新月の恋人達
「キャロライン!」
私が王宮に届けさせた手紙を読んで王都の侯爵邸へ戻ってきた父は、顔を合わせるなり怒鳴りつけてきた。
「わしは忙しいと知っているだろう! くだらぬことで呼び戻したのなら、ただでは置かぬぞ!」
「あら、まあ」
私は、もう記憶の中にしかない母の微笑みを真似て父に問う。
「お父様がだれよりも愛していらっしゃるお義母様とあの子が、こんな夜中だというのに自室にいらっしゃらないのですよ? それがくだらぬことですか?」
「なんだと? しかし手紙には……」
「ほかの人間の目に触れるかもしれないのに、そんなことを書けるわけがないではありませんか。こんな夜中に自室にいなかったなんて知られたら、たちまち醜聞の主役にされてしまいますわ。あの子はまだ婚約者もおりませんのに」
父は私よりもあの子を愛している。
そもそも正妻だった母が生きているころから、父は愛人のところに入り浸りだった。
三年ほど前、先日卒業したばかりの学園に私が入学する直前に母が亡くなって、一か月も経たないうちに父はあの親娘をこの屋敷に連れ込んだ。私は母の遺品をすべて奪われて物置部屋に放り込まれ、あの子を虐める酷い姉として婚約者に罵られるようになった。
私の指摘──騒げばあの子の名誉が傷つくという言葉に、父は黙った。あの子には最初から傷つく名誉なんてないことを、愚かな父は知らないのだ。
父は母から銀髪を受け継いだ私を不義の子と疑い、自分の青い髪を義母の金髪で薄めたような淡い黄緑色の髪のあの子を実子として溺愛している。
この屋敷では、あの子の言葉が絶対だ。義母だって娘の機嫌を取っている。
それなら私のことなど追い出せばいいのに、母の実家からの援助目当てで留められている。
数か月後に迫った婚約者との結婚式の日が来ても、私には救いの手は訪れない。
婿に入る予定の婚約者はあの子に骨抜きにされている。日夜私を苦しめる人間が増えるだけだ。下手をすれば私が子どもを産んでも殺されて、夫とあの子の子どもを押し付けられるかもしれない。私が殺されて、母の実家への人質として子どもを利用される可能性もある。
そんなのは嫌だ。
父は義母とあの子の自室を回り、ふたりの不在を確かめた。
ふたりに仕える侍女に理由を聞いても、知らないと首を振るばかり。……ふふふっ。本当は知っているくせにね。
衛兵達は先ほど帰った父以外、夜になってからはだれも屋敷に入っていないと嘘をつく。もっとも嘘だと知っているのは私と私の侍女だけ。あの親娘が前からいた使用人を追い出して雇った人間を信じた父は、汚物を見るような目で私を見る。
「お前がなにかしたのではないだろうな?」
「私がおふたりに危害を加えたのだとしたら、お父様を呼び戻したりせず、お母様の実家に逃げ込んでいますわ。今からでもそういたしましょうか? お爺様と伯父様はいつでも帰って来いとおっしゃってくださってますの」
「……お前はこの家の跡取りだ」
父が昼夜を問わず王宮で働いていても、領地で代官が領民のために尽力してくれていても、あの親娘の豪遊が侯爵家を蝕んでいく。
だけど愚かな父はあのふたりを愛している。彼女達の望みを叶えずにはいられない愛の奴隷だ。
母の実家からの援助の引換券である私がいなくなれば、この家に未来はない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──屋敷中探してもふたりはいなかったので、父は引き留めようとする侍女達の手を振りほどいて庭に出た。衛兵が数人ついてくる。
かつて母の薔薇園だった美しい場所は、あの親娘が連れて来た黒髪の庭師によって趣味の悪い花園に変えられてしまった。
私は父と花園の東屋に向かう途中で、母の生前から仕えてくれているただひとりの侍女にお湯を沸かして持ってくるように言った。父が東屋を目指したのは、私が上手く誘導したからだ。
花園の奥と入り口からそこへ行くまでの中間に、東屋はふたつある。
中間の東屋の中には、睦み合う男女の影があった。
今夜は新月、すべては闇の中。私や父と違って明かりを持ってないふたりには、お互いの顔も見えていないに違いない。
もとより許されぬ仲のふたりなのだ。
いくら侍女や衛兵に口止めしていても、わざわざ目立つような真似はしない。
彼らはいつも花園の入り口で蝋燭を消して、夜空に黒々とそびえる東屋へと息を潜めて歩いていく。
「まさか、あの子が……?」
人影を見て、私の隣を歩く父が呟く。
残念ね、お父様。間違ってらっしゃるわ。
吐息が聞こえそうなほど近づくと、東屋のふたりが私達の持つ明かりに気づいた。のしかかっていた男と、のしかかられていた女がこちらを向く。父の明かりがふたりの顔を照らし出す。
「ち……義父上?」
「貴方……っ!」
そこにいたのは私の婚約者と義母だった。ふたりとも肌も露わな姿をしている。
私は笑みを噛み殺す。だってメインディッシュはこれからだもの。侍女に頼んだお湯だってまだ届いていない。
睦み合っていた女の言葉を聞いて、私の婚約者は相手の顔を確認した。
「義母上? どうして貴女が! ライアーはどこです!」
「それはこっちの言葉よ。どうしてダリルじゃなくて貴方がここに?」
「ダリル? 庭師がどうした。そうか、貴様いつもはあの男と密会しているのだな」
当たりよ、お父様。
「ち、違います! 私は……私はこの男に無理矢理!」
そこまで言って、義母は私の存在に気づいた。
悪鬼の形相になる。
「キャロライン! あんたの仕業ね! あんたがこれを仕組んだんでしょう!」
「黙れ、売女がっ!」
父は義母を殴りつけた。
続けて彼女の美しい金髪を掴み、東屋の柱に何度も打ち付ける。
私の婚約者は、目の前で繰り広げられる暴力に怯えて失禁したらしい。血と尿の匂いが鼻を衝いて、私は眉間に皺を寄せた。
「お、お許しください、義父上。僕は……そう、僕は騙されたのです。僕はキャロラインから手紙をもらったつもりだったのです!」
「私はそんな手紙を出したことはありませんわ」
入れ替えたことはあるけれどね、と心の中で呟く。
彼らが名前を呼び合わず会話もせずに体だけ重ねているのは、口止めしている使用人達以外のだれかに気づかれたときに、私が男を連れ込んでいたのだと噂を流して罪を着せるつもりだったからだ。
私の婚約者とあの子が話しているのを聞いたから間違いない。本当にどこまで腐った人達なのかしら。
「お疑いなら、もらったとおっしゃる手紙をお出しください。私と義母の筆跡はまるで違いますわ」
あの子と義母の筆跡は、とてもよく似ているけれど。
「て、手紙はもう捨ててしまった」
「あちらに脱ぎ捨てている上着のポケットから覗いている手紙は違うのですか?」
衛兵はあの親娘の言いなりだが、だからこそふたりの手紙を持っていない人間まで屋敷に入れたりはしない。
「……上着を持って来い。残りの人間はこの売女と若造を縛り上げろ」
父が衛兵に命じた言葉を聞いて、私の婚約者が叫ぶ。
「お待ちください! 僕はこの家の跡取り娘の婚約者ですよ! そもそも伯爵子息である僕にそんな無体が許されると思うのですか?」
「婚約者の母親と不貞をおこなうような男を婿にするわけがあるまい! 婚約は破棄だ! 尻の軽い息子を育てた罪、伯爵家にも償ってもらうぞっ!」
父の言葉には大方同意だが、ひとつだけ不満がある。
殴られ髪を掴まれて、血塗れになったその女は私の母親ではない。
残念ながら父の愛人は男爵家の令嬢だった。そのせいで愚かな父が正式に再婚してしまったから、便宜上義母と呼んでいただけだ。そんな女が母親だったら、この世に生まれ落ちた瞬間に自害している。
ついさっきまで私の婚約者だったお漏らし男が項垂れる。
伯爵家次男の彼は、私に婿入り出来なければ継ぐ家がない。平民になるしかなくなるのだ。
もっとも侯爵夫人と不貞を働いたのだから、その程度では済まない。伯爵家もこんなお漏らし男に種を撒き散らされたくないだろうし、断種されて鉱山奴隷かしらね。
「キャ、キャロライン……助けてくれ、お願いだ」
お漏らし男が顔を上げた。
あの子と通じた上、場合によっては私に罪を着せようとしていたくせに、どうして助けてもらえると思うのか。
私は彼に微笑んだ。彼の顔に喜色が浮かぶ。
「キャロライン!」
「もう婚約者ではないのですから呼び捨てにするのはおやめくださいませ、人妻と通じた伯爵家の次男坊様。……お父様、まだあの子は見つかっていませんわ。奥の東屋も確認いたしましょう」
私の言葉に義母が顔を上げた。
父は彼女と離縁していないから、今はまだ義母だ。
娘の名前を呟きながら、彼女の顔が青褪めていく。
「ライアー……そうよ、ライアー。まさかあの子とダリルが? なんて……なんてことするのよ、キャロラインッ!」
「黙れ」
「ひっ!」
父は義母を殴りつけた後、同行していた衛兵に猿ぐつわをさせた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
花園の奥の東屋では、義母の予想通りあの子と庭師のダリルが睦み合っていた。
明かりに照らされたふたりは、互いを確認して顔色を失う。義母のときとは違い、父の怒りは庭師にだけ向いているようだ。
中間の東屋で時間を食っていた間に湯が沸いたのだろう。私の侍女、この屋敷でただひとりマトモな使用人が湯の入った鍋を持って追いついていた。
「お父様、よくご覧になっていてね」
「キャロライン?」
私は湯気の上がった鍋の中身をあの子ではなく、庭師に浴びせかけた。
火傷するような温度ではない。ちゃんと侍女に命じていたのだ。
だって顔のほうも確かめてもらわなくてはならないもの。
ほど良い温度のお湯を浴びて、庭師の髪を黒く変えていた染料が溶け落ちる。
明かりに照らされて現れたのは、どこかのだれかによく似た淡い黄緑色の髪。青髪の侯爵と淡い黄緑色の髪の庭師、どちらが父親かは明白だ。
顔だって、私とよく似た整い過ぎて冷たい顔立ちの侯爵より、どこか甘く柔らかい美貌の庭師とのほうが似ている。
似ていると言えば、伯爵家次男と庭師は体格が似ている。
親娘は男性の好みが似るものなのかもしれない。
彼女達の体格も似ているから、四人とも相手が違うことに気づかないでくれたのだけれどね。
「……親娘で、汚らわしい……」
猿ぐつわをされていなかった伯爵家次男が、目の前の状況を理解して呟く。
猿ぐつわをされた義母は涙を流しながら呻き、ときおり憎々し気に私を睨む。
父は呆然としている。彼はどこから騙されていたのか? 最初からに決まっている。妻子のいる男に擦り寄って来た男爵令嬢の過去を調べようとしなかった父が愚かなのだ。義母は庭師と出来ていたから、年ごろになっても縁談がなかったのだ。
「違う、違う、違うっ! アタシじゃないっ! アタシが悪いんじゃないっ! あの女のせいに決まってる! 全部キャロラインが悪いのよおっ!」
父の前だというのに、お義姉様と呼んで取り繕うことも忘れて、半狂乱のライアーが私を呼び捨てにする。
あの子は噓つき。
侯爵の娘だと嘘をつき、義姉に虐められているのだと嘘をついた。
だけど最後の指摘だけは真実ね。
そうよ、全部私のせい。義母が庭師に渡すため窓際に置いた今夜の待ち合わせ場所を記した手紙を貴女が伯爵家次男宛てに書いた手紙と入れ替えたのは私なんだから。結婚式の前に入れ替える機会が来てくれて良かったわ。
わざわざ手紙を入れ替えたりせず、父に真実を告げる?
そんな選択肢はない。
父が私の言葉を聞くはずがないし……いいえ、正直に言うわ。私、あの子が嫌いなの。あの子に不幸になって欲しかったの。でもねえ、夜中に密会なんてしていなかったら、新月の闇の中でもわかるくらい恋人を愛していたら、こんなことにはならなかったと思う。そうじゃない?
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
あの夜私が予想した通り、伯爵家次男は断種されて鉱山奴隷になった。
もちろん伯爵家からは勘当されている。だから伯爵家次男というのは正しくないのだけれど、彼を名前で読んだり元婚約者と呼んだりするのは嫌なのだ。
それに、あんな人間に育て上げたのは伯爵家だ。いつまでも言われ続けるのは仕方がない。
元男爵令嬢とその情人、実の父親と睦み合った汚らわしいあの子は出自を偽って侯爵家を乗っ取ろうとした罪で死罪。
母が亡くなってからのことを思い返すと、もっと苦しめてやりたかった気もするものの、彼女達の顔を見ないで済むのが一番の幸せだからこれで良い。
もし母の死に関わっていたら、こんなものでは済ませなかったわ。
あの夜から廃人のようになった父は、伯爵家からの慰謝料で暮らしていく。
もう王宮へ出仕することもなくなった。悪いのはあの親娘とはいえ、あの程度の輩に簡単に騙されるような人間は侯爵には相応しくない。
いずれ降格されることだろう。領地のことは心配だが、あの親娘の豪遊が無くなれば、代官が苦労する必要もなくなると思う。
そして──私は、今日侯爵家から出て行く。
こんな醜聞に満ちた家を継ぎたくはないからだ。お爺様と伯父様の伝手で、隣国の貴族家の養女になることが決まっている。
母の死後、ただひとり残ってくれていた侍女はもちろん私とともに行く。もっともほかの使用人達を恨んだりはしていない。大恩ある彼らがあの親娘に傷つけられるくらいなら、出て行ってくれたほうが良かった。私に守れるのは侍女ひとりが限界だったのだもの。
私と侍女は侯爵家を出て、母の実家が寄越してくれた馬車に乗り込んだ。
生涯ひとりで生きるつもりはない。伯爵家次男にそこまでの思い入れはない。少なくとも今は消えている。
いつか私が恋をする日が来るのなら、新月の夜に隠れて会うような相手ではなく、一緒に青空の下で笑い合える人が良い──
<終>