乗るしかない、この大きな波(婚約破棄ブーム)に!
「公爵令嬢アドリアナ! 王太子である僕ドミトリーは君との婚約を破棄する!」
学園の昼休み、呼び出された中庭で告げられたのは思いもかけない言葉でした。
教えられていなかったのか、ドミトリー王太子殿下の背後に立つ未来の側近の方々も驚愕に目を見開いています。
昼食に集まった周囲の生徒達の好奇に満ちた視線を感じながら、私は震える声で尋ねました。
「……婚約破棄の理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
ほかに好きな方が出来たのでしょうか?
全然気づいていませんでした。それに気づかないような婚約者だったから、婚約を破棄されてしまうのでしょうか。
ドミトリー殿下はほんのり頬を染めて宣言しました。
「僕が君を、アドリアナを愛しているからだ!」
「……?」
私は首を傾げずにはいられませんでした。
なにをおっしゃっているのでしょう、この方は。
少し童顔で年齢よりも幼く見えますけれど、文武に優れ公務にも才能をお見せになっている我が国自慢の王太子殿下ですのに……拾い食いでもなさったのかしら? 以前私が焼いてきたクッキーを地面に落としてしまったとき、周囲の制止も聞かずに拾ってお食べになったことがありました。食い意地が張っているというわけでもないはずなのですが。
「婚約前の顔見せで初めて会ったときにひと目惚れした! 父上に彼女がお前の婚約者になったよ、と教えられたときは、嬉しくて嬉しくて飛び上がって足を滑らせて、王宮の磨き抜かれた床で頭を打ったくらいだ!」
「……」
そう言えば顔見せの後で正式に婚約が決まってお会いしたとき、殿下の頭にタンコブが出来ていて、随分心配したものです。
「これまで……上手くやって来たと思う。王家と公爵家のつながりのために結ばれた政略的な婚約者同士としては」
「そう、ですね……」
殿下の真意が掴めません。
もう一度首を傾げた私の両手を彼が掴みました。
「で、殿下?」
「だけど僕はもう嫌なんだ! 長年受け継がれてきた慣例や風習を莫迦にするつもりはない。大切なものだ。でも夜会での振る舞いも贈り物も家同士の格で決められているんだよ? 僕は君との付き合いのすべてを型に嵌められたくない!」
「殿下……」
彼は私の片手から手を離し、もう一方の手は掴んだまま跪きました。
「王太子でない素顔の僕は間違いを犯すだろう。失敗も繰り返すに違いない。けれど先人の築いた道を言われるまま歩くのではなく、この愚かな僕ドミトリーとして君と付き合いたい。公爵令嬢ではない、ただのアドリアナに愛されたい。だから」
──僕と付き合ってください、アドリアナ。
そう言われた瞬間、時間が止まりました。
世界から私とドミトリー様以外のすべてが消え去ります。
ふたりを取り囲む人々のざわめきも表情も感知出来ません。公爵家の娘として生まれ、王太子の婚約者となった以上、だれよりも周囲に気を配らなくてはいけないのに。
「……喜んで。お友達から始めましょう、ドミトリー様」
「え」
私の片手を掴んだまま、不満げな顔で彼が立ち上がります。
「出会ってから長いんだから、そこは飛ばして恋人からでもいいと思うよ?」
「いいえ。出会ってからずっと婚約者同士でしたから、ただのドミトリー様とお友達だったことはありませんもの」
「そうかー。そうだね。考えてみれば僕、君の女友達にずっとヤキモチ妬いてたから、友達として扱ってもらえるの嬉しいよ!」
心の中で呟きます。
……私もドミトリー様の男友達、いつも一緒にいらっしゃる未来の側近の方々にヤキモチを妬いておりましたよ。
夜会で何度もエスコートされたのに、王太子でも婚約者でもないドミトリー様の手は熱くて大きくて私の心をざわめかせます。私も初対面で貴方に恋したということは、いつごろお伝えすればよいのでしょうか。……いつお伝えしたとしても、きっと喜んでくださいますわよね?
「アドリアナ? 今の笑顔なに? すっごく可愛かったんだけど! なに考えてたの? 教えて! 友達でしょ?」
「お友達の間でも秘密はありますわ」
「もー!……ふふ、そうだね」
そう言って蠱惑的に微笑まれるドミトリー様のほうこそ、なにをお考えなのか教えて欲しいものですわ。
周囲から呆れたような溜息や、恋愛小説を読み終わった乙女のような吐息が聞こえてくる気がしますが、私とドミトリー様の耳を奪うほどではありませんでした。
勝手に婚約を破棄して、勝手にお付き合いを始めて──ふふふ、国王陛下やお父様に叱責されるときは一緒ですわよ、大好きなドミトリー様。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「伯爵令嬢! 侯爵家の嫡男である私は、君との婚約を破棄する!」
「理由をお聞かせ願えますか?」
「私は……親の決めた婚約に反発して君のことをないがしろにしてきた。反省している。だが婚約者という枠組みの中では、どうしても意地を張ってしまう。だからただの友人として付き合って、君を知る機会をくれないか。私も成長して君に償いたいと思っている」
「……仕方がありませんわね」
私とドミトリー様の婚約破棄騒ぎからしばらく経ちます。
学園では婚約破棄が流行していました。
元から仲の良いおふたりは違う関係になることで盛り上がるため、少しぎこちなかったおふたりは視点を変えてお互いを見直すためだそうです。もちろん大人達は苦虫を噛み潰したような顔で見ていますが、相手の本質を知らないまま形だけの関係を続けて最終的に破局するよりもマシだと判断されたようで、罰せられたり禁止されたりすることはありませんでした。
「アドリアナ、そろそろ友達から恋人にしてくれる?」
「ふふふ、考え中です」
「えー、ずっと考え中じゃない!……王太子でも婚約者でもない僕と付き合って、嫌いになっちゃった?」
「そんなことがあるわけないじゃありませんか。……大好きですよ」
「アドリアナ! 僕も大好き!」
人の多い中庭から少し離れた裏庭のベンチで、私達は昼食を摂っています。
ドミトリー様のことは好きです。ただのアドリアナとしてお付き合いを始めてから、以前よりももっと大好きになりました。
ですが──
「……うふふ、今日もアドリアナの髪は綺麗だね」
ドミトリー様は私の髪をご自分の指に巻き付けて、そっとキスを落としました。
お友達の関係でも隙を見つけて、さりげなく私の首から上、手首から下にキスを繰り返す彼を恋人に昇格させたりしたらどんなことになるか、それが少し怖いのです。
落としたクッキーをお食べになったのも私が作ったものを粗末にしたくなかったからだとおっしゃるほど愛してくださっているのですけれど、だからこそ信用出来ないというか……まあ、その辺りの悩みも自由な恋の醍醐味ですけれどね!
「くすぐったいですわ、ドミトリー様」
「……っ! だから! そんな可愛くて艶っぽい表情で僕を誘惑しておいて、友達だからまだ駄目っていうのが酷いんだよー!」
あらあら、ドミトリー様ったら。
婚約者のままだったとしても、結婚までキス以上は駄目ですよ?
・おしまい・