彼女の噂
ファネンブルグ侯爵家には美しい令嬢がふたりいる。
平民だった正妻の娘で燃え盛る炎のように真っ赤な髪を持つ紅薔薇嬢と、貴族令嬢だった愛人の娘で儚い雪のような銀髪の雪薔薇嬢だ。
このたびウィレムは姉の紅薔薇嬢と見合いをすることになった。
紅薔薇嬢はウィレムの主君である王太子マッヒーリスの婚約者だったのだが、悪女と噂される自身のおこないによって、学園の卒業パーティで婚約破棄された。
それも自業自得だとウィレムは思う。
彼女には夜な夜な王都の侯爵邸を抜け出して、怪しげな屋敷の仮面舞踏会に参加し、どこのだれとも知れない男達に身を任せているという噂があったのだ。
ウィレムが彼女の新しい婚約者候補にされ、王都にある自宅で見合いをすることになったのは主君のたっての願いだった。
王都では、これ以上ファネンブルグ侯爵家の名誉を穢さぬようにと婚約破棄後は王都の侯爵邸に軟禁状態だった紅薔薇嬢が、母方の実家から手に入れた毒薬で雪薔薇嬢の命を狙っているという噂が流れている。
王太子マッヒーリスは新しい婚約者である雪薔薇嬢の身の安全を確保するために、ウィレムを紅薔薇嬢の監視役に選んだのだ。
紅薔薇嬢を始末出来ないのには理由がある。
彼女の母方の実家クライチェク商会は世界に名高い豪商なのだ。
この辺りの国々は商会に流通経路を握られている。商会の武器は見事な操船技術と各国の貴族家に嫁がせた美しい娘達だった。
もちろん紅薔薇嬢もファネンブルグ侯爵家へ持参金とともに捧げられた美しく男を惑わす母親の血を引いている。
伯爵家の次男だったウィレムはこの王国の貴族子女が通う学園在学中に騎士爵を授かって、王太子マッヒーリスの専属近衛騎士となって家から独立した。
王都にある自宅はウィレム個人の持ち物である。その自宅の中庭で、ウィレムは紅薔薇嬢と向かい合っていた。
噂通り、紅薔薇嬢は美しく男を惑わせる雰囲気がある。
ウィレムは落ち着かない気持ちになっていた。
そのせいか、給仕をするメイド達がいつもと別人のように見えていた。もっともいつもといっても、ウィレムは王太子専属近衛騎士として月のほとんどを王宮で過ごしている。実家の伯爵家に出入りする商人に任せて集めたメイドに見覚えがないのも当然のことかもしれない。
(こんな女に惑わされてなるものか。俺がマッヒーリス殿下の願いを聞いたのは……)
風になびく赤い髪に心を奪われそうになって、ウィレムは自分に言い聞かせた。
この見合いを受け入れたのは、主君に願われたからだけではない。
異母姉とはまるで違う清楚な雪薔薇嬢のためだった。
整っているものの厳つい顔で体も大きく無口で不愛想なウィレムは、王太子マッヒーリスに仕える文官系の側近達のように雪薔薇嬢と親しく話したことはない。
しかし王太子マッヒーリスに見せる彼女の微笑みを一番近くで見てきた。
雪薔薇嬢が愛しているのは婚約者でも主君とともに彼女を守るのはウィレムの役目だ。
ウィレムは雪薔薇嬢の微笑みを胸に口を開いた。
「紅薔薇嬢、貴女にこの婚約を断る権限はない。俺にもだ。だが、俺に愛されることは期待しないで欲しい。仮面舞踏会通いは黙認する。だから雪薔薇嬢を逆恨みして、命を狙うような真似はやめてもらえないか」
紅薔薇嬢は青い瞳を細め、どこか悲しげな笑みを浮かべる。
「……ウィレム様は、あのくだらない噂を信じていらっしゃるのですね」
「だれもが噂していたし、なにより貴女の異母妹雪薔薇嬢が証言した。疑う余地はないと思うが」
「ふふ……私、学園へ行く以外で王都の侯爵邸から出るのは三年以上ぶりですのよ。お母様がお亡くなりになってからは、祖父のクライチェク商会への人質は私になりましたので、侯爵邸の屋根裏部屋に閉じ込められていたのですわ」
「そんな嘘を言っても俺は騙されない。どうせ俺は王宮に泊まり込む毎日だ。仮面舞踏会通いは黙認すると言っているのだから、今さらご自身を飾る必要はないだろう」
「そうですわね。ウィレム様もそうおっしゃるのなら、ファネンブルグ侯爵令嬢として自分を偽るのはやめにいたしましょう」
紅薔薇嬢が立ち上がった。
気が付くと、見覚えのないメイド達がウィレムを取り囲んでいる。
王太子専属近衛騎士の誇りにかけて抵抗しようとしたが、メイド達は荒々しい動きでウィレムを取り押さえて縛り上げた。
「大海を渡るクライチェク商会で働くものは普段から海賊を相手にしておりますの。数の有利もありますし、お坊ちゃま育ちの近衛騎士に負ける理由はありませんわ。……ウィレム様。王太子マッヒーリス殿下のご命令であろうとも、私はこの婚約をお断りいたします。王家の紹介で貧乏侯爵に嫁いだお母様のように不幸になりたくはないんですもの」
「お嬢様」
ウィレムを中庭に転がして、偽メイド達が紅薔薇嬢に向けて跪く。
「ええ、行きましょう。お礼を申し上げますわ、ウィレム様。貴方がこの見合いを受け入れてくださったおかげで、私はファネンブルグ侯爵邸から出ることが出来ました」
「ま、待て。そのメイド達が貴女の手下ということは、本当のメイド達はどうしている。俺の実家から来てくれている家令は?」
「使用人のことを思いやれる心はお持ちなのですね。本当のメイド達には小遣いを与えて休みを取らせました。家令はご実家の伯爵様に言われて、見て見ぬ振りを約束してくださいました」
ウィレムは実家の父の顔を思い出した。
次男の独立は歓迎してくれたが婚約者交代で主君を諫めなかったことについては怒られた。
この見合いの話を伝えたときは、真実は自分の目でしか見えない、との一文だけが書かれた手紙を返された。
(父上は紅薔薇嬢の味方なのか? どうして? いや、それより……)
「どこへ行く、紅薔薇嬢。まさか王太子殿下を奪われたことを恨みに思って、異母妹の雪薔薇嬢を殺しに行くのか?」
「私があの子を殺そうとしているという噂は、クライチェク商会が流したものです」
「どうして、そんな……」
「あの噂が流れなければ、王太子殿下はウィレム様と私を婚約させるために見合いさせようなどとお思いにならなかったでしょう? ファネンブルグ侯爵邸で見合いがおこなわれなくて幸いでしたわ」
ああ、それと、と言って紅薔薇嬢は青い瞳を煌めかせた。
「どこへ行くとお尋ねでしたわね。私、海へ行きますの。クライチェク商会の船が、お爺様が待っていてくださる海へ。毒を飲まされて寝たきりになっていたお母様が、私の瞳を見ては懐かしんでいた真っ青な海へ!」
偽メイド達を引き連れた紅薔薇嬢が去っていく。
海賊相手に磨かれた彼女達の技術は見事で、近衛騎士として訓練を受けていたウィレムにも縄抜け出来ないほど頑強に拘束されていた。
昼過ぎに見合いが始まって、ウィレムが解放されたのは夕日が沈むころだった。解放してくれた家令は、なにも知らない見ていない気づかなかった、としか言わなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
クライチェク商会は各国の貴族家へ娘を嫁がせるときに、ひとつの条件を付けている。
貧乏人はお断り、というものだ。
なんて浅ましい金の亡者だと蔑むものもいるが、これには理由がある。いきなり裕福になったものは、金目当てで擦り寄って来る悪党どもの真意を読み取れないのだ。
だがこの王国の王家はその条件を無視し、爵位だけ高くて貧乏なファネンブルグ侯爵を紹介した。
最初は持参金持ちの美しい妻を歓迎していた侯爵は、金目当ての貴族令嬢に擦り寄られてコロリと落とされた。
以来、平民の妻を厭い彼女との間に生まれた娘を嫌い、貴族令嬢だった愛人の言うがまま妻に毒を飲ませて王都の侯爵邸へ監禁していたのだ。クライチェク商会から金を引き出すための人質である正妻に止めを刺したのは、嫡子の紅薔薇嬢が王太子マッヒーリスの婚約者となったからである。
王太子の婚約者と言えば準王族だ。
世界に名高い豪商であっても平民に過ぎないクライチェク商会が紅薔薇嬢を侯爵邸から連れ出せば国家反逆罪となる。
紅薔薇嬢自身が抜け出して商会へ逃げ込んでも同じこと。異母妹に王太子を奪われた紅薔薇嬢が彼女に恨みを持つはずがない。紅薔薇嬢はずっとずっと逃げ出したかったのだから。
「……みな私のことを間抜けだと思っていたのだろうな」
「学園のものは、みな噂を信じていましたから……」
ウィレムは自ら王太子の座を退いたマッヒーリスの問いに答えた。
もうすぐ王子でもなくなって子爵となることが決まっている。
今のマッヒーリスに婚約者はいない。
学園の純真な生徒達は紅薔薇嬢の噂を信じていたが、渦中の仮面舞踏会の常連達は違う。
彼らは紅薔薇嬢だと噂されているのが、髪を染めた雪薔薇嬢だと知っていた。
知った上で未来の王太子妃に自分の子どもを産ませたり、噂で貶められた紅薔薇嬢がクライチェク商会の財産とともに自分のところへ落ちてくることを期待して、噂を訂正しなかったのだ。彼らの行動は悪質だったとされ、仮面舞踏会は検挙されて常連は処罰を受けた。
雪薔薇嬢は淫蕩な娘ではなかった。ただチヤホヤされるのが好きなだけだった。
だから無口で不愛想なウィレムには近寄らなかった。
だから仮面舞踏会で出会ったどこのだれとも知らない男達相手でも、チヤホヤしてもらえるのなら体を開いていた。
ファネンブルグ侯爵とその愛人は王家に損害を与えたとして処刑された。再婚するとクライチェク商会から金を引き出せなくなるかもしれないと考えた侯爵は、愛人を正式な妻にはしていなかったのだ。
雪薔薇嬢は更正の余地ありと見做されて神殿へ送られたものの、神官や出入りの商人を誘惑して、結局処刑された。チヤホヤされる快感を捨てられなかったのだろう。
マッヒーリスとの婚約は神殿へ行く前に破棄されている。
クライチェク商会は、ウィレムの実家の伯爵家以外の王国貴族との取り引きをやめてしまった。
もちろん王家ともだ。
婚約者でありながら紅薔薇嬢の状態に気づかず彼女の異母妹に篭絡され、噂を信じて婚約破棄にまで至ったマッヒーリスを生かし続けているのだから許されないのも当然である。
実家にはクライチェク商会からの恩恵があったが、ウィレム自身にはない。
あの見合いの日を思い出せば当たり前のことだった。
しかし王家は伯爵家の恩恵がウィレムにも及ぶのを期待して、今も彼をマッヒーリスの専属近衛騎士としていた。家令とメイド達が早々に伯爵家に引き取られているのだから、ウィレムに期待されても無駄だと本人は思っている。
騎士の道を選んだけれど、伯爵家次男として跡取りの兄の補佐が出来るよう文官仕事も仕込まれたウィレムは、ほかのいなくなった側近達の穴を埋めている。
マッヒーリスが王太子でなくなって、仕事が減ったから可能なことだ。
ほかの側近達は病死したと聞いている。クライチェク商会の機嫌を取るために彼らの実家が始末したのだろう。
「……紅薔薇嬢は活躍しているようだな」
「はい、彼女は堅苦しい貴族令嬢よりも商人として生きるほうが性に合っていたのでしょう」
ウィレムがマッヒーリスに仕え続けているのは、王家の懇願が理由ではない。
クライチェク商会に見捨てられても王家は王家だ。
まだ王子であるマッヒーリスのところへは世界の情報が流れ込んでくる。紅薔薇嬢の噂もしかり。
青い瞳の元侯爵令嬢は、瞳と同じ色の海を股にかけて活躍している。
嵐の海に船出して強大な帝国の食糧危機を救ったことで皇帝の弟に求婚された、などという噂も聞いていた。
彼女の噂を聞くたびに、ウィレムは紅薔薇嬢の悲しげな笑みを思い出す。
あのとき、聞かされていた噂を忘れて彼女自身を見ていたら、今も青い瞳を見つめ続けていられたのではないかと考えることもある。考えても無駄だとわかっている。ウィレムの自業自得だ。
すべてが遅いと理解していても、ウィレムは彼女の青い瞳を忘れられない。
海へ行くと答えた紅薔薇嬢の青い瞳は、きっとこれからもウィレムの胸の中で煌めき続けるだろう。
<終>




