その程度の愛で
私の人生のすべては、婚約者の王太子殿下でございました。
貴族社会ではよくあることではありますが、私の父と母は政略結婚でございます。
それでも母は父と良き関係を築こうと努力していたのですけれど、父には愛する妾がいたのです。
私が幼いころに母が亡くなり、父は亡き母を跡取りを産めなかった役立たずと罵って、自分が本当に愛する妾とその子どもを王都の屋敷へ連れてまいりました。
貴族の妻となるには身分の低過ぎる女性と私と同い年の異母弟です。
もし私が王太子殿下の婚約者に選ばれていなければ、私はとっくの昔に彼らに殺されていたでしょう。
私が王太子殿下の婚約者に選ばれるほどですので、母の実家は高い身分と財産を持っていました。
父と母が結婚した後、不思議なことに母の実家の人間は次々と命を喪っていき、母亡き後で跡取りの資格があるのは私だけになっていました。
父は跡取りは男性だけと決めつけていましたけれど、この国では王家と神殿が認めれば女性が跡取りでも問題はないのです。私が直接継がないにしても、母の実家を継ぐ権利を持つのは私の子どもか孫です。
それでも成人するまでは当主として認められることは出来ません。
成人する前に私が死ねば、都合の良い遺書を偽造してしまえば、すべては彼らのものになったのです。
ですが王太子殿下の婚約者を殺すことは出来ません。王太子殿下の婚約者が死ねば、王家に叛意あるものの仕業かと思われ厳しい捜査の手が入るでしょうからね。
私の後見人が父ではなく神殿の聖王猊下だったことも幸いでした。
お亡くなりになった母方の祖父が神殿とのつながりの強い方だったのです。
死ぬ前に私と母のことを聖王猊下に頼んでくださったのだといいます。残念ながらそのときはもう、母については遅かったのですけれど。
私は婚約者の王太子殿下のことをお慕いしておりました。だれよりもなによりも愛していました。
殿下の隣に立つのに相応しい令嬢となるべく努力いたしました。
いつか愛しい殿下の妻として昼も夜も一緒に過ごせるようになるのだと思えば、父やその妾や異母弟のくだらぬ嫌がらせにも耐えられました。過酷な妃教育だって、殿下のためならば辛くはありませんでした。
なのに殿下は、貴族子女の通う学園で彼女──真実の愛のお相手である男爵令嬢と出会ってしまわれたのです。
辛くないと思えていても、妃教育は過酷でした。疲れ切った身体が勝手に悲鳴を上げていました。
だからといって貴族社会で生き抜くためには、本当の感情を表に出すわけにはいきませんでした。
王太子殿下の婚約者として令嬢の仮面を被った私は、冷たい人形のようだと殿下はおっしゃいました。学園の卒業パーティで明るく朗らかな男爵令嬢の腰を抱いた殿下から婚約破棄を告げられたときは、そなたは血の通っていない化け物だと罵られました。
確かにそうかもしれません。
殿下に婚約を破棄されて、王太子殿下の婚約者でなくなった私は、生きる気力を失った屍でございました。
屍のくせに動いているのは化け物です。
そのとき学園で神学の授業を担当してくださっていた女性神官様が声をかけてくださらなかったら、私は父に屋敷へ連れ帰られて殺されていたでしょう。
どんなに不審な状況で死んでいても、婚約破棄の悲しみで自害したと言えば神殿も誤魔化せるかもしれません。
年を取ってから出来た一粒種の王太子殿下を溺愛していらっしゃる国王陛下ご夫妻は、殿下の専行を咎めることもなく、男爵令嬢との結婚をお許しになられていました。
私は俗世を捨てて、神殿で修業の日々を送ることになりました。そうは言っても母の血筋から受け継いだ爵位や財産を放棄してはいません。今のところ領地の運営は代官に任せっきりですが。
神の名のもとに国境に関係なく存在する神殿は治外法権です。
だからこそ法では裁けぬ罪人を罰として留めることもあり、だからこそ法だけでは守ることの出来ない弱者を受け入れることもあるのです。
そして、神への信仰があろうとなかろうと人のお腹は減ります。
お腹を満たすにはなにかを食べるしかありません。けれど、なにかを食べるにはお金がいるのです。
結局のところ神官様は、私の財産目当てだったのかもしれません。でも良いのです。それで私は生き延びることが出来たのですから。
動く屍だった私は、財産から寄進をしても免れない掃除や水汲みなどの作業をおこない、お世話になっている神殿に併設されている孤児院の子ども達の相手をしているうちに、少しずつ蘇っていきました。
掃除は嫌だなと思ったり、水汲み当番の朝は悲しくなったり、子どものイタズラに声を上げて笑ってしまったり──
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「お嬢様、笑った」
イタズラをしてきた子どもが驚いた顔になります。
私も内心驚きながら、
「そうね、私は笑いました。……私はお嬢様なのですか? ほかの修行者の皆様と同じように名前で呼んでくださったので良いのですよ?」
「お嬢様はお嬢様だよ。神官様が言ってた。お嬢様のおかげで美味しいご飯が食べられるんだから感謝しなさい、って」
あらあら、神官様ってばそんな風に思っていらしたのですね。
でしたら水汲み当番を今の半分に減らしてくださると、私はとても嬉しいのですが。
……いえいえ、それはいけません。動く屍だった私に優しくここでの暮らし方を教えてくださった、ほかの皆様の仕事が増えてしまいます。
「ありがとうございます」
私は地面に飛び降りて来た少年に微笑みました。神殿の裏庭に生えた木に登っていた彼が、枝の上から私の頭へと花冠を投げ落としたのです。
最初は蛇の抜け殻かなにかかと思いました。
だけど頭の上に着地したそれが花冠だとわかった途端、なんだかとても嬉しくなって笑い声が溢れてしまったのです。少年も照れくさそうな笑みを浮かべます。
「へへっ。やっぱりお嬢様には花が似合「そなたもそんな風に笑えるのだな」」
少年の言葉を遮ったのは護衛を引き連れて現れた王太子殿下でした。
後ろに立った神官様は苦り切ったお顔で肩を竦めていらっしゃいます。
俗世の権力者である殿下は、ご自身が神の御前でも特別扱いされると思っていらっしゃるのでしょう。私は、殿下から私を守ろうとして前へ出てくれた少年の肩に手を置き、神官様のほうへ向かうよう指示しました。
「お久しぶりでございます、王太子殿下」
「うむ」
「いらないと投げ捨てた元婚約者になんのご用でしょうか? 私の異母弟と駆け落ちした王太子妃様を探す途中で通りかかられたのですか?」
「……」
王太子殿下の顔色が変わりました。
「なぜ知っている、と? 神殿で修業をしていても、完全に俗世から離れることは出来ません。買い物や貧民街での炊き出しの際に、いろいろと噂を聞くこともあるのですよ」
「……あのふたりは見つけた。数日中に処刑される」
「まあ。さすがにそれは存じ上げませんでしたわ。王家に仇なすものが捕らえられてよろしゅうございました」
「っ! やっぱりそなたは冷たい人形だな。自分の父親も連座で処刑されるというのに悲しくはないのか?」
私は連座されることはありません。
神殿に入ってから後見人の聖王猊下の助けを借りて父の家にある籍を抜き、正式に母の実家の当主となったのです。
学園の卒業によって成人したのですもの。王家はグズグズ言っていたようですが、聖王猊下直々に諭されては認めないわけにはいかなかったようです。
今の私は父の家とも妾とも、王太子妃様と駆け落ちをした愚かな異母弟とも無関係です。
王太子殿下の婚約者を姉に持っていた異母弟は殿下の側近に選ばれていて、そのぶん王太子妃様と過ごす機会も多かったようです。
私が婚約破棄された後も側近のままだったので、婚約破棄の前から王太子殿下や男爵令嬢との関係は深かったのかもしれませんね。そもそもあの婚約破棄も……いいえ、今はどうでも良いことです。
「まさか私も連座させるおつもりですか? 国王陛下ご夫妻は可愛い殿下をお許しになられたかもしれませんが、神殿の代表者である聖王猊下は、神の名のもとに結ばれた私との婚約を勝手に破棄した殿下に今もお怒りでいらっしゃいますよ」
神殿は殿下と男爵令嬢の結婚を認めていません。
認めてもいないのに低位神官を脅して式を挙げさせたことで、神殿はさらに殿下方への不快の念を強めています。
もっとも神殿に認められていようといまいと国の法においては男爵令嬢は王太子妃様で、王太子妃様と駆け落ちした異母弟は王家に仇をなした国家反逆罪。当然彼の両親も連座となります。
「その上で、神殿から正式に父との縁切りを許可され、母の実家の当主として認められた私を連座させるのですか?」
「違う。連座させるために来たのではない。……そなたの言う通り、私と男爵令嬢の結婚は神殿に認められたものではない。彼女はただの嘘つき女だ。処刑されるのには、そなたが自分を虐めているとか殺害しようとしたと言って私を騙した罪もある」
「そうですの」
「私の婚約者はそなたに戻った。だから迎えに来たのだ」
「ご冗談を」
私は殿下を睨みつけました。
彼が人生のすべてだったときには到底出来なかった行為です。
憎々し気に睨み返してくる殿下と視線を戦わせながら、言葉を続けます。
「王太子殿下と婚約をしていたのは、王太子妃様と駆け落ちした男の家の令嬢です。彼女はもういません」
「そ、そなたのようにつまらない女と結婚してやると言っているのだ、素直に従え! 貴族家の当主だからと言って王家に歯向かう気か!」
「貴族は王家に忠誠を誓っておりますが、奴隷になるわけではありません。不当な命令を拒否する権利はあるのです」
「うるさい! いいから来いっ! そなたを連れて帰らなければ、父上は私を廃して公爵家から養子を取ると言っているのだ!」
「それは重畳ですこと」
「なに?」
今のところは王太子の殿下に腕を掴まれて、私は微笑みました。
「離してくださいませ」
私は殿下の手を振りほどきました。
思ったよりも簡単に振りほどけたのは、私の笑みを見た殿下のお顔から、なぜか怒りの色が消え失せたからでしょうか。同時に殿下の指の力も抜けたのです。
先ほども見た私の笑顔がそんなに珍しいのか、食い入るように見つめてきます。
「殿下が王になるよりもほかの方が即位なさったほうが、この国は良くなることでしょう」
私の言葉を聞いて、殿下のお顔が赤く染まりました。
殿下と護衛達をこちらへ案内してくる途中で、神官様はだれかに指示を出していたのでしょう。数名の神殿騎士が神官様の後ろに現れていました。
きっと彼女達が殿下方を神殿の外へと連れ出してくださるに違いありません。ここは併設された孤児院以外は女性の修行者専門の神殿ですので、神殿騎士の皆様も女性なのです。
殿下は真っ赤なお顔で叫びます。
「そなたは私を愛しているのだろうっ?」
「ええ、だれよりもなによりも愛していました。婚約破棄されるまでの私は殿下をお慕いしておりました。殿下は私の人生のすべてでした。でも婚約破棄をされたあの日に、私の愛は幕を閉じました」
たぶん今の私は最高の笑顔を浮かべています。
殿下の瞳には冷たい人形でも血の通っていない化け物でもない、掃除をしながら溜息をついたり水汲み当番をしながら眉間に皺を寄せたり、嬉しいときは令嬢の仮面を脱ぎ捨てて心からの笑みを浮かべる少女の姿が映っています。
少女は言いました。
「今はもう、ほんの少しの愛すら残っておりません。私の殿下への愛は、その程度のものだったのですわ」
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
妃教育が辛いと言って、王太子妃様となった男爵令嬢は男と駆け落ちしました。
私の人生を踏み躙った真実の愛というものは、その程度のものだったのでございます。
とはいえ、私の王太子殿下への愛も婚約破棄されたくらいで消え失せる、その程度のものだったのでございますけれど──
<終>




