子爵令息が婚約破棄を悔やんでも、もう遅い。
熱いお茶を飲んで落ち着いたかい、ミジーニン子爵令息。
落ち着いたら私の瞳を見てくれないか?
紫色に見えるかい?
せいぜい紫がかった青色だろう?
確かに我がイヴァノフ公爵家は王家の血を引いているが、王家の血に宿る女神様の紫色の瞳は、直系を離れれば離れるほど薄くなり青に近づくんだ。
君が幼いころからの婚約者だったヴィヴィロフ伯爵家のご令嬢を捨ててまで選んだ奥方の産んだ紫色の瞳の子は、私の子ではない。
もちろん現国王陛下のお子でもないよ。
近々即位なさると言われている王太子殿下の子でもない。
健やかにお育ちの王太子殿下のお子様方はまだ子を成せるような年齢ではない。
……本当にわからないのかい?
私達が先日卒業した学園にいたじゃないか、先王陛下の直系が。
王妃様がお亡くなりになられた後、現国王陛下に譲位なさって引退された先王陛下が、隠居後の離宮に連れ込んだメイドに孕ませたのが学園長だったってこと、君だって知っていたんじゃないのかい?
ああ、そうだよ。
君の奥方は学園時代、学園長の愛人だったんだ。
おそらく今も、だろうね。
だって言われたんだろう?
この子は君なんかとは比べものにもならないほど高貴な生まれで、本当なら国王になってもおかしくはないのだと。
先王陛下の直系とはいえ庶子の、おまけに情人と乳繰り合っているのを見つかって処刑された女の子どもの種に、そこまでの価値があると本気で思っているのかね。
そもそも自分だって本妻ではなく、弄ばれた挙句ほかの男に押し付けられた程度の女なのにね。
学園長はそういう性癖なんだよ。
自分の学園で制服を着た女生徒とそういうことをするのが、なにより好きなんだ。
君と同じように婚約者を捨てて選んだ彼の妻も、学園の生徒だった女性だよ。
当時は『真実の愛』だなんだと騒がれていたけれど、今では仮面夫婦という噂だね。
あの男はね、愛人が卒業すると新しい女生徒に手を出すのさ。
私の兄の妻となった女性も学園長に弄ばれた女のひとりだったんだよ。
兄もね、君や学園長のように婚約者を捨てて奥方を選んだんだ。
女達が兄や君に擦り寄って来たのは学園長の入れ知恵じゃないかな。
子爵令息に過ぎない君は、下級貴族だから泣き寝入りするだろうと思われたんだろうけれど、兄のときは遠い親戚だから子どもの顔立ちが似てても誤魔化せると思ってたんだろうね。
でも赤ん坊の瞳は、王家から分かれたといっても代を重ねて長いイヴァノフ公爵家に生まれるはずがないほど鮮やかな紫色の瞳で──兄は奥方と赤ん坊を殺して自害した。
兄の死は表向き病死と発表され、裏では狂気として噂されている。
父上は泣き寝入りする気なんかなかったんだけど、お爺様が先王陛下に心酔されていたからね。お爺様は戦場で先王陛下に命を救われたことがあるんだよ。
よく言えば情に厚い、はっきり言えば身内に甘い先王陛下のために我が家は口を噤まされた。
数年前お亡くなりになった先王陛下は、学園長を溺愛していらした。
学園長を産んだ女に裏切られていたことを知っても、母を喪った可哀相な子とさらに彼を甘やかしていた。
先王陛下がようやく亡くなられて、現国王陛下は学園長の排除に手を付けることが出来るようになった。王宮には先王陛下の信奉者がたくさんいたから、これまでは難しかったんだよ。
兄のことで怒り心頭だった私や父上も協力することにした。
幸い、お爺様も先王陛下の後を追われていたしね。
私は暗殺したのでも良かったと思うけど、現国王陛下は王家の恥を晒しても我が家の恥辱を雪ぎ、学園長の罪を暴くとおっしゃられた。
結婚にまで至ったのは兄上と君くらいだけど、学園長の愛人に誘惑された莫迦な貴族子息に婚約破棄されて、不名誉な噂を立てられた令嬢達もいるからね。
ほら、これをあげよう。
学園で私と現国王陛下の密偵が調べていた学園長と愛人の記録だよ。
どうしてもっと早く教えてくれなかった?
現国王陛下に止められていたんだよ。
君とあの女が結婚した後のほうが、学園長がミジーニン子爵家の乗っ取りを企んでいたという体で罪を重く出来るからってね。
それに、君はもっと前にもこの記録を目にしているはずだよ。
この靴跡に覚えはないかい?
ああ、思い出したようだね。
これは君がヴィヴィロフ伯爵家のご令嬢に婚約破棄を宣言する直前に、彼女から渡されたものだよ。
君はきちんと目を通しもせず、捏造だと叫んで地面に叩きつけ踏み躙ったんだったね。
あのときこの記録に目を通していれば、こんなことにはなっていなかったのに。
え? どうしてあのときノンナがこれを持っていたんだって?
私が渡したからさ。
計画を無視して勝手なことをしたと、後で現国王陛下に怒られてしまったよ。
でも理由を話したら許してくださった。君が見もせずに投げ捨ててくれたおかげで、学園長に私達の計画が気づかれることもなかったしね。
理由? わからないのかい?
私がノンナを愛していたからだよ。
狂気の兄を持ったと陰で噂されて学園を卒業するまで婚約者も決まらなかった私にも優しくしてくれて、なにより婚約者の君を愛して大切にしている彼女に恋をしていたからだよ。
学園長に弄ばれる女生徒の特徴はいつも同じだ。頭と尻が軽くて、同級生や同年代の婚約者には望めないような贈り物をくれるのなら相手が妻子持ちでも喜んで体を開いて、あまつさえ自分は周囲の女子とは違うと自慢するような莫迦な娘達だ。
そんなろくでもない女に騙されるような愚かな君でも、ノンナは愛していた!
たとえ私に振り向いてくれなくても、彼女が幸せなら私は良かったんだ!
だから父上にも現国王陛下にも内緒で記録を持ち出して、彼女に渡したんだ。
あれを見れば君がどんなに愚かでも、正気に戻ってノンナを大切にしてくれると思ったからね。
でも君は見もしなかった。それどころか記録を地面に叩きつけて踏み躙り、こんなものは捏造だとノンナを罵って、腹の中の学園長の子を押し付けるためだけに君に近づいたあの女を選んだんだ!
あのときの君は恋に酔っていたのだろうね。
君は騙されていた。
なんなら人知を超えた力で魅了されていたのかもしれない。
でもね、君に償いをすべきはあの女と学園長なんだ。それ以外の人間に対しては、君が償いをすべき立場なんだ。
騙されていたとしても魅了されていたとしても、君がノンナの心につけた傷は消えないのだから。婚約破棄された彼女が、傷心のあまり自死を選んだりしないでいてくれて、本当に良かったと思っている。
……自分の愛人を押し付けてミジーニン子爵家を簒奪しようとしたとあっては、学園長は極刑になるだろう。家の簒奪は大罪で爵位の高低は関係ないからね。
せいぜい高額の慰謝料を巻き上げるといい。
私は、私があの女の産んだ子どもの父親だなどと言って侮辱した君のことを訴えるつもりだからね。
最終的には示談で済ませてあげるかもしれないが、私への慰謝料はびた一文負ける気はないよ。
私はもうすぐイヴァノフ公爵家を継ぐ。家のためにも、いずれ産まれてくる子孫のためにも侮辱されたままでは終われないんだ。
君が学園長を訴えなくても、私達が別件で訴える。
そちらの準備も進めていたんだ。
彼の子を身籠ったのに、押し付けるための貴族子息を上手く騙せなかった女生徒が行方不明になっていてね、最近死体が見つかったんだよ。
早く学園長を訴えないと、そちらで有罪になっていなくなってしまうかもしれないね。
そうなったら慰謝料は取れないよ。王家は学園長の尻など拭かない。現国王陛下が王太子殿下に譲位なさる際に、王家の歴史から彼のことは消し去る予定なんだ。
ノンナに会いたい?
私の妻を呼び捨てにするのはやめてくれ。さらに訴えられる罪状を増やす気か?
彼女はやっと婚約破棄の苦しみから立ち直って、私との結婚を受け入れてくれたんだ。
君に向けていたよりも、ずっとずっと優しい微笑みを見せてくれるようになったんだよ。
ノンナも私もやり直す機会を与えたのに、それを踏み躙ったのはだれなんだい?
──ミジーニン子爵令息。君がどんなにノンナとの婚約破棄を悔やんでも、もう遅い。遅過ぎるんだよ。
<終>