愛の天秤はいつも傾いている。
「ねえ、僕のお嫁さんになってよ!」
「嫌です」
初対面の印象は最悪でした。
お母様の親友だった王妃様に招かれたお茶会で出会った男の子。
おとなしくて優しい私のお従兄様と違って、我儘で乱暴で身勝手で、私の大嫌いな虫を捕まえて差し出してくる王子様。……でも、蝶の青い翅の輝きが私の瞳のようで綺麗だったからと言ってくださったのです。
年齢を経ても王子様は気まぐれで、私のお従兄様のように気配りをしてくださったり勉強を教えてくださったりはしなかったけれど、いつしか一緒にいるのが自然になっていきました。
我が家は伯爵家で、王子様の婚約者候補の中では爵位が低いほうでした。
だけど子どもだけのお茶会で私が高位貴族のご令嬢方に絡まれていると、いつも彼が来て助け出してくださったのです。
背が伸びて、手が大きくなって、くるくる変わる表情が柔らかくなっていって、その緑色の瞳に映ることを幸せだと感じ始めたころには、きっともう恋をしていたのでしょう。
この王国の貴族子女が通う学園へ入学する年に婚約したときは、喜びしか感じられませんでした。
そのころは、幼いときの求婚を断ったことを毎日後悔していたくらいだったのですもの。
「殿下、あまり私以外のご令嬢と親しくなさるのはやめてください。彼女達もいずれはだれかに嫁がなくてはいけないのですよ」
「なぁに? 妬いてるの?」
学園に入学すると、王子様はこれまで以上にご令嬢方に囲まれるようになりました。
いいえ、ご令嬢方だけでなく色好みのご婦人方にも熱い視線を送られていました。夜会でどこかへ行ってしまった彼を何度泣きながら探したことでしょう。
いつの間にか私の彼への恋心は、彼の私への恋心よりも遥かに重くなっていたのです。
私に勉強を教えてくださったりはしませんでしたが、王子様はとても頭の良い方でした。そしてとても魅力的な方でした。
妃教育で手いっぱいになって余裕がなく、そのくせ一人前に嫉妬はしてくる婚約者など幼い初恋が叶った後は邪魔なだけだったに違いありません。
だから私は、学園の卒業パーティで婚約を破棄されてしまったのです。
「……愛を、恋心を消せる魔法薬はありませんか?」
我が伯爵領の森には魔女が住んでいます。
良い魔女です。さまざまな魔法薬を作って人々を助けてくれているのです。
彼女の家を訪ねた私が口にした言葉に、魔女は悲し気に首を横に振りました。
「そんな魔法薬はないね。愛や恋心は外からの干渉で消せるようなものではないのさ。だけど……」
★ ★ ★ ★ ★
王子の初恋は、母王妃の親友の娘である伯爵令嬢だった。
彼女の瞳と同じ色の美しい蝶を差し出したら、怯えて泣き出してしまった女の子。
蝶が綺麗だからあげようと思ったのにと言ったら、泣き止んで微笑んだ女の子。でも求婚したら断られた。父王と母王妃に溺愛された王子にとって、初めての衝撃だった。
王子は良くも悪くも普通の少年だった。
伯爵令嬢の従兄のように気を配ったり勉強を教えたりすることは出来なかった。
子どもだけのお茶会で彼女がほかの高位貴族の令嬢に絡まれているときに助けるのだって、最初から上手くは行かなかった。大声で鳴く虫で驚かそうとしたら、絡んでいた令嬢だけでなく彼女まで泣かせてしまったこともある。
それでも背が伸びて、手が大きくなって、彼女を驚かせない言動がわかるようになって、なにより見つめているだけで幸せになる自分に気づいて、自分に見つめられて笑顔になってくれる彼女に気づいて──学園へ入学する年に婚約出来たときは空も飛べそうな気持ちになった。
学園に入学してからも浮かれた気持ちは続いていて、ほかの令嬢達にも優しくなれた。
婚約者の伯爵令嬢に嫉妬されるのが楽しくて、美しい貴婦人達と恋愛の真似事をしていたときもある。
なにをしても彼女に愛されていると信じていた。それが嬉しい反面、いつからだろうか。彼女の気持ちが少し重たいと感じられるようになってきた。
自分は王子なのに、自由なのに、重たい伯爵令嬢の愛に縛られて生きていかなくてはいけないのだろうか。
気がつくと、そんなことを考えるようになっていた。
伯爵令嬢への愛が無くなったわけではない。
愛してはいるのだ。だが彼女の愛は重い。婚約者でもこんなに重いのだから、正妃となったらどれほどの重さになることか。
(側妃くらいのほうが良いんじゃないか?)
あるとき王子は閃いた。
美しい貴婦人達のだれかと朝を迎えたときだった。
その前に伯爵令嬢よりも高位の貴族令嬢に吹き込まれていたせいもあるかもしれない。アタクシを正妃にして彼女を側妃にしたほうが気楽だと思いますわよ、と。その令嬢は身分もあったし財力もあった。
そこで婚約を破棄して、伯爵家へ側妃の誘いを送ったのだけれど──
(まだ返事が来ないな。まあ、彼女は僕を愛している。すぐに側妃として……)
王子に知るすべはないが、彼が王宮でそんなことを思っていたのは伯爵令嬢が魔女の家を訪ねていたころだった。
彼女のことを考えていたら、不意に心が浮き上がるような感触があった。
まるで翼でも生えたかのようだ。たまにあるそれを王子は自分の伯爵令嬢への愛が飛翔しているのだと思っていた。
(母上には諦めろ、恥を晒すなと言われているけれど、直接伯爵家へ行けば彼女は)
浮かされて思った次の瞬間、深い穴へ落ちていくかのような感触があった。
体が重い。心が重い。
叶ったことで重要度が下がったはずの恋心が、突然激しく燃え上がる。
彼女への愛が無くなったなんて、感じたことは一度もなかった。
ただ昔ほど重いものではなくなっただけだと思っていた。
それなのに、突然燃え上がった恋心が痛いほど重く感じられる。伯爵令嬢に愛されているという自信が、宙に浮いた煌めく青い蝶の翅のように風に飛ばされていく。
★ ★ ★ ★ ★
愛の天秤はいつも傾いています。
釣り合うことなどないのかもしれません。
どちらかの愛が重くなれば、想われたほうの愛は軽くなるのです。いいえ、皿が上がって中身が軽くなったように感じてしまうものなのです。
魔女はそんな話をした後で、私に魔法薬をくださいました。
愛や恋心を消すためのものではありません。
そんなものはないのです。
逆なのです。
愛や恋心を強くするためのものなのです。
最初から愛も恋心もなければ効き目がないので、惚れ薬ではありません。愛の天秤の皿に載った想いを強くして重くして、支えきれなくなった皿を割ってしまうためのものです。
「……」
飲んだ瞬間、深い深い穴へ落ちていくかのような感触を覚えました。
これが私の愛の重さなのでしょう。
初めて会った日から積み重ねてきた愛の重さが増していくのを感じます。気が狂いそうです。自分の愛で燃え尽きそうです。
だけど私が燃え尽きるより前に、天秤の皿が割れたようです。
愛の重さを失って、空も飛べそうなほど心が軽くなります。
私が王子様を愛する日は二度と来ません。だって愛を載せる天秤の皿がないのですもの。
「ありがとうございます」
「良かったよ。しかし上手く行ったってことは、王子様もあんたを愛していたようだね」
「そうなのですか?」
「ああ。互いの想いが無ければ愛の天秤は生じないんだ。残された皿に載った想いは、もう重くなることも軽くなることもない」
私はもう一度お礼を言って、お金と異国から手に入れた珍しい薬草を魔女に渡して帰路に就きました。
家の外にはお従兄様と伯爵家の護衛が待っていてくれました。
ここへは家族に勧められてきたのです。だって王子様への愛を失う前の私は、側妃なんていう、自分にも伯爵家にもなんの利もない申し出さえ受け入れてしまいそうなほど愚かだったのですもの。
「上手く行ったみたいだね」
「はい。ついて来てくださってありがとうございます」
「殿下が妙なちょっかいをかけてくる前に、早く君の新しい縁談を決めないとね」
「あら、お従兄様のほうが先ではありませんの?……そういえば、どうしてまだ婚約者を決めていらっしゃらないのですか? お従兄様なら女性が放っておかないと思うのですが」
「……伯爵家へ戻ったら教えてあげるよ」
「まあ、楽しみですわ!」
手を叩いて言った後で、ちょっと子どもっぽかったかもしれないと反省いたしました。
昔からお従兄様と一緒にいると心が軽くなるような気がするのです。
不思議に思っていると、お従兄様が私の視線に気が付いて微笑んでくださいました。なぜか少しだけ落ちるような感触がありましたが、嫌な気分ではありません。
<終>




