彼は幸せになれない、永遠に。
「ロイド様、さようなら。……ずっとお慕いしておりました」
その言葉を最後に、ロイドの妻クライネは死んだ。
若き侯爵と伯爵令嬢、近しい領地に生まれ育ったふたりは政略結婚をした。
クライネが亡くなったのは三年間の白い結婚の後、平民の愛人に溺れて彼女を顧みなかったロイドが、妻の優しさと献身に少しずつ心惹かれ始めていたころだった。
クライネは毒で死んだ。
だれもが夫の冷遇に心折れての自害だと言ったが、ロイドは信じなかった。
彼女がロイドに誓ってくれたのだ、これからも妻として彼を支え続けると。
侯爵家当主が陣頭指揮を執っての数ヶ月の捜査によって、クライネ毒殺犯が判明した。
意外と言えば意外、当然と言えば当然──犯人はロイドの愛人だった。
愛人はロイドの心がクライネに移りつつあることに気づいていたのである。
もっとも愛人が一途にロイドへの愛に生きていたわけではない。
愛人にはちゃんと同じ平民の情夫がいたし、そもそもロイドが愛人に溺れたきっかけの幼い日の初恋の想い出は、本当は彼とクライネとのものだった。
少し考えればわかったことだ。いくら幼かったとはいえ、侯爵家の跡取りが平民の少女と気軽に会えるはずがない。
「アタシのせいじゃないわ。ロイドが勝手に誤解してアタシを愛したのよ!」
まさにその通りであったのだが、それで無罪になるようなおこないではない。
侯爵夫人毒殺犯は共犯の情夫とともに処刑された。
その後のロイドは再婚話を断り、新しい愛人を作ることもなく人生を送った。
侯爵家は遠縁から養子を取って継がせた。
ロイドが寿命を迎えたのは、当主の座を養子に譲って義理の孫の誕生を祝ってからのことである。
「……クライネ、今、君のもとへ行くよ……」
それが彼の最後の言葉だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
死んだロイドが気付くと、そこは冥府だった。
ロイドとクライネが生まれ育った王国の宗教には生まれ変わりの思想がある。
死者は冥府で生前の罪や苦しみから解放され、真っさらな状態で生まれ変わって新しい人生で幸せを目指すというものだ。もっとも強い愛や憎しみは完全に捨て去ることは出来ないとも言われていた。
冥府は真っ白な空間だった。
なにも見えない、なにも聞こえない。
自分自身の存在さえもあやふやに思えるのは、生前の罪や苦しみが浄化されつつあるからかもしれない。
(……嫌だ。クライネのことを忘れたくない)
クライネを冷遇していたことは生前の自分の最大の罪だ。
ロイドは自分の中から消えようとしていたクライネの記憶を抱き締めた。
死んだ彼に実体はないので、あくまで精神的なものである。
見えない腕の中のクライネは温かく感じられた。
ロイドはクライネの温もりを知らない。
知っているのは死の床で握り締めた小さな手の冷たい感触だけだ。
そのとき、ロイドの前にふわりとなにかが現れた。
腕の中と同じ温かく感じるなにか──
「クライネ……なのか?」
『ロイド様と初めて会ったときのことを今でも覚えています』
見えないなにかが聞こえない声で歌うように呟く。
もしかしたら彼女は、クライネが生まれ変わる前に冥府で捨てた生前の罪や苦しみなのかもしれないと、ロイドは思った。
存在しない体で泣きそうになりながらロイドは無い耳をそばだてる。
『我が伯爵領で魔獣の大暴走が起こって、兄とともに侯爵領に避難させていただいていたときのことでした。幼いロイド様は、離れた両親を案じて知らない場所で泣きじゃくる私の手を握り締めてくださいました』
ああ、そうだ、とロイドは頷く。
愛人に奪われていた初恋の想い出は、クライネ以外の相手ではあり得なかった。
近しい領地で生まれ育った、いずれは政略結婚するふたりだとわかっていたから大人達は一緒に行動させていたのである。泣きじゃくっていた少女が落ち着いてから見せた微笑みに、ロイドは恋をしたのだ。
それが私の初恋でした、と言った後で彼女は続けた。
『でもそのときには、ロイド様はもうあの人を愛していたのですね』
「違う!」
思わず叫んだロイドの声は、彼女には届かない。
そうでなくても自分でも聞こえない声なのだ。
死者には実体も声もない。
『初夜の床で愛せないと言われても、三年間疎まれながら過ごしても、私はロイド様を諦めることは出来ませんでした。なんて浅ましい女でしょう。愛しているというのなら、相手の幸せを望むべきなのに』
彼女が捨てた罪や苦しみではなく本当のクライネ自身で同じ冥府にいるのだとしても、ロイドとクライネが触れ合うことは出来ない。
ふたりは死んだのだ。
『どんな時代のどんな国で出会っても、私はロイド様を愛することでしょう。貴方への愛が胸に溢れて、自分でもどうにもならないのです』
「クライネ……」
ロイドの胸に希望の光が灯った。
生まれ変わったなら、もう一度会えたなら、今度こそクライネを愛するのだと心で誓う。
侯爵家の主治医に死亡を告げられてもクライネの冷たい手を離せなかったのは、あのときすでに愛していたからだ。愛人を選んだつもりでいても、心のどこかがクライネを求めていたのだ。
ふっと、彼女の気配が和らぐのを感じた。
微笑んだのだろうか、とロイドは思う。
どうして自分は生きていたころのクライネを見つめなかったのだろう。見つめて、あの微笑みが初恋の少女と同じものだと気づいていたら、きっともっと幸せな人生を送れていたのに。
(いいや、遅くない。今度こそ……新しい人生では……)
『だから私は神様にお願いしたのです。私とロイド様の縁を引き裂いてくださいと。出会わなければ愛することもありません。どんな時代のどんな国でも、何度生まれ変わったとしても、浅ましい私がロイド様にご迷惑をおかけすることはないのです。ロイド様……どうか新しい人生では、本当に愛する人と結ばれて幸せになってくださいませ』
それだけ告げて、彼女の気配は消えた。
ロイドの腕の中のクライネの記憶も儚くなっていくのがわかる。
愛人を選んで妻を冷遇していたロイドが持つクライネの記憶はごくわずかしかない。
「あ、あ、あ……クライネ……っ!」
(本当に愛する相手と結ばれなければ幸せになれないというのなら……きっと私は幸せになれない、永遠に)
自分がロイドという名の侯爵だったときの意識が消えても、彼の残滓は腕の中の記憶を抱き締めていたが、やがてそれも消えた。
後にはだれかを愛していたという想いがこびり付いた虚ろな穴が残る。
たぶん彼が生まれ変わっても、心に開いたその穴だけは残り続けるのだろう。彼は幸せになれない、永遠に。だってその虚ろな穴を埋めてくれる愛しいだれかと出会う日は来ないのだから。
<終>




