知らぬがざまぁ
私が陛下の婚約者となったのは、互いに物心がついてすぐのころでした。
そのころはまだ陛下ではなく殿下、王太子殿下でいらっしゃいました。
陛下のご両親は割り切った考え方をなさる方々で、跡取りである陛下が生まれてご健勝にお育ちになった後は、互いに愛人を作って自由に過ごされていました。
そのせいか、初めて会った陛下はとてもお寂しそうに見えました。
幼いながらも私は陛下を守りたい、幸せにして差し上げたい、と願って恋に落ちたのです。
陛下ご自身は──
政略結婚なのだから、私がそなたを愛することはない。
そなたの愛を望むこともない。
王妃としての役目を果たしてくれさえすれば良い。
そうおっしゃいました。その瞳に私の姿を映してさえくださらなかったことを覚えています。
あなた方がご存じの歌姫と陛下が巡り合ったのは、私達が結婚する直前のことでした。
帝国との戦いで先王陛下が亡くなられて、陛下が即位なさったころの話です。
なんとか帝国を追い払い、帝国自体が内乱によって滅びかけていたのは良かったのですが、これまで帝国で猛威を振るっていた悪党どもが我が国へと入り込んでいました。
ああいう悪党どもは散々貯蔵庫を食い荒らしておきながら、乗っていた船が沈みかけたらすぐに逃げ出す、鼠のような輩ですものね。
我が国へ入り込んできた帝国の悪党どもは違法奴隷組織の人間でした。
陛下は近衛を率いて組織を検挙し、彼女と出会いました。
奴隷として捕えられていた美しい歌姫、帝国に滅ぼされた国の王女です。
初めて会った婚約者の私に、愛さない愛を望むこともない、と宣言なさった陛下は、私以外にも冷酷な方でした。
だれも笑顔を見たことがなく、陰では氷で出来た人形なのではないかと噂されていたほどなのです。
陛下の氷を溶かしたのは、人形を血肉の通った人間に変えたのは婚約者の私ではなく、美しい歌姫でした。
とはいえ、なんの後ろ盾もない奴隷だった娘を王妃にするわけにはいきません。
彼女が亡国の王女だということはまだだれも知りませんでしたし、知っていても帝国が滅びていない状態では厄介な火種に過ぎません。
それに陛下も我が家の後ろ盾を失うわけにはいきません。
彼は先王陛下のたったひとりの嫡子でしたけれど、庶子はほかにもおりましたし、王家から分かれた公爵家にも優秀な人間はいたのですもの。
私は愛しい陛下に嫁ぎました。私を映したことのない瞳に、最愛の歌姫を映し続けている彼に。
国王の最愛に暴言を吐き、嫌がらせをする嫉妬深い王妃。
実家の権力だけで娶られた、愛されてもいない哀れな王妃。
それが、あなた方の歌う私ですね。
謝ることはありません、本当のことですもの。
初めて会ったときから愛していた方を奪われてお飾りの王妃に貶められた私は、彼女に嫉妬する以外のことはなにも出来なかったのです。どんなに着飾っていても、あのころの私は醜く化け物染みていたことでしょう。……歌姫のことで私を責めるときでさえ、陛下はその瞳に私を映すことはなかったのですが。
やがて帝国が滅びました。
内乱による自滅です。
それにつけ込んだ周辺国が帝国の国境沿いを切り取って我がものとしましたわ。
ええ、我が国もですわ。当然のことでしょう?
だれも知らない異国の旋律が我が国の王宮に響き渡ったのは、その戦勝の宴でのことでした。招かれた吟遊詩人が奏でる旋律に合わせて、だれも知らない異国の歌を紡ぎ始めたのは陛下の愛する歌姫でした。奴隷だった彼女は亡国の王女、諸国を放浪していた吟遊詩人は彼女の忠実な騎士だったのです。
白い結婚で三年が過ぎていたので、陛下は私と離縁して彼女と結婚なさいました。
もう帝国を恐れる必要はありませんでしたし、自国の貴族令嬢よりも亡国でも王女のほうが権威を持っています。
それに上手く行けば、彼女の祖国を自領とすることが出来るかもしれませんものね。
嫉妬深い哀れな王妃を嫌って陛下と歌姫の真実の愛を応援していたものはもちろん、国内情勢を案じて私の味方を応援していたものもみな、陛下の英断を歓迎いたしました。
醜い王妃は追い出されて、陛下は最愛の歌姫と暮らしました。めでたしめでたし。
……あら? どうなさいましたの? もうお話は終わりですわ。
え? どうして陛下ご自身が私との離縁を拒んだのか?
どうして陛下が最愛のはずの歌姫を殺そうとして、抵抗された挙句殺されてしまったのか?
そんなこと存じませんわ。そもそも歌姫の件は私が王宮を出た後のことですのよ?
お帰りなさい。私があなたに話してあげられる陛下のことは、これですべてです。あなたはこれからも歌い続けなさいな、国王殺しで処刑されかかった歌姫が救いに来た吟遊詩人と一緒に殺されるまでの物語を。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「そなたは私を愛しているのだろう?」
あのとき周囲に言われて離縁を受け入れた私に、陛下はおっしゃいました。
陛下が王宮に与えられた私の部屋を訪れたのは結婚してから初めてのことでした。
出会って初めて私を映してくださった陛下の緑色の瞳を見つめながら、私は答えました。
政略結婚だったのですから、私が陛下を愛することはございません。
陛下の愛を望むこともありません。
国王としてのお役目を果たされることだけを願っております。
絶望に沈む陛下の顔を見てもなんの感情も浮かびませんでした。
だって陛下は私を愛しているわけではないのですもの。
吟遊詩人を見つめる歌姫の瞳に恋慕と愛情を認めて、これまで自分が愛だと信じていた彼女の想いが奴隷組織から救い出されたことへの感謝と、祖国を再興したいという野望でしかないと気づいただけなのですもの。
心の中で陛下に囁きます。
陛下、彼女が貴方を裏切ることはありません。
どんなにあの吟遊詩人を愛していたとしても、国を失った元騎士の子種で産んだ子どもでは祖国再興の役には立たないのですもの。誇り高い亡国の王女殿下は、国のためなら愛してもいない男に添い遂げることも厭わないのです。愚かな私は、たとえ政略結婚であっても貴方と愛し愛されたいと望んでいましたけれどね。
本当は陛下も愛を求めていたのでしょう。
だから、自分を愛していない歌姫を愛せなくなったのです。
肉体では裏切らないとしても、精神は永遠に裏切り続けている彼女を。感謝の気持ちはあるにしろ、自分を祖国再興の道具としか見ていない彼女を。
私は過去を思い出すのをやめて立ち上がり、応接室の窓から吟遊詩人の背中を見送りました。
歌姫最愛の吟遊詩人ではありません。
もうあれから何年も過ぎ去っています。実家へ戻った私は望まれて家臣のもとへ嫁ぎました。陛下が亡くなった後、父から公爵家を受け継ぐ予定だった私の兄が国王に選ばれたので、私は夫に支えられて女公爵の地位に就きました。
夫も子どもも愛しています。もうすぐ孫も産まれます。
帝国が滅びたこともあって兄の治世は陛下のころよりも素晴らしいと評判です。
先ほどまで応接室にいた吟遊詩人の歌を町角で聞くまでは、私は陛下の瞳が緑色だったことも忘れていました。
あの吟遊詩人の不躾な面談の申し込みを受けたのは、過去を辿ることで自分の気持ちを確かめたかったからです。
こんなにも簡単に忘れてしまったのは、私が最初から陛下を愛していなかったからなのではないかと考えたからです。
最初の恋も最後の恋も夫だったなら、どんなに素敵なことかしらと思ったからなのです。
残念ながら思い出した記憶の中、少なくともあのときの私は陛下を愛していました。
それまでも陛下が私を瞳に映していたならば、私の瞳に灯る彼への恋慕と愛情が消えていないとわかったことでしょう。
でも初めて私を見る陛下にはわからなかったのです。
……それで良いのです。
陛下は私の愛など知らなくて良いのです。
ご両親にも最愛の歌姫にも、なにをしても愛し続けるだろうと侮っていた王妃にも愛されていなかったと絶望して死んでいったので良いのです。
私もきっとまたすぐに彼の瞳が緑色だったことを忘れてしまうでしょう。
愛していたときでさえ、私を映さないその瞳を見つめることはなかったのですもの。
二度と思い出すことはありません。鮮やかな森の緑でなく深い水底の寂しげな緑だったことなんて──もう、二度と。
<終>