婚約破棄されたのはだぁれ?
この国の貴族子女が通う学園の卒業パーティの夜、私は自宅の寝台で横になっていました。
もう結婚してもおかしくない年齢にもなって恥ずかしいことですが、子どものように知恵熱を出してしまったのです。
熱が下がって来たのを感じて、私は体を起こしました。
「エステルお嬢様」
桶を手にした侍女がちょうど部屋へ戻ってきました。
私がうとうとしている間に、額に載せる布を湿らせるための水を替えに行ってくれていたのでしょう。
部屋の時計を確認します。まだ卒業パーティは終わっていない時間でしたけれど、これから参加するのには遅い時間です。
「ありがとう。でも濡れた布はもういらないかもしれないわ」
「さようでございますか、よろしゅうございました。……ジェラルド様がお越しですがお会いになりますか?」
「え!」
ジェラルド様は幼いころからの婚約者です。
迎えに来ていただいたときに熱が下がっていないことを伝えて、お友達もいらっしゃるのだから私のことなど気にせずに卒業パーティを楽しんで来てください、と言って送り出したのですが、途中で抜け出してこられたのでしょうか。
追い返すのも失礼な気がしますし私も彼に会いたかったので、寝巻の上に薄い上着を羽織って、侍女に彼を通すように言いました。私の知恵熱の原因がジェラルド様だと知っている侍女は、桶だけ置いて憮然とした表情で部屋を出て行きました。しっかり者で優秀な侍女は私に過保護なのです。
やがてジェラルド様が部屋へと案内されてきました。
「エステル、体調はどう?」
「かなり楽になりました。来てくださってありがとうございます、ジェラルド様。卒業パーティの最後までお友達と過ごさなくてよろしかったのですか? 卒業したら皆様忙しくなると思いますが」
「気遣ってくれてありがとう。でも大丈夫。ちょっとした騒ぎが起こってね、卒業パーティは途中で終了になったんだ。友達とは後日会う約束をして別れたよ」
「ちょっとした騒ぎですか?」
ふと心に不安の影が過ぎりました。
学園で仲良くしていただいていたお友達の顔が頭に浮かびます。
もしかして最悪の結果になってしまったのでしょうか。
「婚約破棄だよ」
「っ」
恐れていたことが起こってしまったようです。
お友達の公爵令嬢はこの国の王太子殿下の婚約者で、美しく気高いお方である反面厳しく冷徹なところがおありでした。
王太子殿下と男爵令嬢の不適切な関係に苦言を呈していたのは嫉妬心だけではなく、心から婚約者の殿下を想ってのことでしたのに……殿下はそれを理解してくださらなかったのです。
「……王太子殿下が公爵令嬢との婚約を破棄なさったのですか?」
殿下は公爵令嬢の男爵令嬢に対する訓戒を虐めと見做していました。
ジェラルド様はなぜか楽し気にお答えになります。
「いいや、違うよ。ねえ、エステル。だれが婚約破棄されたんだと思う?」
「こんな大変なことを謎解き遊びみたいに……侯爵令嬢ですか?」
侯爵令嬢とはそんなに親しくはなかったのですが、彼女が王太子殿下のご学友で男爵令嬢の取り巻きのひとりでもある婚約者の騎士団長の息子に冷たくされている姿は見たことがあります。
「ハズレ」
「伯爵令嬢?」
伯爵令嬢の婚約者も王太子殿下のご学友で男爵令嬢の取り巻きのひとりでした。
この王国で二番目に大きな商会の跡取り息子です。
ちなみに一番大きな商会は私の母の実家です。父は金目当て、母は身分目当ての結婚と噂されていますけれど、子どもの私と弟が見ていて恥ずかしくなるほど仲の良いふたりです。
「残念」
「子爵令嬢でしょうか?」
子爵令嬢の婚約者もご学友の取り巻きで、高名な学者一族の方です。
「そうじゃないんだな」
「……も、もしかして私、ですか?」
「どうしてそう思うの?」
「だってジェラルド様は私のために冷たい態度を取っていらっしゃったのに、誤解して婚約解消を言い出したりしましたので……」
「それは君が悪いんじゃないよ。第一君のためどころか僕の身勝手だ。君に好かれたいから、君が好きだった物語の騎士を真似て冷たく振る舞っていたのは僕の選択じゃないか」
「冷たくてもジェラルド様は優しくて……素敵でしたわ」
ジェラルド様が好きだから気持ちが暴走して、冷たくされるのは愛されていないから、愛されていないのなら婚約解消して解放して差し上げたい、になったのです。
「ありがとう。でも、じゃあ今の僕は素敵じゃない?」
「そんなことありません! 今の饒舌なジェラルド様も素敵ですわ」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
ちらりと背後の侍女を見て、ジェラルド様はおっしゃいました。
「婚約解消を言い出した君に本当の気持ちを伝えたい一心で、いきなりキスしたりしてごめんね」
「……気にしてませんわ」
「全然気にされないのも悲しいなあ」
「ほ、本当に気にしてなかったら知恵熱を出して寝込んだりしていませんっ」
「そうだね。すれ違いが解消されたのは嬉しいけど、体に影響が出るほど混乱させちゃってごめん」
「ジェラルド様……」
「エステル……」
ジェラルド様のお顔が近づいてきます。
「お嬢様、ジェラルド様?」
侍女の冷たい声で私達は体を離しました。
いくら学園を卒業して、後数年で結婚すると言っても、貴族子女の貞節は初夜まで守られなくてはいけません。
「え、えぇっと。そうそう、ジェラルド様。結局婚約破棄されたのはどなたですの?」
「男爵令嬢だよ」
「え?」
「彼女、外国に留学していた婚約者がいたんだ。男爵令嬢の卒業パーティだからと無理して帰国したら、王太子殿下方とイチャイチャしている彼女を見る羽目になったんだから、その場で婚約破棄さ」
「まあ……」
正直なところ自業自得としか思えません。
婚約者が外国にいたから、身分の高い男性と遊んでいても気付かれないとでも考えていたのでしょうか。
どちらにしろ結果は同じだったでしょうが、せめて婚約者のいない方を相手にしていれば良かったのに。
「……では公爵令嬢と王太子殿下の婚約は継続なのですね」
学園に入学したばかりのころの公爵令嬢が王太子殿下を愛していらっしゃったのは知っています。
でもいつからか王太子殿下が男爵令嬢に夢中になって、案じる言葉や行動も悪意を持って受け取られるようになって……彼女の心がすり減っていくのがわかりました。
私がジェラルド様との婚約解消を言い出したときは、話し合ってからでも遅くはないと忠告してくださった思慮深い方です。この国の未来を思って王太子殿下との関係を続けていくのでしょうか。
「ううん」
「はい?」
「王太子殿下とご学友の方々の婚約はすべて解消、もしくは白紙撤回されたんだ」
「まあ!」
「優秀なご令嬢達だから、卒業パーティが終わった途端各国の要人に囲まれて自国の優秀な人材との縁談を勧められていたけどね」
「そうですの、良かったですわ」
「たぶん公爵令嬢は明日、親友の君に報告に来ると思うよ。婚約者として負けてられないから、こんな遅くに押しかけちゃった」
「ふふふ」
「……さようでございますね。もうすっかり遅い時間となりました」
侍女の声が室内に響いて、ジェラルド様が飛び上がりました。
「そ、そうだね。婚約者同士とはいえ、同じ部屋で過ごすには遅い時間だ。エステルの醜聞にならないように、僕はそろそろ帰路に就くよ」
「それでこそエステルお嬢様の婚約者様でございます」
「じゃあまたね、エステル。……おやすみ」
「おやすみなさいませ、ジェラルド様」
侍女と一緒に部屋を出たジェラルド様が廊下で、忘れ物! と叫んで戻ってきたかと思うと、私の額にキスを落として再び去っていったのは、私と彼だけの秘密です。
もっともしっかり者で優秀な侍女は、すべて気づいた上で気づかぬ振りをしてくれていたのでしょうけれどね。
<終>




