魅了が解けなくて
この王国の貴族子女が通う学園の卒業パーティで、私の婚約者である王太子殿下はおっしゃいました。──隣に立つ男爵令嬢の腰を抱いて。
「侯爵令嬢! 私は君との婚約を破棄して、ここにいる男爵令嬢と婚約を結び直す! 身分を笠に着て男爵令嬢を虐めていた君は、未来の国母に相応しくないからな!……私と結婚してくれるね、ポピー」
愛人だった母親が亡くなって父親に引き取られた男爵令嬢は、真っ青な顔をして首を横に振りました。
「え、ちが、違うんです。アタシは王子様の恋人になったつもりはなかったんです。アタシにはヘンリーという婚約者がいて……あの、王子様に逆らえなかったから学園ではいつも一緒にいただけなんです」
王太子殿下のお顔から色が消えました。
私が大好きだった青い瞳から光が失われています。
侯爵令嬢と殿下の婚約はそのまま破棄されましたが、男爵令嬢ポピーは精神を操る禁忌の魅了の力で王太子殿下を惑わしていたとされ、国外追放を言い渡されました。
★ ★ ★ ★ ★
男爵令嬢ポピーが母親と暮らしていた家が建つ下町には、大きな商会の本部があった。
店舗は貴族街の大通りに面した場所にある。
ここにある本部は事務所と雇用者の寮だった。
その夜、ポピーは裏口の扉に手を開けた。
鍵は開いていた。
国境の外に追いやられた自分が監視の目を盗んで戻ってくるかもしれないと思ったヘンリーが、開けておいてくれたのかもしれない。幼馴染の彼はいつも優しくて気の利く青年だった。
裏口を入ってすぐの部屋は真っ暗で、だれかがひとりで立っていた。
「……ヘンリー?」
「息子は死んだよ」
「小父さん? 小父さんなの? ヘンリーが死んだって、どうして?」
「あんたの親父さんに殺されたんだ。王太子殿下の妃になる予定のあんたに口約束の婚約者なんて邪魔なだけだってね。うちの商会も営業妨害を受けて、今じゃ開店休業中さ」
「そんな……ご、ごめんなさい。知らなかったのよ。いろいろ噂が流れているから誤解してるかもしれないけど、アタシは本当に王子様の恋人になったつもりはなくて、向こうが勝手に……」
「なら、なんで嘘をついたっ!」
激しく怒号されて、ポピーは体を震わせた。
「嘘なんてついてないわ! 王子様には逆らえなかったけど、それは身分の高い人相手で怖かったからだし」
「ついたじゃないか、嘘を。王太子殿下の婚約者だった侯爵令嬢に、うちのヘンリーと婚約していることを確認されたときに、そんな事実はないと言って侯爵令嬢を嘘つきにしただろう!」
「あれは……その、王子様が嫉妬して怒るんじゃないかと思って、怖くて」
「王太子殿下に対抗出来るのは、婚約者だった侯爵令嬢とそのご実家くらいだ。あの学園に通っていたのだから、それくらいはわかるだろう? 王太子殿下に付き纏われて迷惑に思っていたのなら、あのとき侯爵令嬢に助けを求めるべきだった!」
「だって……あの人ってば、アタシを恋敵だと思い込んで意地悪して来るから……」
「自分の婚約者に纏わりつく女に意見するのは当たり前のことだ!」
ポピーは俯いた。
ヘンリーの父は苦手だ。
ポピーが微笑んでもヘンリーや王太子のように言いなりにはなってくれない。魅了の力など持っていなかったが、ポピーは要領が良く男心を掴むすべを知っていた。男爵の愛人をしていた母を手本にして育ってきたのだ。
(自分の婚約者だった男にも相手にされない惨めな女なんて、どうなったって良いじゃない。ヘンリーにもあの後で怒られたわ。空気を読まないあの女が全部悪いのに!)
それがポピーの本心だった。
王太子の恋人になったつもりがなかったのも、ヘンリーを婚約者だと思っていたのも本当だ。
だけど可愛い自分が男達にチヤホヤされるのも当然のことで、男に相手にされない惨めな女がその場を乱すのが悪いのも、ポピーの中では常識だった。
「ごめんなさい。よくわからないけどアタシが悪かったのね、反省したわ。ヘンリーがいないのなら、アタシべつのところへ行くわ」
ポピーは入って来た扉から外へ出ようとした。
自分は可愛いので、初めて会う男でも言うことを聞いて助けてくれると思っていた。実際そうして上手く立ち回って、国境の向こうから戻ってきたのだ。
ヘンリーが死んだのは悲しいものの、泣いても生き返らないしヘンリーの父は匿ってくれそうにない。
しかし、外への扉は鍵がかかっていた。
だれかが外からかけたようだ。
真っ暗なのでどうやって鍵を外したら良いのか、ポピーにはわからなかった。
ヘンリーの父の後ろで扉が開く音がする。
ここは馬車を置く部屋で、扉で事務所や雇用者の寮とつながっている。暗闇に目が慣れて来ても馬車がわからないのは、開店休業中と言っていたので使うことのない馬車を始末したからなのかもしれない。
複数の人間が扉から入って来る。ヘンリーの父が叫んだ。
「魅了女だ! 近づくと魅了されるから離れた位置から石を投げろ!」
「え」
ポピーの可愛らしい顔に、尖った石が投げつけられた。
「お前のせいで隣国へ薬を買いに行けなかった! このままじゃ娘は死んでしまう!」
「何年もかけて結んだ取引先との関係がすべて無くなった!」
「ヘンリー坊っちゃんはてめぇのせいで殺されたんだ! この商会ももう未来はない」
実は、魅了持ちとされたポピーの国外追放が宣言された後、この国は近隣諸国から国交断絶を言い渡されていた。
さまざまな加護を受けている王太子をも惑わすほどの魅了の力持ちを国から放出するなど、罰に見せかけた他国への攻撃にほかならないと言われて。
そして、この国のすべての人間の入国が他国に禁じられた。
学園の卒業パーティから数ヶ月が経つ。
他国から切り捨てられたこの国は、緩やかに滅びつつあった。
「そんなのっ! そんなのアタシのせいじゃないっ! 王子様の心を掴んでおけなかった惨めな女が悪いのよっ! アタシ魅了の力なんか持ってないわっ!」
「ヘンリーとの婚約を秘密にして、婚約者のいる王太子殿下に近づいたアンタがすべて悪いんだっ!」
無数の石がポピーを襲った。
★ ★ ★ ★ ★
「ああ、ありがとう。……うん、君の淹れてくれたお茶はいつも美味しいな」
婚約は破棄されたままで再構築などしていないのですが、私は学園の卒業後王太子殿下の補佐をしていました。
ずっと妃教育を受けてきた私は、近隣諸国に国交を断絶されたことで混乱状態にあるこの国で、とても役に立つ駒なのです。
今日も資料を整理したり、下町で男爵令嬢の遺体を確認して戻ってきた殿下のためにお茶を淹れたりいたしました。世間の方々は、浮気ではなく魅了だったから侯爵令嬢は王太子殿下を許したのだと、そんな風に思っていらっしゃるかもしれませんね。
しばらくの沈黙の後、殿下はおっしゃいました。
「遺体は間違いなくポピーだったよ。だが石に打たれてボロボロになっていた。私にはポピーだとわかったけれど、近隣諸国に魅了の力持ちが死んだと告げても納得してもらえないかもしれない」
殿下が溜息を漏らします。
「……実はまだ魅了が解けない。ポピーのことばかり考えてしまうんだ。彼女は死んでいないのだろうか。学園の卒業パーティの後で、処刑ではなく国外追放などと言ってしまったのも魅了のせいだったのかもしれない」
私は答えずに、殿下がテーブルに置かれた茶器にお代わりを注ぎました。
ここは殿下の執務室です。
広い室内には仕事の合間に寛いだり、部下や友人とちょっとした時間を過ごすための応接間のような空間があります。学園に入学して、殿下が男爵令嬢と出会われる前は、私もよくここで殿下とお茶をしていました。
お代わりのお茶を口にして、ほんの少しだけ笑顔になった殿下に私は言いました。
「今度また、焼き菓子を作って持って参りますわね。甘いものは頭の回転を助けると聞きます。聡明な殿下なら、小さな刺激さえあれば解決策を思いつかれますわ」
「ありがとう。確かにそうだった、私は君の焼き菓子が好きだった。……早く魅了が解けると良いのだが、そうしたら……」
殿下に微笑んで、私は心の中で思います。
魅了が解けるはずがありません。魅了など最初からないのですから。
この世に魅了の力がないとまでは言いません。
けれど、殿下が男爵令嬢を想う気持ちは魅了によるものではありません。
殿下は彼女に恋をしたのです。
恋をした相手が要領の良いだけの嘘つき……ああ、見た目が良いというのもありますね……だったのを知って、自分の気持ちを認められなくなっただけなのです。国外追放にしたって、生きていればあわよくば、という欲望の発露に過ぎないでしょう。殿下は国や民を巻き添えにして見苦しい恋をしている愚者でしかありません。
「あのときはすまなかったな」
「なんのことでしょう?」
「ああ、そうだな。私は君に、たくさん謝らなくてはいけないことをした。今言ったのはポピーの婚約者ヘンリーのことだ」
「彼本人が我が家へ来て、彼女を王太子殿下から救って欲しいと頼んできたのです」
「救って欲しい……か。そうだな、彼にとっては自分の婚約者を見初めた権力者が力尽くで束縛しているようなものだ。あのとき、ポピーが真実を口にしていてくれれば」
ヘンリー青年を殺すのが男爵ではなく、嫉妬に狂った王太子殿下だっただけではないかと思いましたが、私は口には出しませんでした。
あのとき、私を嘘つきにして去っていった男爵令嬢が囁いたように、私は婚約者にも相手にされない惨めな女なのですもの。
もっとも今目の前にいる王太子殿下のほうが、ずっとずっと惨めだと思っています。
「そろそろ仕事へ戻るとしよう。今日はまだ大丈夫かい?」
「はい。お手伝いさせていただきますわ」
「ありがとう」
自分の気持ちは恋ではないと嘘をつき続けている王太子殿下が、ありもしない魅了から解放される日は来ないでしょう。
でも私はいつかそのうち殿下への愛から解き放たれるに違いありません。
あの卒業パーティの日から、いいえ、ヘンリー青年のことを告げて嘘つき扱いされた日から、毎日毎時間少しずつ呪縛が解けていくのを感じているのですもの。
かつて婚約者だった方、だれよりも愛していた王太子殿下が、男爵令嬢に惑わされて国をも危うくした愚かで惨めな男にしか見えなくなるのは、きっときっともうすぐです。
だってもう殿下の青い瞳を美しいとも思っていないのですもの。
そのときが来たらきっと心の中で、ざまぁ見ろ、と言わせていただきますわ。
<終>