は、伯爵夫人らしく迎えた私を不機嫌そうな顔で睨みつけてきます。
「君は喜んでいるのだろうな、エレジーアが死んで」
「とんでもありませんわ。エレジーア様がお亡くなりになったこと、謹んでお悔やみ申し上げます」
「口ではなんとでも言える! 夫の愛人が亡くなって、喜ばない正妻がいるわけがない」
「……旦那様、私はちゃんと存じておりますわ」
「なにを? 僕が君を愛していないことをか? 僕がだれよりもエレジーアを愛していたことをか?」
「はい、どちらも存じております。そして、旦那様がエレジーア様を愛されるのは当然のことだとわかっています」
エレジーア様は夫の父親、先代伯爵の愛人でした。
私達が結婚する一年ほど前、先代様の死去と今後についてをエレジーア様が囲われていた下町の家へ伝えに行った夫は、悲しむ彼女を慰めているうちに酒に酔い一夜をともにしてしまったのです。
私との初夜の床で彼は、自分には真実の愛で結ばれた相手がいる、君を愛することは出来ない、とおっしゃいましたっけ。幼いころからの長い年月で育まれたと思っていた私との愛情は、彼女との一夜で消え失せていたようです。
「だって」
夫を見つめ、心に決めていた嘘を、ひとつ。
「エレジーア様は旦那様の本当のお母様ですものね。旦那様のお母様が亡くなられたことを喜ぶはずがないではありませんか」
「は?」
「ええ、最初は愛人だと思って嫉妬しておりました。でもお義母様に教えていただきましたの。あの方は旦那様の本当のお母様だと。亡くなられた先代様が、死産だったお義母様のお子様の代わりにと、あの方が産んだお子様を連れてきたのだと」
「君は……なにを言っている?」
私は不思議そうに首を傾げて見せました。
「もうおとぼけにならなくても結構ですのよ。それに、お義母様は最初からお子様達が入れ替えられたことをご存じでしたわ。先代様はお義母様が泣き疲れて眠ってらっしゃると思っていらしたようですから、旦那様もそれを信じていらしたのですね。お義母様がご存じないと思っていたから、愛人として通っていたのでしょう? ええ、ええ。先代様が亡くなってからのエレジーア様が心配だったのですよね?」
「待ってくれ、君はなにを言っているんだ?」
夫の顔が血の気を失っていきます。
「わかりますわ。お義母様は生さぬ仲だなんて想像も出来ないほど、旦那様のことを大切になさっていましたものね。幼いころ病弱だった旦那様をいつも徹夜で看病して、成長してご健勝になられてからは伯爵家へ戻ってこない先代様のぶんも旦那様を支えて導いて! そんなお義母様に、実母のエレジーア様のほうが心配だなんておっしゃることが出来なかったのですわよね?」
「……」
「旦那様はちゃんと私のことも考えてくださっていたのでしょう? 伯爵家の当主となってエレジーア様を援助するためには貴族令嬢との結婚が必須。だから愛してもいない婚約者の私とご結婚なさったけれど、幼いころからの情で私がやり直せるように三年で無効になる白い結婚にしてくださったのでしょう?」
夫は右手で額を押さえ、左手を近くの壁につきました。
かなりの衝撃を受けているようです。
彼の体は小刻みに震えていました。
「私は旦那様をお慕いしておりましたから、最初は悲しく思っていましたわ。でもお義母様に真実をお聞きして、仕方がない、と思ったのです。だれにとっても母親は特別な存在ですもの。私だって、亡き母やお義母様が蘇ってくれるのなら、どんな愚かな真似も致しますわ」
「愚かな、真似……」
「ずっとお会い出来なかった本当のお母様とお会い出来て嬉しかったのはわかりますけれど、これまで育ててくださったお義母様が寝込んでいるのに一切のお見舞いもなさらなかったのは……」
「仮病だと、思ってたんだ。僕の気を引くための仮病だと」
おそらくエレジーア様にそう吹き込まれたのでしょう。
先代様も幼いころの夫が体調を崩して寝込むのは、お義母様がなにかしているせいだと思っていらしたようですから。
ですが、たとえそうだとしても、いいえ、そうだとしたらなおさらに、大切な息子を見舞いに戻るべきだったと思います。私は夫の父である先代様が大嫌いです。
「母上は僕にエレジーアとは別れろと言っていたから、それで……」
「良いのですよ、言い訳などなさらなくても。最後にはお義母様も納得されていました。どんなに愛情を注いで育てても、子どもには実の母親のほうが大切なものなのだと。私も今はもう納得しています。三年間の白い結婚ということで、私達の婚姻を無効にいたしましょう。……応接室に書類を用意しておりますわ」
王都伯爵邸の応接室へ入った後、夫は無言で白い結婚による婚姻無効の書類に署名をしてくれました。
ときおり縋るような視線を向けてきたような気がしますが、気のせいでしょう。
★ ★ ★ ★ ★
「ジネヴラが嘘をついたんだよな? エレジーアは僕の実母などではないよな? 僕を産んだのは母上だよな?」
白い結婚による婚姻無効が認められて、妻だったジネヴラは実家へ戻った。
伯爵家の若き当主マッテオは新しい妻を探していない。
それは彼がジネヴラがいなくなる前に思っていたように、エレジーアとの関係を真実の愛だと思っているからではなかった。
「……申し訳ございません、マッテオ様。私にはわかりかねます」
王都伯爵邸の居間で主人に問われて、伯爵家古株の家令は首を横に振った。
「どうしてだ! お前は僕が生まれたときもこの屋敷にいたんじゃないか。母上はこの屋敷で僕を産んだのだろう?」
「いくら家令でも医師でない男が奥方様のご出産に立ち会うことは出来ません。そもそも亡き大奥様のご出産を担当したのは女性の産婆でした。あの部屋に入られた男性は……愛人のところから戻られた先代様だけです」
「父上が赤ん坊を連れ帰っていたらわかったよな?」
「マッテオ様がお生まれになったのは冬の最中でございました。先代様は大きな外套を着たままお部屋に入られたので、布に包まれた赤ん坊を懐に隠していらしたとしても気づかなかったでしょう」
「違うと言ってよ! 僕は実母を愛人にしていた人でなしになんかなりたくないッ!」
冷たくマッテオを見つめて、家令は言った。
「あれだけ愛情をかけて育ててくださった大奥様がご病気で寝込まれたというのに、先代様の愛人の言葉を鵜呑みにして見舞いに戻らなかったのは人でなしの所業でございます。幼いころからマッテオ様を慕い、嫁いでからは伯爵夫人として貴方様とこの家を支えてくださっていたジネヴラ様にしたことも」
「……」
マッテオは父の訃報をエレジーアに伝えに行った日のことを思い出していた。
母と自分を苦しめた父の愛人は最初から泣いていて、酷く儚げだった。
囲われていた家を手切れ金にしてやるから二度と伯爵家に近づくな、と伝えるつもりだったのに、父の後を追いたいと泣きじゃくる彼女を慰めているうちに一緒に酒を飲むことになって──
「情夫の息子を酒に酔わせて体で篭絡するような女もまた、人でなしでしょう。……情夫とともに贅沢な暮らしを失うのが、よほど嫌だったのでしょうな」
エレジーアが実母だったとしてもそうでなかったとしても、自分と彼女は人でなしなのだ、とマッテオは理解したくなかった真実を理解した。
最近のマッテオは眠りが浅く、なにを食べても味がしなかった。
これまでの日々をどんなに後悔しても、亡くなった先代伯爵夫人もジネヴラも苦しむマッテオを癒しに来てはくれない。
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お義母様がお亡くなりになって一ヶ月でエレジーア様が死んだのは、お義母様の愛情のような気がします。
先代様をも虜にしていた女性の手練手管から息子のマッテオ様を解放して、妻の私と真っ当な人生をやり直すことを期待していたのでしょう。
ええ、マッテオ様はお義母様の実子でいらっしゃいますとも。
もしかしたらお義母様は、私のことも案じてくださっていたのかもしれません。
マッテオ様を愛している私が、彼と幸せになることを望んでくださっていたのかもしれません。
だけど……愚かな私は受け入れられなかったのです。エレジーア様が、あの女がこれからもずっとマッテオ様の心の中に居座り続けるであろうことが。
自分の情夫の息子を酔わせて関係を持った時点で最低な女性なのに、周囲のだれが見ても理解出来ることがマッテオ様には理解出来ていませんでした。
禁断の恋に溺れ、真実の愛だと信じ込んでいました。
ふふふ、真実の愛のお相手が、家を継いで財産を自由にするために自分以外の女性と結婚しろ、だなんて言うわけがないじゃありませんか。マッテオ様も先代様も愚か者です。
禁断の恋がお好きなら、徹底的に味合わせて差し上げようと思ったのです。
ごめんなさい、お義母様。
もうひとりの母としてお義母様を慕っていました。でも私は貴女の娘である前に恋に狂った女だったのです。
マッテオ様の中のあの女を穢して貶めて、思い出すのも嫌な悪夢に変えてしまいたかったのです。
妻を大事にしていれば良かったと、ジネヴラを愛せば良かったと、彼に後悔して欲しかったのです。
早くに母を亡くした私ですが、父と兄には愛されて育ちました。いつか私がマッテオ様を過去の記憶に出来たなら、ふたりに新しい縁談を見つけてもらおうと思っています。もちろん実家のためになる縁談が一番です。
そのときはマッテオ様に真実を伝える謝罪の手紙を送るつもりです。
でも……マッテオ様の中のあの女が再び光り輝くことはないでしょう。
それを思うと、仄暗い喜びが私の中に満ちて、とてもとても幸せな気分になるのです。
<終>