侯爵令息の恩返し
フースは緊張していた。
ウテワール子爵家の次男坊でしかない自分が、この王国一の権勢を誇ると噂されているシャルケン侯爵家の嫡男から昼食に誘われたのだ。
王国の貴族子女が通う学園では同級生でも、個人的に話をするのはこれが初めてだった。
侯爵家の馬車でフースが連れて来られたのは最近王都に出来た空中庭園だった。
建物の屋根が斜めではなく平たくて、季節の花が咲き誇る庭園になっているのだ。
ところどころに席があり、席と席の間は植木鉢に植えられた低木や花で区切られていた。どこからか小鳥の鳴く声がする。開放的な雰囲気ではあるものの、むしろ密談に向いているかもしれない。
フースが案内されたのは庭園の外周に沿った席だった。
美しい彫刻をされた鉄柵があるので落ちたりはしなさそうだ。
シャルケン侯爵令息は先に席で待っていた。
「遅くなって申し訳ありません」
「こちらが突然誘ったんだ。来てもらえただけで嬉しいよ」
軽く挨拶を交わした後で、フースは気になっていたことを尋ねた。
「あの……どうして私を呼んでくださったのでしょうか?」
「恩返しだよ」
「恩返し?」
身に覚えはなかった。
しかし運が向いて来たのかもしれないとフースは思う。
ウテワール子爵家はさほど裕福な家ではない。裕福になれるかもしれない道は、ある事情から閉ざされてしまった。
店の給仕が来て、フースは注文を頼んだ。
シャルケン侯爵令息は先に済ませていたらしく、柔らかな微笑みを浮かべて鉄柵の向こうを見下ろしていた。
そちらには王都を横切る大きな河があり、水辺にはあまりよろしくない類の店舗が並んでいた。いわゆる連れ込み宿である。侯爵令息にも下世話な興味があるのかと思ったが、フースは口には出さなかった。
しばらく待つと注文の品が来て、フースと侯爵令息はまずはお茶で喉を湿らせた。
次男坊のフースには継ぐ家がない。
実家の子爵家には予備の爵位も次男を独立させるための資産もない。在学中に騎士爵でも授かれていれば良かったけれど、ある事情でフースは学園で騎士の勉強ではなく文官の勉強をしていた。成績はわりと良い。
(侯爵家にはご次男がいらっしゃるから当主補佐は無理だろうが、どこかの村や町の代官の仕事でももらえないものだろうか)
思いながら侯爵令息を見つめる。フースの視線に気づいた彼は言った。
「ヒディング伯爵令嬢との婚約を破棄してくれてありがとう。実は僕、彼女が初恋だったんだ。どんなに家族に言われても、婚約者を決めないでいて良かったよ」
「……はい?」
フースの唇から間抜けな声が漏れた。
ヒディング伯爵令嬢は、ついこないだまでフースの婚約者だった少女だ。
彼女の家に婿入りして女伯爵の補佐をする予定だったのだが、フースは愛のために婚約を破棄した。
「覚えていないかな。十歳よりも前のどこかの家のお茶会で、ヒディング伯爵令嬢が持っていた人形を奪い取った少年のことを。君は彼から人形を取り戻して、彼女の騎士になったんだ」
「まさか、あのときの……」
「うん。好きな子ほど苛めたい、なんてくだらない理由での行動だったんじゃないよ。あの人形には蜂が止まっていたんだ。僕はそれ以前のお茶会で彼女と出会っていた。そのとき彼女が母親の伯爵夫人の庭仕事を手伝っていた際に、蜂に刺されたと聞いていたんだ」
蜂に二度刺されると命に関わることがあるのだと、侯爵令息は言葉を続ける。
「人形を取り上げなくても、口で教えたら良かったのではないですか?」
「彼女、前に刺されてから蜂が怖くなったんだって。言葉で教えたら怯えて人形を振り回して、蜂を刺激していたと思う」
「私が貴方から人形を取り返したときは……」
「蜂は僕が始末した後だったよ」
「そうでしたか。あの……彼女の本当の騎士は貴方だったのですね。どうしてあの場でおっしゃらなかったのですか?」
「あのとき言っても、ただの負け惜しみとしてしか聞いてもらえないよ。それに、僕の行動の真意を理解してくれたとしても、自分の大切な人形をいきなり奪った男なんか怖いだけさ」
「はあ……」
フースはなんと相槌を打ったら良いのかわからなかった。
「初恋って怖いね。僕は彼女を諦めたかったけど、どうしても諦めきれなかった。学園で再会して、燻ぶっていた気持ちはさらに燃え上がった。だからさ、君には感謝してるんだ。あれだけ彼女に愛されていたくせに幼馴染のほうを優先して、挙句の果てに婚約破棄まで宣言した君に」
「……」
「おかげで悲しみに沈んだ彼女を慰めて初恋を成就させることが出来たよ。人形を奪った悪行も告白して許しを得ている。僕達ね、婚約することにしたんだ」
「……おめでとうございます」
一方フースは領地で暮らす両親と兄に、まだ婚約破棄のことを伝えていなかった。
フース自身が婿入りする予定だっただけでなく、さほど裕福でないウテワール子爵家はヒディング伯爵家に援助を受けていた。
怒られるのは仕方がないものの、その前に自分の進退を決めておきたいフースだった。もっとも目の前の侯爵令息が自分に仕事を紹介してくれるとは思えない。恩返しと言いながら、その実ヒディング伯爵令嬢の心を傷つけたことへの報復をされるのではないだろうか。
「……ああ、来た」
嫌な汗をかいていたフースの耳朶を侯爵子息の声が打つ。
彼の視線を辿って、河沿いの連れ込み宿の入り口を見てしまったフースは息を呑んだ。
ヒディング伯爵令嬢との婚約を破棄した原因、フースの初恋、子爵家の隣領の男爵令嬢が子爵家と男爵家御用達の商家の息子と宿の中へ入っていく。かなり距離があるはずなのに、ふたりの表情がとても楽しげなのが見て取れた。
「君と、彼女と彼の三人が幼馴染なんだよね」
「……はい。子どものころから、貴方とお会いしたお茶会より前からずっと仲良く……彼女は私の初恋でした」
「初恋は大切なものだよね。君の初恋は彼女、彼の初恋も彼女、彼女の初恋は彼、ってところだったのかな」
腕を組んで連れ込み宿へ入っていったフースの幼馴染ふたりよりも、目の前の侯爵令息のほうが楽しげな表情を浮かべている。フースにはそう見えた。
「僕は長男だからね。当主の座を弟に譲ってヒディング伯爵家へ婿入りするなんて言ったら、反対する人間も出てくるんだよ。伯爵令嬢と君の婚約破棄を知ったら、伯爵家へ婿入りした君に寄生して生きていこうと思っていたあのふたりがなにをするかわからないだろう? 元婚約者だからと伯爵令嬢が君とふたりで話でもしようものなら、適当な噂を流されて僕との縁談を壊されそうだ」
恩返しっていうのも嘘じゃないよ、と侯爵令息は笑う。
「生涯あの幼馴染ふたりに騙され続けて、妻となったヒディング伯爵令嬢を苦しめ続けるよりも、今真実を知って新しい道に踏み出すほうが幸せだろう?」
「……はい」
その通りだった。
ヒディング伯爵令嬢との会話で感情的になって婚約破棄を宣言してしまっただけで、幼馴染の男爵令嬢はそんなことは望んでいなかった。
男爵令嬢は自分は愛人で良い、伯爵邸から少し離れたところに小さな家を買ってくれたら、ずっと待っていると言った。だれをずっと待つつもりだったのかは知らない。
「事が終わって出て来てから問い詰めたほうが、向こうも言い逃れ出来ない。僕の配下のものを宿の近くに配備しているから、それまで待とう」
「……はい」
「僕も付き合うよ。この店はお茶だけでなく軽食も美味しいんだ。好きなものを頼むと良い」
「……ありがとうございます」
先ほどのお茶も侯爵令息の奢りだったが、フースは彼の言葉に甘えることにした。
それぐらい楽しませてもらっても良いだろう。
自業自得とはいえ、フースは初恋を失ったところなのだから──
<終>




