可哀相な……
──お可哀相なお義姉様。
義妹はいつもそう言う。
私もそう思う。
彼女と違って父にも婚約者にも愛されていない私は可哀相。妖精の愛し子の家系に生まれて夜の腕輪を許され、王国一の魔力と魔法技術を持っていても。
今夜、久しぶりに出席を許された夜会で、婚約者の王太子殿下に婚約破棄を言い渡され、父にも侯爵家からの絶縁を告げられたのだから、私は本当に可哀相。
王太子殿下と父に囲まれて、微笑んでいる義妹は幸せなのね。
彼女の手首には私の夜の腕輪と対になった月の腕輪がある。夜の腕輪は私の髪と同じ漆黒で、月の腕輪は義妹の髪と同じ白金色。
「かしこまりました」
婚約者と父に受諾を告げて、心の中で思う。
絶縁されたのだから王都にある侯爵邸へは戻れない。
どこへ行ったら良いのだろう。頼れる相手はいるものの、あまり頼りたくはない。
「待て」
立ち去ろうとする私を元婚約者が呼び止めた。
「どこへ行く気か知らないが、その夜の腕輪はこの国のものだ、置いて行け。それから、これまでの賃貸料も支払ってもらおう。なぁに、生涯身を粉にして働けば返せるかもしれないぞ」
『……ほう……』
夜会会場に低い声が響き渡った。
『おかしなことを聞いたな。ふたつの腕輪は妖精王である吾が、いずれ我が妻が生まれ出る予定の家へ預けた吾の魔力の端末だ。この国のものではないぞ』
会場の人々にざわめきが走り、その視線が一点を射る。
守るように私の前に立つ銀色の妖精王に瞳を奪われたのだ。
彼は美しい。昔から顔は合わせていたのだけれど、私が持っていたのは夜の腕輪だけだった。だから黒髪の姿しか見たことがない。夜と月が合わさった黒光りするほど濃い銀色の、真の姿を見たのはこれが初めてだ。
「妖精王だと? まさか……いや、しかしこの魔力の圧は……」
「ああっ!」
義妹が叫び声を上げる。
「アタシの月の腕輪がなくなってるっ!」
『当たり前だろう。本来は月の腕輪も我が妻のもの。成人して魔力が安定する前に吾の真の姿を見せては妻の身体に悪いので、片方の腕輪だけを許していたのだ。そして貴様にもうひとつの腕輪を渡していたのは、一滴の魔力も持たぬ貴様を我が妻が憐れんだからだ』
義妹の隣に立った父が目を見開く。
「な、なんの話だ? 私は妖精の愛し子の家系の当主だぞ? その私の娘に一滴の魔力もないなんてこと、あるわけがない!」
『貴様の娘ではないからな』
「……っ!」
父が私を睨みつける。
「お前、知っていて黙っていたのか?」
「……私にわかったのは彼女に魔力がないことだけです。たとえ妖精の愛し子の家系でなかったとしても、この国の貴族の血を引いていれば必ず生まれ持っているはずの魔力が。お父様……いいえ、侯爵様は彼女を溺愛なさっていたので、彼女がご自身の子ではない、そうでなくても魔力がないとなったら反動でなにをなさるか知れないと思って、妖精王様にお願いして特別に月の腕輪を許していただいていたのです」
彼女が王都の侯爵邸へやって来たのは、私が十歳のとき。
この王国のすべての貴族子女が受ける魔力判定の儀を済ませて、夜の腕輪を許された直後だった。
私も彼女も母親を亡くしたところだったけれど、父に……侯爵にとって『可哀相』で大切なのは義妹だけだった。この王国には血筋を確認する道具も魔法技術もない。魔力の有無さえ誤魔化せば、彼女は侯爵に愛され続けるだろうと思った。
私はもう王太子殿下の婚約者に選ばれていた。
いずれは侯爵家を離れる人間だ。
そうでなくても侯爵は魔力量の多さ目当てに娶った正妻に愛はなかった。作った娘のことも王家との縁を結ぶ道具としか思っていなかった。だから、侯爵の愛は義妹にあげた。
「う、嘘だ! おい、なにか魔法を使ってみろ! ほら!」
王太子殿下はご自身の剣で手の甲を切り、血を流しながら義妹に差し出した。
殿下は婚約成立後初めて私に会いに侯爵邸へ来て、愛人だった母親譲りの美しい見た目と媚びの上手さを持つ義妹と会ってから、ずっと彼女を愛している。
辛くなかったと言えば嘘になる。十年間の短い人生でも見切りをつけるしかなかった父親である侯爵と違い、私は婚約者の彼に期待していた。ううん、妖精王からの求婚を断るほど、婚約相手の彼に恋をしていたのだ。
幼い恋だ。
この美しくて賢い人ならば、私を苦境から救ってくれるに違いないと夢を見たのだ。
いつか愛し愛されて、妖精よりも短くてかまわないから、お互いを大切に思いやった温かい人生を送るのだと信じていたのだ。
それが駄目でも、殿下の愛するのが義妹だったとしても、正妃として彼を愛し続けることだけは許されるのだと思っていた。
今夜、婚約破棄をされるまでは。
血塗れの殿下の手に自分の手を翳していた義妹の大きな澄んだ瞳から、水晶のように美しい涙が零れ落ちた。
「ご、ごめんなさい。で、出来ません。これまで魔法を使うときには月の腕輪から溢れ出る魔力を利用していたんです」
「ええい、役立たずめっ!」
王太子殿下に殴られて、義妹は虚ろな顔をして床に倒れ込んだ。
……殿下は義妹を愛していたのではなかったのだろうか。侯爵と同じで、彼女に魔力がないと知っただけで消え失せる程度の想いしか持っていなかったのだろうか。
私はそんな人のために夜ごと枕を濡らし、妖精王を拒み続けていたの?
倒れた義妹に、だれも手を差し伸べない。
侯爵は汚いものでも見るような目で彼女を睨みつけている。
たとえ血がつながっていなくても魔力を持っていなくても、彼女は美しくて優しくて、最愛の女性を喪った侯爵の心を慰め続けてくれていたのだろうに。
──お可哀相なお義姉様。
以前はそう言いながら嘲笑を浮かべていた義妹が、今は縋るような目で私を見ている。
おかしな話だ。
可哀相な私には、だれかを助ける力などない。
義妹はだれからも愛されていたではないか。
侯爵や王太子殿下だけでなく、母の死後に入れ替えられた侯爵邸の使用人達にも。
婚約者の殿下とのお茶会用以外のドレスを持っていないから、他家でのお茶会にも夜会にも出席出来ない私が、義妹を虐めているという噂を信じ込んだ貴族の方々にも。だれからも愛されていたはずなのに……どうして彼女の周りにはだれもいないのだろう。
「これまで騙していたんだな、魔力なしめっ!」
王太子殿下が倒れている義妹を蹴った。
私が彼女を虐めていると思い込んで、会うたび叱責してきた人のやることとは思えない。
世界で一番愛しいと囁いて、私の目を盗んで抱き締め合っていたくせに。
殿下の瞳が私を映した。
なにか言おうとして気づいたのか顔色が変わる。
夜の腕輪と月の腕輪、ひとつ、もしくはふたつの腕輪を許された妖精の愛し子の家系に生まれた人間が、この王国を魔獣から守る結界を張り民に祝福を与え、傷ついた者を癒し大地に恵みを与えてきたのだ。
私が生まれる前、魔力量の少ない父が腕輪を許されていなかった時代の惨状は、まだこの国の民の記憶に新しいはず。
だから父は最愛だった女性を愛人に貶めてまで、魔力量の多い母を娶らずにはいられなかった。腕輪に魔力を送って端末の先にいる妖精王に気づいてもらうためには、ある程度以上の魔力量が必要なのだ。
義妹の場合は月の腕輪を経由して対の腕輪を持つ私の魔力を使っていただけなのである。
彼女が父の子でなかったのは母親が愛人という不安定な立場にいたせいなのか、もともとそういう多情な女性だったからなのかまでは私は知らない。
妖精王は違うと言い切っていたけれど、案外父の子だからこそ魔力がなかったのかもしれない。
ただ、父の望んだことではなかったとはいえ、義妹の母親と出会う前から父の正式な婚約者は私の母だった。
私は彼に、婚約者だった人に、ずっと愛していた人に微笑んだ。
「婚約者である殿下にも父親である侯爵様にも愛されなかった私と、見せかけの愛しか与えられていなかった義妹と、だれも本当には愛していなかった殿下と侯爵様と……だれが一番可哀想なのでしょうか?」
『わからぬが、一番幸せなのは吾だな』
殿下が私の問いに答える前に、妖精王が私を抱いて風を起こした。
私は賭けに負けたのだ。
婚約を破棄されたことで負けたのではない。王太子殿下を愛し続けられなかったことで負けとなったのだ。もう頼りたくないなどと言ってはいられない。
でも、こんな人を愛し続けることは出来ない。
私なんかよりもよっぽど可哀相な……可哀相な人。
こんな人を愛し続けることが幸せだと思っていた私も、やっぱりとても可哀相ね。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
妖精王は魔法で私を妖精郷へと運んでくれた。
故郷の王国のことは、私が妖精に変わってから確認したので良いだろう。もともと母と同じで魔力量が多いので、大して時間はかからないはずだ。
母の実家の人々や義妹が来る前の使用人、あの国にはまだ大切な人達がいる。
『そなたはあの男を愛し続けられなかった。約束通り、我が妻となるが良い』
「ええ、妻にはなるわ。でも……貴方を愛するかどうかは私が決めます」
私が言うと、妖精王は美しい顔に笑みを浮かべた。
『ああ、もちろんだ。そなたがそういう女だから、吾はそなたこそが待ち望んでいた相手だと決めたのだからな』
彼は妻となる相手を待ち望んでいたけれど、私がそうだと決めたのは運命ではなく彼自身だ。
だから私も彼を愛するかどうかは自分で決めさせてもらう。
ゆっくりと時間をかけて……人ならぬ妖精王の妻として同じ妖精に変化した後の私には、長い時間が待っているのだから。
<終>