きっと彼女は帰って来る。
兄さん、どうしたの? 急に帰って来たりして。
幼いころからの婚約者だったマリアを捨ててまで選んだ女と結婚して、今の兄さんは幸せの絶頂じゃないか。
いきなり跡取りの座を押し付けられて詰め込み教育をされている弟や捨てられた令嬢という汚名に傷つけられながらも新しい婚約者である僕を必死に支えてくれているマリアに会いに来る理由なんて、どこにもないでしょう?
……なんてね。知ってるよ、兄さん。
あの女、兄さんから下町の犯罪組織の男に乗り換えたんだってね。
なんで知っているかって?
下町で暮らす兄さん達の動向を監視してたに決まってるじゃん。
どこかの男の種で身籠ったあの女が、いつ僕とマリアの子どもを殺して我が家を乗っ取ろうとするかわからないんだから。
というか、家の継承権を放棄して平民になった時点で自分が断種されたってこと、ちゃんとあの女に言っときなよね、兄さん。
子どもを望めないと知られたら捨てられてしまうかもしれないと思った? 子どもが望めると思われてても捨てられたじゃないか。
そういう女なんだよ、最初から。
あの女の身分が低いから見下してるんじゃない。
平民だろうと貴族だろうと不貞をする人間は不貞をするし、不貞をしない人間は不貞をしない、それだけのことさ。
婚約者のいる主家の跡取り息子を誘惑して、その婚約者の家からの援助を吸い取って自分だけ肥え太ろうとしていた女なんだ。
兄さんの向こうに吸い取れる財産がなくなったら、そりゃ捨てるよ。
ある意味向上心に満ちた女だよね。
男を見る目もある。
犯罪組織の男、かなり有能らしいね。組織の首領にも気に入られてるんだってさ。
あの女に対して誠実であろうとしたりしなければ、兄さんはマリアと結婚して優秀な貴族家当主になっていたと思うよ?……マリアは不幸だったろうけど。
まあその前にマリアの実家が兄さんを許さなかったよね。
だからね、兄さん。大丈夫だよ。
ああ、誤解しないで。
兄さんを僕の補佐として我が家に迎え入れるってことじゃない。
父さんと母さんが許さないし、もちろん僕も許さない。
マリアだって許さないよ。
あんなことをしておいて、どうして許されると思ってるのさ。
幼いころからの婚約者を大衆の面前で罵って婚約破棄をして、あの女を選んだのは兄さんだろう?
あの女に冷たかったマリアが悪い?
自分の婚約者を寝取るような相手に優しくするのが当たり前だって言うのなら、兄さんも犯罪組織の男とあの女の関係を祝福しなくちゃね。
ふふ、どうしたのさ。急に黙って。
ねえ兄さん。父さんと母さんが、あの女を当主夫人として認めると思ったの?
身分よりも財産よりも前に、婚約者のいる男性と不貞を働くような女なんだよ?
我が家の名誉を穢したことで、ふたりして殺されなかっただけでもありがたいと思ってよね。
僕が大丈夫って言ったのはね、兄さんがあの女を失うことはないってことなんだ。
きっと彼女は帰って来るよ。
さっき言っただろ、兄さんからあの女を寝取った犯罪組織の男は有能だって。
組織の首領に気に入られてるから、首領の娘との縁談があるんだ。
それにね、僕が彼に教えてあげたんだ。
兄さんが断種されてるってこと、あの女が子どもを連れて来ても絶対に我が家の血筋とは認めないってことをね。
有能な男が身分も財産もない、後ろ盾もない、前の男の種を騙って乗っ取れる家もない、不貞をせずに一途に支えてくれるわけでもない女なんて選ぶはずないでしょう?
向上心の高いあの女のほうは、せっかく食らいついた条件の良い男から離れようとはしないだろうけどね。
兄さんが慣れない下町の仕事で稼いだ金であの女を養って、犯罪組織の男はたまに摘まみ食いに来るって感じになるんじゃない?
有能な男っていうのは気前が良いものだから、彼があの女を摘まみ食いに来た後は、たぶん兄さんの食卓も豪華になるよ。
だからね、兄さん。大丈夫だよ。
きっと彼女は帰って来る。兄さんのところへね。
<終>




