彼女は海の底
侯爵家の領地は海に面していた。
海には美しい人魚が住んでいると言い伝えられている。
人魚はその美しさで人間を惑わし、魅了するのだという。
★ ★ ★ ★ ★
最初に違和感を覚えたのは、王都にある侯爵邸で仕えているひとりのメイドだった。
彼女の言葉を聞いて、同僚や上司も同じ違和感に包まれた。
……どうして? この状況はおかし過ぎる。
主人ということになっている親娘三人に気づかれないよう使用人達は相談を交わし、最初のメイドを神殿へと使いに出した。
この王国では結婚や葬儀出産といった儀式を神殿が取り扱っており、その際の記録も神殿に保管されているのだ。
記録はあった、確かにあった。だが──
侯爵家の正当な血筋であり、跡取り娘であるはずの令嬢ニナはどこにもいなかった。いつからいないのかはおろか、どんな姿形をしているのかもだれも思い出せなかった。
記録はある。彼女の父親である侯爵代行とその愛人親娘もいる。
でもニナはいない。
彼女の肖像画はあった。
ドレスもあった。
けれど、だれもニナを思い出せない。
最初に違和感を覚えたメイドはニナの専属ということになっていた。
なのに彼女はニナのことを思い出せなかった。わずかな欠片に手を伸ばして思い出そうとすればするほど、ニナという存在に関する記憶は消えていく。
まるで初めから存在していなかったかのように。
侯爵代行は公爵家から入った婿養子で、ニナの父でこそあれ侯爵家の血筋ではなかった。
ニナがいなければ侯爵家に留まる理由はなかった。
もちろん彼の愛人親娘も。
三人は王都の侯爵邸から追い出され、王宮で監禁された。
公爵家の次男で現国王の従弟に当たる侯爵代行と結婚した先代侯爵のことはだれもが覚えていた。
彼女のことを知っていたし、その思い出を話すことが出来た。
しかし彼女の娘であり、侯爵家の次代の当主であり、現国王の第二王子の婚約者であったニナのことを覚えているものはだれもいなかった。
出生の記録はある。婿入り予定だった第二王子との婚約の記録もある。
この王国の貴族子女が通う学園での成績の記録もある。
にもかかわらず、それに伴うニナの記憶はだれにもない。
いや、あるように感じている人間はいたものの、思い出そうとするとその欠片は揺らいで消えてしまうのだ。
最初に違和感を覚えた彼女専属のはずだったメイドと同じように。
この異常は侯爵代行と称していた公爵家の次男──先代侯爵と結婚していても跡取りの子どもがいなければ、妻の死とともに侯爵家との関りは無くなるのがこの王国の法だ──と素性の知れない愛人親娘のうちのだれかに魅了か洗脳の能力があって、これまでは存在しない跡取り娘を存在しているかのように周囲に見せかけていたからではないか、最終的にはそう結論付けられた。
ニナのものとされていたドレスは、彼女の異母妹と称する少女の寸法と同じだった。宝石箱の中の装身具の色合いは、肖像画のニナよりも自称侯爵代行の愛人の娘に似合うものだった。
両親のどちらかが魅了か洗脳の能力で、娘を存在しない侯爵令嬢であるかのように見せかけていたのかもしれない。
記録はそうして作られたのだと考えれば説明がつく。
どうして突然みんなが侯爵令嬢の不在に気づいたのかはわからないし、その考えが本当かどうかも証明しようがない。
王国全土の人間を惑わし、神殿の聖職者をも騙したような力に抵抗するすべがあろうはずもない。
力が効果を発していない今のうちに、と王国は急いで自称侯爵代行とその愛人親娘を処刑した。自称侯爵代行は現国王の従弟だ。魅了か洗脳の能力を持っているのが王家の血筋だとでも思われたら、この王国は他国に恐れられ滅ぼされてしまうだろう。
王家は世論を誘導して、伝説の人魚のように美しい愛人親娘が自称侯爵代行を魅了して悪事を成したが、王国を見守ってくれている守護神がそれを暴いてくれたのだと噂させた。
★ ★ ★ ★ ★
『初めまして、殿下。私、泳ぐのが大好きなのです。いつか人魚になりたいと思っています。殿下は泳ぐのが好きですか?』
ニナの声が第二王子の耳朶を打つ。
彼女の顔も姿形も思い出せない。声の抑揚も高低も特徴も思い出せない。
はっきりと思い出せるのは、そのときの自分の気持ちだけだ。
「ニナはいたんだ。泳ぐのが大好きで、人魚になりたがっていたニナが!」
ここは王宮の第二王子の執務室。部屋の主の叫びに、学園卒業までの彼の学友で今は側近となった青年が否定する。
「それは幻です。侯爵家の跡取り娘ニナ嬢はこの世に存在していなかったのですから。殿下の中の欠片はおそらく自称侯爵代行の愛人の娘とのものでしょう。婚約者のニナ嬢とのものだと思い込まされていたのですよ」
「違う! あの女は泳げなかった」
「伝説の人魚であることを知られないように、そう演じていただけでしょう」
「違う。ニナは……ニナはいたんだ」
側近は首を横に振る。
「殿下はあの女を愛していたから、あの女が悪人であることを受け入れたくなくて、自分の中にニナ嬢を作り上げたのでしょう。……ニナ嬢はいません、どこにも。そうでなくても学園で殿下が親しくなさっていたのは存在しないニナ嬢ではなく、あの女です」
「それは……」
「もしかしたら、あの女の殿下への愛は本物だったのかもしれませんね。それで一人二役が嫌になって、母親か父親の魅了を破ったのでしょう」
「まさか! 助けようとしない私を処刑の直前まで罵っていたあの女が、私を本当に愛していたはずがない。あの女はニナが正式な当主となっても侯爵家に居座り続けるために、私を篭絡しようとしていただけだ」
「存在しないニナ嬢が侯爵家の当主になることはありません」
「違う、違う、違う……」
侯爵令嬢ニナという存在を好ましく思っていた人間の中には今も彼女の欠片がある。
もっともそれは記憶と呼べるほどはっきりしたものではなく、ほかの人間のものと置き換えているだけなのではないかと思えるほどあやふやで、詳細を追って行けば消えていく程度の泡沫だった。
彼女の存在を確定するようなものではない。
実は側近の青年の中にもそれがある。
彼女の顔も姿形も思い出せない。声の抑揚も高低も特徴も思い出せない。
はっきりと思い出せるのは、そのときの自分の気持ちだけだ。
『人魚のように美しく生まれていたら、あの子みたいに殿下に愛してもらえたのかしら』
あのとき抱き締めていたら彼女は今もここにいたのだろうか、そんなことを考えて側近は苦笑を浮かべる。
侯爵令嬢ニナは存在しない幻だ。
自分の胸に今も残るこの想いも幻に過ぎないと、青年は零れそうになる涙を飲み込んだ。
★ ★ ★ ★ ★
海が好きでした。泳ぐことが大好きでした。
もしかしたら、侯爵家の先祖が愛したという人魚の血が私の中に流れていたのかもしれません。
幼い日に婚約者となった王子様に正直な自分の気持ちを伝えると、彼は言いました。
『私が婿入りする予定とはいえ、君は王子の妻となるんだ。水泳なんて危険なことはするべきではない』
好きなことを止められたことへの怒りと、冷たげな言葉に潜む優しさに私は複雑な気持ちになりました。
確かに海は危険なのです。どんなに慣れていても、どんなに泳ぎが上手くても、海の気まぐれで命を奪われることがあるのです。
それからしばらく私が泳ぐのをやめていたのは王子様に恋をしたからだったのでしょう。
私が再び泳ぎ始めたのは、母が亡くなってからのことでした。
海の向こう、あるいは海の底に死者の楽園があるという伝説があるのです。
人魚が人間を惑わし魅了するのは美しいからだけではなく、本当はその楽園からやって来た懐かしい死者の化身だからなのだという説もあります。
母が亡くなってから、侯爵家の財産目当てで婿入りした父が跡取り娘である私の後見人として、侯爵代行として我が物顔で振る舞っているのが嫌でした。
彼が王都の侯爵邸へ連れ込んだ愛人親娘の存在が嫌でした。
彼女達の美しさに嫉妬していました。だって、同い年の異母妹だという彼女の美しさは私の婚約者である王子様を虜にするほどだったのですもの。
私を尊重してくれる使用人達が三人に危害を加えられるのが嫌でした。
この王国の法では学園を卒業するまで成人とは認められません。
現国王陛下の従弟である父を私の後見人から外すことは出来ませんでした。
なにも出来ない自分が嫌でした。
大嫌いでした。私の名前宛で贈られてきたはずなのに異母妹の寸法に合わせてあるドレスが。
彼女の髪と瞳の色に合わせた装身具が。
『学園を卒業してニナが当主となっても、君達を侯爵邸から追い出したりはしない。私が愛しているのは君だけだ』
そう囁いて異母妹を抱き締める王子様も。
最初から私の存在に気づいていて、彼の腕の中で嘲笑を浮かべている異母妹も。
なにもかもが嫌でたまりませんでした。だから、だから私は──
★ ★ ★ ★ ★
「真珠よ、ファデル」
海の底で、僕のニナは今日も美しい。
ううん、本当はまだ僕のものではない。彼女の心は今も地上に囚われている。
焦るつもりはなかった。人魚の一生は人間よりも遥かに長い。
「ありがとう、ニナ」
僕はニナから真珠を受け取った。
彼女と出会ったのは、彼女が地上の第二王子と婚約するより前だ。
海で泳ぐのが大好きだったニナが、暗い海の底が嫌いで海面を漂っていた僕を見つけてくれたのだ。迷っていたわけではないけれど、そのときの僕はそんな気持ちだった。きっと彼女にひと目惚れをしたから、そんな気持ちになったのだろう。
会えない時間もあったものの、母親を亡くしたニナはまた海へ来た。
僕が真珠を集めるようになったのはそれからだ。
当時のニナの心が僕にないことは知っていた。彼女が愛しているのが婚約者の第二王子だということくらいわかっていた。地上の人間は地上の人間と、海の人魚は海の人魚と結ばれるのが幸せなのだと気づいていた。
寿命も違う、身体も違う。
人魚が地上の人間を愛して同じ身体になろうとしたら、相手に心を伝えるためのなにかを失う。
人間が海の人魚を愛して同じ身体になろうとしたら、地上で過ごしたときのすべてが消えて、最初からいなかったことになる。──住む世界の違う人魚と人間が相手に合わせて姿を変える秘法を使うというのは、そういうことだ。
母親を亡くした後も守ってくれた侍女や使用人、学園で出会った友達を大切に思っているニナから彼らを奪えない。
水中で指をくわえているだけだった僕が、彼らからニナを奪えない。
僕に出来るのはニナの想いが第二王子に通じることを祈りながら、集めた真珠で装身具を作ることだけだ。僕の想いを彼女に幸せをもたらす力に変えて、第二王子との結婚を祝う贈り物にするつもりだった。
「そういえば海面を泳いでいたときに船上の会話を聞いたんだ。侯爵家は遠縁から新しい当主を迎えて、元からいた使用人達は君のお母さんがいたときと同じ条件で雇われ続けているそうだよ」
「……そう、良かったわ」
ニナがぎこちない笑みを浮かべる。
まだ力の弱い笑みだが、これまでより輝いて見える。
彼女は少しずつ人魚になって、地上の柵から解き放たれていく。僕が大好きだった彼女の本質はそのままで。
人間だったときの彼女の父親とその愛人親娘が処刑されたらしいことは、今は秘密にしておこう。
地上にいたときのニナがくれた宝石と、今のニナがくれる真珠や珊瑚のおかげで予定よりも豪華になった装身具を贈るときは、なんの悩みもない幸せな笑顔を見せて欲しいから。
次に海面へ行ったときは、ニナの大切な友達が幸せになったという話が聞ければ良いのだけれど。
「ねえニナ、もうかなり水圧にも慣れたよね。そのうちもっと深い海の底へ行こうか。死者の楽園はないけど、光る魚がいて溶けない雪が降る場所だよ」
「まあ、それは素敵ね!」
海の底で彼女は微笑む。
ニナと出会ってからのことはすべて覚えている。
彼女の声も表情も、そのときの自分の気持ちも全部。
人魚だからといって、僕がニナを魅了したわけではない。
魅了されたのは僕のほうだ。
地上で彼女が幸せになれなかったことを悲しみながらも、こうして人魚として海の底へ来てくれたことを喜ぶ罪深い僕が魅了されたのだ。罪深い僕は今も彼女の幸せを祈る。このまま海の底、僕の隣で、僕を愛して、幸せになって欲しいと──
<終>




