だったら良かったのに
「私が君を愛することはない。……わかっているだろう、ヨロンダ」
初夜の床、マウリッツの言葉に、ヨロンダはすべてを諦めたような微笑みを見せた。
ふたりは年の離れた幼馴染だった。
マウリッツの母親とヨロンダの母親が親友だったことから、マウリッツの母親が死んですぐに婚約が結ばれたのだ。
そのときマウリッツ十二歳、ヨロンダ三歳。
年の差は九歳で、もちろんマウリッツ二十七歳、ヨロンダ十八歳になった今でもそれが覆されることはない。
母を亡くした自分を案じての婚約だとわかっていても、マウリッツは幼いヨロンダを受け入れることが出来なかった。彼女の兄と自分が同い年なこともあり、いつまで経っても妹にしか思えない。
マウリッツはニ十歳で恋人を作った。
十一歳のヨロンダではない。
マウリッツの家であるフェレメノン侯爵家で働いていた十八歳の少女だ。侯爵である父に反対されて彼女は追い出されてしまったが、先日マウリッツの子どもを産んだ。
「君には悪いと思っている。父は彼女の子どもをフェレメノン侯爵家の後継として認めてくれたけれど、当主を継ぐには君と結婚しなければいけないと言うのだ」
馬鹿正直にヨロンダの実家ロンブリー伯爵家へそれを伝えたマウリッツは、親友だった彼女の兄に絶縁された。
昔から実の親よりも優しかったヨロンダの両親もマウリッツを罵倒した。
その場で婚約も結婚も破棄されてもおかしくはなかったのに、一番傷ついたはずのヨロンダがマウリッツを庇った。彼女は絶対にマウリッツと結婚すると告げて、今夜が来たのだ。
ヨロンダの人差し指が、そっと彼女の涙を拭う。
「……本当は少し期待していました。学園を卒業して私も大人になりましたし、お優しいマウリッツ様ならば結婚したら責任を果たしてくださるのではないかと、いつか愛してくださるのではないかと……ごめんなさい、それこそ子どもの浅知恵ですね」
「愛してはいないものの、私は君を大切に……妹のように思っている。こんな愚かな結婚で君の人生を穢したくはなかった。彼女との子どもを後継と認めてくれたように、時間をかけて父を説得するつもりだったんだ」
マウリッツから視線を外して少し沈黙した後、ヨロンダは膝の上に置いていたショールの包みをほどいた。
丸めているだけかと思っていたショールの中から紙の束が現れる。
ヨロンダがそれをマウリッツに渡してくる。
「これは?」
「私は子どもなものですから、好きな方のためになることをすれば愛していただけると思い込んでおりました。……マウリッツ様のお母様がこの館の露台から落ちてお亡くなりになられたときの事件と、それ以外のいろいろについて調べた記録です」
「母の死を?……確かに君はよくこの家へ来て、家令達と話していたな」
「最初は未来の女主人として働いてくれている方々と親しくなろうとしていたのです。でもどうしてもおかしく思えて。マウリッツ様のお母様のお部屋の露台には成人男性の腰よりも高い柵があります」
「……あのころの母は心を病んでいた。事故ということになっているが本当は自殺だったのだろう」
「はい、最初はそう思いました。自殺ならばどんなに高い柵でも乗り越えるでしょう。ですがマウリッツ様のお母様は背中から落ちていました」
「だれかに突き落とされたとでも言うのか? 確かにあのころの母は父の浮気を疑っていた。しかし父はこの王都のフェレメノン侯爵邸を遠く離れた領地へいたんだぞ?」
「その記録さえ読んでいただければ、明日の朝には離縁届けに署名をしてこの家を出て行きますわ。先ほどのお言葉で諦めがつきました」
「だったら最初から結婚しなければ……いや、いい。君が望むのなら、そうしよう。離縁後は幸せな人生を歩んでくれると嬉しい」
マウリッツは渡された紙の束に視線を走らせた。
「……」
意外な事実がわかる。
侯爵邸の使用人達は母を突き落としたのをマウリッツだと思っていたのだ。
夫の浮気を疑って心を病んだ侯爵夫人は、夫によく似た息子に執着していた。当時のマウリッツはそれを疎んで母とは距離を置いていた。それでも母に呼び出されるかして部屋へ行き、しつこく纏わりつかれて突き飛ばしたのではないか、使用人達は最初そう思っていたのである。
「父は……本当に浮気をしていたのか」
「子どもの調べた結果に過ぎません。裏付けはマウリッツ様でお取りくださいませ」
マウリッツの父はよりによって母付きのメイドと浮気をしていた。
そのとき父が領地へ行っていたのは、それから数年後に亡くなった祖父が浮気相手と引き離すために命じたことだった。
使用人達が大切な跡取り息子のマウリッツの犯行だと思って口を噤んだことで侯爵夫人の墜落死は事故と見做され、ちゃんとした捜査はされなかった。だれもマウリッツにその話題を振ることもなく、事件は風化した。
だが、ヨロンダが調べ始めるころには使用人達の意識は変わっていた。
ずっと書庫にいたという坊ちゃまの証言は本当だったのではないか、そもそも侯爵夫人付きのメイドが部屋にいなかったと言っていること自体がおかしい、今にして考えるとあのメイドは妊娠していたのではないか? そんな証言が紙に綴られている。
マウリッツは母が死んだ直後の使用人達の腫れ物に触るような態度を思い出した。親を亡くした子どもに対する気遣いだけではなかったと、今ならわかる。
「私には異母弟がいたのか……」
マウリッツの母の死後、フェレメノン侯爵はメイドを家から出して王都の下町で囲っていた。
愛人が死んだ後も彼女の息子とは良好な関係を築いている。これは文章だけでなく、最近開発された現実の光景を紙に焼き付ける技術で描かれた侯爵と少年の仲の良さそうな画像からも察せられた。
うっすらと覚えている母付きのメイドによく似た美しい少年だ。
「いや、メイド以外にも似ている気がするな」
マウリッツは自分の恋人のことで叱責して来たときの父の顔を思い出す。
ふたりは疎遠な親子だった。父に当主の座を譲った後も先代として権力を握っていた祖父が死んだ後は、叱責以外で声をかけられた記憶がない。
画像で並んだ父と少年の顔を頭の中で重ねてみたけれど、相似しているところは見つけられなかった。
よほど母親に似ているのだろうと思いながら紙を捲って、マウリッツは息を呑んだ。
そこにはマウリッツの恋人と抱き合う少年の姿が焼き付けられた画像があった。
父と会ったときは休日で、マウリッツの恋人と会ったときは仕事の合間だったのだろう。少年は聖職者の衣装を身に纏っていた。そして、その格好をした少年を見るとだれに似ているかがはっきりとわかった。
「大神官様? 我が家の支援で聖王選挙に立候補された大神官様に瓜ふたつじゃないか」
「マウリッツ様のお父様は未だにお気づきでないようですけれどね」
小さな笑い声が聞こえて、マウリッツは紙の束から顔を上げた。
そこには美しい女性がいた。マウリッツの心臓が甘く疼く。
ずっと年の離れた妹だと思っていたヨロンダは、いつの間にか美しい大人の女性になっていたのだ。
「この記録をどのようにお使いになるかはマウリッツ様のご自由になさってください。そろそろ私は客間へ行って眠りますわ、旦那様」
「ヨロンダ……」
「ずっとマウリッツ様をそう呼びたかったんですの。ええ、今夜だけ、最初で最後です。私がもっと大人だったら良かったのに、マウリッツ様がもっと子どもだったら良かったのに、そう願ったことは何度もあります。でも貴方に恋をしなかったら良かったのに、そう思ったことだけはありません。もっと早くに記録をお渡ししなかったのは、こんなもの無くても愛してくださると信じていたかったからですわ。……子どもでしょう?」
ヨロンダは夫婦の寝室を出て行った。
マウリッツは恋人の産んだ子どもの顔を頭の中で何度も自分と重ねてみたが、父と少年と同じで相似しているところはどこにもなかった。
翌朝、ふたりは離縁をした。離縁届けに署名をして侯爵邸を出て行ったヨロンダは、その後二度とマウリッツの前に姿を現すことはなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
愛人の犯行を知りながら庇っていたのだとしたら、父であるフェレメノン侯爵はマウリッツの母の仇だ。
その上愛人の産んだ息子はマウリッツの恋人の情夫らしい。
おまけにその息子は父の種ではなく、恋人の子もマウリッツの種ではなさそうだ。父が子どもを後継として認めると言ったのは、どちらの子だとしても自分の孫だと思ったからだろう。
ヨロンダに渡された記録の裏付けを取ったマウリッツは、一度は復讐を考えたものの結局なにもしないうちにすべてが終わってしまった。
父の愛人の情夫だったと思われる美貌の大神官が妻を寝取られた男に刺されて死んだのだ。
犯人の証言で大神官の乱れた性生活が露わになり、愛人の裏切りを知った父は王都の侯爵邸で侯爵夫人の部屋の露台から落ちて死んだ。事故死である。貴族家で自殺だなんて外聞の悪いことは起こらない。
マウリッツが当主となって引継ぎに負われている間に恋人が情夫を刺して捕まった。
美しい少年聖職者は実父と同じように乱れた性生活を送っていた。大神官の事件で顔がそっくりな情夫に疑惑を持った恋人がそれを調べ、嫉妬から犯行に及んだのだった。
子どもは恋人に溺れていたマウリッツ以外のだれが見ても少年聖職者の子で、孤児院へ送られることになった。
恋を選んで侯爵家を捨て、ふたりで平民の夫婦となっていたら恋人は浮気をしなかったのだろうか。
許されぬ愛人という立場が恋人を不貞へと導いてしまったのか。
一度はそう考えて、マウリッツは苦笑した。自分と恋人の関係自体、最初から不貞だ。
怒りや悲しみを感じることもないほど忙しい日々の中で、マウリッツはヨロンダの再婚を知った。
相手は学園で同級生だった平民の青年で、以前からヨロンダの調査能力を認めていたのだという。
ヨロンダはロンブリー伯爵家の継承権を放棄して平民となり、夫と商会を立ち上げた。おそらく大きな商会に発展することだろう。
ヨロンダがもっと早く生まれていて自分と同い年だったなら。
自分がもっと遅く生まれていてヨロンダと年が近かったなら。
二十歳で婚約者を裏切らなければ、母の死因をもっと早くきちんと調べていたら、父の浮気を疑う母の言葉をちゃんと聞いていたら──だったら良かったのに、は無数にある。だけど、いつか消し去らなくてはいけない想いだとわかっていても、マウリッツはあの初夜にいつの間にか大人になっていたヨロンダに恋しなければ良かったのに、とは思わない。
<終>




