ねえ殿下、昨夜は──
とある王国の王太子であるリカルドの婚約者からの手紙は、いつもそんな言葉から始まった。
リカルドは幼いころからの婚約者である隣国王女の顔を知らない。
寝台から離れられなかった病弱な彼女は、病床にいる自分の姿を見せたくないと言って肖像画を送ってくれないのだ。
三年ほど前、ふたつ年下の彼女がこの王国の貴族子女が通う学園に留学して、リカルドが卒業するまでの一年を過ごそうと思っているという話があったのだが、体調が良くなったと聞いていても心配だと、リカルドが反対して話は消えた。
彼女は療養しながら自国の学院へ通い、もうすぐ卒業する。
卒業前に、体調が回復した彼女の初めての公式な誕生パーティが開かれる予定だ。
リカルドの婚約者の世界は広がった。
今は寝台に座って眺める窓の外の空と、夜に眠って見るリカルドの夢だけではない。
彼女は自国を巡り、卒業の後はリカルドのもとへと嫁いで来る。彼女の世界はさらに広がることだろう。
学園卒業後、王太子としての修業に励んでいたリカルドは国王である父の名代として、なにより彼女の婚約者として初めての誕生パーティに出席することになっていた。
リカルドの出席を喜ぶ婚約者からの返事には、大きな雨雲が近づいているから出発の日程には気をつけて欲しいと記されていた。
ずっと窓の外の空を眺めて暮らしていた彼女の天気予報は当たる。
──前に見た夢のように私と踊って欲しいです。
街を案内しますから、一緒にお茶を飲みましょう。
私が通う学院で散歩をしてくださいませんか?
ふたつ年下の婚約者の手紙は望みに溢れていた。
あまり無理はさせられないと思いながらも、リカルドは出来るだけ彼女の望みを叶えてやりたいと考えていた。
三年前に彼女の留学を受け入れていたら、とっくの昔にふたりで経験していたことだ。
だが、リカルドは婚約者の望みを叶えることは出来なかった。
彼は隣国への出発の日程を間違えたのだ。
王太子と側近、大使と護衛達を閉じ込めた大雨は嵐となり、数日間に渡って開催された隣国王女の誕生パーティが閉幕するまで終わることはなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「婚約の白紙撤回とはどういうことなのですか!」
意外な話を聞かされて叫んだリカルドに、父王は陰鬱な表情を浮かべた顔を向ける。
「っ……もしかして、彼女になにかあったのですか? 誕生パーティではしゃぎ過ぎて病気がぶり返した? 命が危ういのですか?」
父王は溜息を吐いてから、リカルドに尋ねた。
「だったら嬉しいのか?」
「なっ! そんなわけないではありませんか。彼女は私の婚約者なのですよ?」
「では、なぜ三年前彼女の留学に反対した?」
「彼女の体を案じてのことです」
「なぜ学園で男爵令嬢を侍らせていた?」
「……ご存じだったのですか? それは、その、婚約者に会えない寂しさを紛らわせるためで、学園在学中だけの遊びのつもりでした」
「婚約者の留学を止めたのはそなたであろう? 婚約者にも男爵令嬢にも失礼な話だとは思わなかったのか?」
「だ、だれも私に注意しなかったではありませんか!」
「ああ、そなたの婚約者に止められていたからな。そなた本人が自身の愚行に気づくまで黙って見守ってやって欲しいと言われていたのだ。……わしは息子であるそなたが可愛い。だからすぐに自分の愚かさを悟ると思い、彼女の言葉に甘えてしまった」
リカルドは言葉を失った。婚約者からの最後の手紙の文面が頭を過ぎる。
──前に見た夢のように私と踊って欲しいです。
街を案内しますから、一緒にお茶を飲みましょう。
私が通う学院で散歩をしてくださいませんか?
夢ではなく現実でリカルドが踊ったのは男爵令嬢とだ。
まだ学友だった側近達を説得して、お忍びで街へ行って一緒にお茶を飲んだのも男爵令嬢とだ。
婚約者の留学を拒んだこの国の学園で、毎日のように庭を散歩していたのも男爵令嬢とだ。
父王が再び口を開く。
「そなたの婚約者……元婚約者は病弱だったが、寝台を出られないころから独自の情報網を大陸中に張り巡らせていた。そして彼女はその力を自国といずれ嫁ぐ予定だった我が国のために駆使してくれていた。大陸中の空の情報が集まれば、風と雲の動きがわかり天候を予想出来る」
リカルドは優秀な王太子だと言われていた。
婚約者からの手紙に書かれていた天気予報を利用することで、利益の多い農業計画を立てていたからだ。
さりげなく記された遠い土地の流行は、何度もリカルドの個人資産を増やしてくれた。
「最後の質問だ。なぜ、わざわざ大雨にぶつかるとわかっている日に出発した?」
最後のつもりだったからだ。
大雨を理由に男爵領で宿を借り、恋人の男爵令嬢と夜を過ごして、それを最後の思い出にしようと思っていたのだ。
少し遅刻してしまっても、婚約者の誕生パーティには出席しようと思っていた。大雨が嵐にまでなるとは思っていなかったのだ。
リカルドは父王に答えを返せなかった。父王がもう一度溜息を吐く。
「隣国王女との婚約は白紙撤回となった。初めからなかったことにするので、隣国との関係に支障はない。……そなたは自ら廃太子となり、男爵令嬢と結婚して真実の愛を貫くのだろう?」
はい、と答えるしかなかった。
隣国王女の天気予報はよく当たる。
嵐になる天候を大雨と記したのは彼女の賭けだったに違いない。リカルドが大雨を避ける日程で隣国の誕生パーティへ向かうか、わざと大雨にぶつかって男爵領で恋人と過ごすか──その結果で、自分の未来を決めるために。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
リカルドは父王の言葉通り自ら廃太子となり、男爵令嬢と結婚した。
真実の愛を貫けたかどうかはわからない。
幼いころから婚約者を決められていた自分を悲劇の主人公に仕立て上げ、男爵令嬢との禁断の恋に酔いしれていたころは楽しかったものの、いざ浮気相手との関係が認められて結婚という現実に踏み込んでみると、すべてが色褪せて見えた。
男爵令嬢のほうも同じ気持ちのように見える。
王太子の恋人として禁断の恋に溺れ、婚約者の隣国王女よりも自分が愛されているのだと浸っていたときのほうが今より楽しかったのに違いない。
禁じられていたからこそ輝いていた甘い夢の時間は終わったのだ。
リカルドはときどき真夜中に目が覚めることがある。
元婚約者の夢を見たときだ。
彼女の夢を見たと確信しているのに、内容を思い出すことは出来ない。リカルドは彼女の顔も知らないのだから当たり前だ。自国の学院へ通うほど回復した彼女が肖像画を送ってくれなかったのは、まだやつれたところの残る自分の姿を男爵令嬢と比較されるのが嫌だったからだろう。
──前に見た夢のように私と踊って欲しいです。
街を案内しますから、一緒にお茶を飲みましょう。
私が通う学院で散歩をしてくださいませんか?
「夢の中の私は君に優しかっただろうか……」
リカルドはひとりの寝室で呟いた。
あの嵐に閉ざされた夜のように男爵令嬢と激しく求め合うことは、もうない。
目覚めれば消えてしまう儚い夢を求めて、リカルドは再び眠りに就いた。
<終>