夫の恋人
私の夫には恋人がいました。
私達の結婚式前日の祭りで暴れ馬から夫を庇って亡くなった女性です。
夫は今も彼女に囚われているのです──
彼女は彼の家、アルモバドル侯爵家の使用人でした。
一方フローレス伯爵家の娘、私レオノーラは彼の幼馴染で婚約者でした。
幼馴染といっても、ずっと一緒だったわけではありません。彼の母親が事故で亡くなって、彼の父親である先代侯爵が事故の原因の災害で疲弊した領地を建て直している間は会うことはありませんでした。その間も婚約者ではあったのですが。
私にとって彼、アルモバドル侯爵家のダビド様は初恋の人でした。
でも彼にとってはそうではありませんでした。
だから、一度は婚約を解消しようと申し出たのです。初恋の人には、愛する女性と幸せになって欲しいですもの。
だけど、侯爵家の領地は先代侯爵によって建て直されたとはいっても予断を許されない状況でした。
後ろ盾のない平民の使用人女性を当主の妻に迎えたりしたら、すぐにでも崩れ落ちそうなほどに。
父は地面に額を擦り付けた先代侯爵に懇願され、私もダビド様に祭りを最後の逢瀬にして彼女とは別れる、と言われて結婚を受け入れざるを得ませんでした。最後の逢瀬だった祭りで彼女が亡くならなければ、私達はぎこちないながらも普通の夫婦になれたのかもしれません。彼女には退職金を渡して、アルモバドル侯爵家を辞してもらっていましたし。
「……ふう」
神殿で溜息をつき、私は立ちあがりました。
今日も亡き人のために祈りに来ていたのです。
待っていてくれた侍女に目配せをして帰路を辿ろうとしたとき、
「レオノーラ嬢」
この神殿に属する聖職者、ジュリアーノ様に声をかけられました。
ジュリアーノ様は妖精のような美貌と迷える霊を救う浄霊の御業で知られています。
その落ち着いた優しい声は、迷える生者をも救うと噂されていました。もっとも私にはなぜか今のような、どこかイタズラなお顔をお見せになるのですけれど。
「こんにちは、ジュリアーノ様。私はもう令嬢ではありませんわ」
「そうですか? どこへ嫁いでも貴女がフローレス伯爵家の令嬢であることに変わりはないでしょう? それに、白い結婚は三年で離縁が可能になる」
「……ジュリアーノ様」
私が思わず睨みつけると、ジュリアーノ様は楽しげな笑みを浮かべておっしゃいました。
「本当のことでしょう? ねえレオノーラ嬢……僕のものになりませんか?」
★ ★ ★ ★ ★
王都にあるアルモバドル侯爵邸にレオノーラはいない。
ダビドが彼女を追い出したのだ。
ダビドは神殿へ行ったレオノーラの代わりに怪しげな霊能力者を侯爵邸へ招き、祭りで亡くなった恋人カデナを降霊する交霊会を開いていた。
(どこかで見たような霊能力者だな。……まあ、同じ職業だと似てくるのだろう)
背後に控えた家令に呆れた顔を向けられながら、ダビドは何度も交霊会を開催していた。
これまで一度も成功しなかったのは、レオノーラのせいだとダビドは思っている。
夫の恋人を疎んでいるレオノーラの心が、彼女カデナの降霊を拒んでいたに違いない、と。もちろん霊能力者の実力不足もあると考えて、同じ霊能力者を二度招くことはなかった。
ダビドの中にあったアルモバドル侯爵家のため妻レオノーラと誠実に向き合おうという決心は、カデナの死によって消え去っていた。
ダビドはカデナの死にレオノーラが関与しているのではないかと疑っている。
当時の父、先代侯爵が存命でなければ、結婚式も放棄していただろう。
今回の霊能力者は有能だったらしい。
カデナが降りてきたと告げた霊能力者の声に、交霊卓の中央部に目を向ける。
そこには白い靄のようなものが漂っていた。
白い靄は大理石で作られた胸像のように人間の形を取っていく。整った美しい顔──ダビドが愛したカデナのものだ。
霊能力者はなぜかカデナから目を逸らし、脂汗を流しながら震え始めていた。
降霊とはそれだけ大変なものなのだろうと、ダビドは深く気にしなかった。
ダビドに大切なのはカデナのほうだ。
見つめていると、はっきりと形を取ったカデナが閉じていた瞳を開いた。
整った美しい顔が醜く歪む。
その瞳の先にいるのはダビドではなく、ダビドの背後に立つ家令だった。
『なんでアタシを殺したのっ!』
カデナの唇が開き、彼女は罵声を放ちながら家令に飛びかかった。
(殺した? 家令がカデナを殺した? レオノーラに命じられて? それともアルモバドル侯爵家の将来を案じて? あの暴れ馬は事故ではなかったのか?)
昔から仕えてくれていた家令には、最初からカデナとの関係を諫められていた。
そんなことを思い出していたダビドの目前で、白い靄が真実を叫ぶ。
『アタシがダビドを誘惑して、アンタが反対することで禁断の恋を煽って、上手く操り人形に出来てたじゃない! 正妻のレオノーラの実家から金を搾り上げながら、ふたりで上手くやっていく予定だったわよね? 暴れ馬だってダビドに怪我をさせて、これまで以上にアタシに依存させるためのものだった。事故だなんて言わせないわよ。アンタはアタシ達の位置を確認してから、あの暴れ馬を放ったんだから!』
激しい驚愕と、なんだか前からそれを知っていたような気持ちが胸で渦巻いて、ダビドは困惑した。
白い靄に絡みつかれた家令が答える。
『……先代様がお前のことを調べ始めたんだ。侯爵家を辞めさせられた後でどうしているかという調査だったが、俺のところまで辿り着きそうで……』
家令の声はどこかおかしかった。
夢の中のようにぼやけて聞こえる。
ダビドはカデナを追い続けていた視線を霊能力者へ向けた。俯いていた霊能力者が顔を上げて叫ぶ。
『なにが正しい心を持った哀れな女性の霊だ。悪霊じゃないかっ! ああ、そうだ。だが、そうだ。婚約者のいる男を誘惑した女の霊が悪霊でないはずがなかった……』
揺らめいて、霊能力者の姿が消え失せる。
交霊卓と室内の調度品は消えなかったものの、長期に渡って人が暮らしていない家の中のように埃が降り積もっていることにダビドは気づいた。
背後で家令の体が床に倒れ込む音がしたけれど、それも夢の中のようにぼやけて聞こえた。
(今じゃない。これはずっと前に起こったことだ。愚かな私が何度も繰り返していることだ)
気配を感じて恐る恐る振り向いたダビドを、家令を殺して満足そうな笑みを浮かべている悍ましいカデナが待っていた。
『ダビドダビドダビド、アンタはアタシを愛しているわよねえ? アタシに逆らったりしないわよねえ? あっははははは、あっははははは!』
狂気に満ちた笑い声がアルモバドル侯爵邸に響き渡る。
この後侯爵邸の人間が殺されていった。
ダビドがカデナの悪霊を霊能力者に呼び出させたせいだ。清い心でカデナの冥福を祈り、ダビドや侯爵邸の人間の幸せを祈り続けていたレオノーラを侯爵邸から追い出したせいだ。
(もう何回繰り返した? もう何年が過ぎ去った?)
ダビドは自分がカデナの悪霊に殺されたことを思い出した。
殺されて霊となり、霊となっても解放されなくて王都のアルモバドル侯爵邸に囚われ続けていることも。
★ ★ ★ ★ ★
私には霊能力があるのだと、ジュリアーノ様はおっしゃいました。
市井の霊能力者のように霊を降ろす能力ではなく、ジュリアーノ様や神殿の皆様のように迷える霊を浄霊する能力です。
私がいたころの王都アルモバドル侯爵邸でダビド様が開いた交霊会が失敗していたのは、私が夫の幸せを祈っていたために、夫の恋人の霊が降りられなかったからだと聞きました。
夫の恋人は死後、悪霊となっていたのです。
私のせいなのでしょうか。
私が彼女に嫉妬していたように、彼女も夫の妻となった私に嫉妬していて、それで悪霊となってしまったのでしょうか。心配しなくても、夫の心は彼女だけのものでした。彼が私を愛したことなどありません。
交霊会で夫が亡くなり、多くの使用人達も道連れになってから三年。
無人となった王都のアルモバドル侯爵邸は幽霊屋敷と呼ばれています。
夫のダビド様が交霊会を開いていた部屋の窓から、引き攣った彼の顔が覗いてすぐに消えたような気がします。霊となっても彼は、私の帰還を不快に思ったのでしょうか。それでもあの日私が夫に言われて神殿へ行っていなければ、彼も亡くなった侯爵邸の人間も今も存命だったかもしれません。
そう、あの日、私は白い結婚による離縁の手続きをするから聖職者を呼んで来いと夫に言われて神殿へ行っていたのです。
神殿でのさまざまな準備を終えて侯爵邸へ戻ると、命からがら逃げ出した使用人が不在の間の事情を教えてくれました。
生き残った使用人にも同行していたジュリアーノ様にも、侯爵邸自体にも帰還を拒まれて、私は館の中へ入ることは出来ませんでした。今日もです。
「神殿で結界を張って浄化を続けているのですが、悪霊は多くの使用人達を犠牲にして得た力をまだ失っていないようですね。……なにか見えましたか?」
「はい。ジュリアーノ様のおっしゃった通り、私には霊能力があるようです。白い靄のような夫の姿が見えました。私に気づくと不快そうな顔をして、背後の彼女のところへと……」
亡くなっても殺されても、夫は彼女の恋人のままなのです。
「……レオノーラ嬢を見て不快になったのではなく、悪霊に後ろから引き寄せられただけなのでは……まあ、考えても仕方のないことか」
「ジュリアーノ様?」
「いいえ、なんでもありません。そういうわけですのでレオノーラ嬢、ダビド殿の冥福を祈るだけではなく、神殿に属して彼の浄霊を目指してみませんか?」
「そうですね。あのとき離縁出来なかったといっても、夫が亡くなって三年です。実家に甘え続けるわけにもいきません」
ジュリアーノ様の誘いに応じて神殿に入れば、浄霊が出来るようになるまでの修業の期間も衣食住の保証がされて、報酬も得られるというお話です。
「夫は永遠に彼女と一緒にいたいのでしょうが、巻き込まれた使用人達の霊は解放してあげたいですしね。……ふふっ」
「どうしました?」
「僕の部下に、ではなくて、僕のものに、なんておっしゃるから、私ジュリアーノ様に口説かれているのかと思いましたわ」
「ええ、部下としてだけでなく恋人としても口説いていますよ」
「はい?」
「うちの神殿は聖職者の婚姻を禁じていませんし、ご夫君が亡くなって三年も経つのだから、貴女も新しい恋をして良いころでしょう? 僕は夫の恋人の冥福を祈る貴女を見ていたころから、貴女に惹かれていましたし」
「……」
夫のダビド様が私を愛したことはありませんでした。
彼は今も彼女に囚われています。そして、それが幸せなのでしょう。
ジュリアーノ様をお相手に選ぶかどうかはともかく、私が新しい恋をして良いころなのは事実です。
「今日はアルモバドル侯爵邸の状況を確認しに来ただけですし、そろそろ神殿へ戻りましょう。すぐに神殿に属して欲しいとは言いませんので、とりあえずお茶でも楽しみながらお話をしませんか」
「……そうですね」
からかうような微笑みを浮かべている侍女を横目で見てから、私はジュリアーノ様のお言葉に頷きました。
★ ★ ★ ★ ★
もうほとんど人の形を失って靄のような姿しか取れないカデナが、ダビドの霊に絡みつく。
『ダビドダビドダビドぉ! 逃がさない、アンタを逃がしたら金持ちになれないもの。アンタはアタシのもの、アタシの大事な金蔓なのよぉっ!』
『離せ、離せぇぇえっ! レオノーラが行ってしまう。せっかく帰って来たのに、また行ってしまう! レオノーラさえいれば悪霊はいなくなるはずなんだ!』
ダビドは恋人に囚われている。これからも、ずっと──
<終>