いつも笑顔の君が好き
「テイシェイラ公爵令嬢ロザ! 俺はお前との婚約を破棄する!」
学園の卒業パーティ会場で壇上から宣言すると、ロザは死人のような顔色で微笑んだ。
この国の王太子である俺は言葉を続ける。
「そして俺は彼女、コンセイソン男爵令嬢エレナを新しい婚約者とする! 俺はエレナを愛している! エレナは、いつも笑顔のエレナだけが王太子としての俺ではなく、ただの男としての俺を見てくれているからだ!」
エレナはロザとはまるで違う。
いつも明るく元気で、花のような笑顔を浮かべている。
俺の隣に立つ従者のフェリーペが呆れたような表情で見つめてくるが、ヤツも無能なロザには見切りをつけていたので反対はしなかった。常に疲れた振りをしている幽霊のように影の薄いロザよりも、前向きで向上心にあふれたエレナのほうが未来の王妃に相応しい。
そこで、なぜかロザがゆらゆらと頭を横に振った。
「なんだ? 婚約破棄に文句でもあると言うのか?」
「いいえ。私は未来の王妃に相応しくありません。婚約破棄は妥当でしょう。ですが……エレナ様、あなたはそれでよろしいのですか?」
ロザの言葉で、エレナの笑みが強張った気がした。
「エレナを脅す気か、この毒婦め! たまに彼女が手紙を見ながら暗い顔をしていたのはお前が脅しの手紙を送っていたからなのだろう? エレナが違うと言い張るから断罪までするつもりはなかったが、お前が彼女に害をなそうと言うのなら、俺にも考えがあるぞ!」
「お黙りください、殿下。私はエレナ様にお尋ねしているのです」
「なんだとっ?」
「……」
エレナは無言で俯いた。
「エレナ、優しい君のことだから、こんな毒婦のことも思いやっているのだろう。だが気にすることはない。俺は王太子だ。どんなものからも君を守ってみせる」
「……」
「答えがないのは肯定ということでしょうか? でしたら……ガスパルさんにはこのまま帰っていただきますね」
「ガスパルが来ているのっ!」
「彼に会いたい?」
反射的に頭を上げたエレナの顔は、俺が初めて見る喜びで満ちていた。
……ガスパルとはだれだ? その言葉を飲み込む。どうせ故郷で飼っていた犬か猫だろう。ロザはそんなものを使ってまでエレナを追い落とす気なのか。
エレナの顔に浮かんだ喜びは一瞬で消え、彼女は感情を消して首を横に振った。
「いいえ、会いません。もう会えないんです!」
「どうしてだ、エレナ!」
その瞬間、会場の裏手に通じる扉が開いて体格の良い男が飛び込んできた。
扉の外で様子を窺っていたらしい。
田舎の農夫のようだ。男爵家の庶子だったエレナが父親に引き取られる前、平民の母親と暮らしていたという農村での顔馴染みだろうか。
美しい澄んだ瞳に涙を滲ませ、エレナは答えた。
「だって私、もうガスパルのお嫁さんになる資格がなくなっちゃったんだもん! アルヴァロ様に……王太子殿下に穢されてしまったんだもん!」
たちまち会場の温度が下がった。
卒業パーティに集まった学園の生徒やその保護者達が、俺に冷たい視線を向けてくる。あろうことか従者のフェリーペまで。
お前、俺がそんな人間じゃないって知っているよな? 確かに強引なところはあると自覚しているが、嫌がる女を押し倒したりはしないぞ?
俺を包む冷気を打ち破ってくれたのは、婚約破棄したばかりの元婚約者だった。
彼女は優しく微笑んで、握り拳を振り上げて俺に襲いかかろうとしていた農夫を止める。
「……落ち着いて、ガスパルさん。殿下は力ずくで女性をどうこうするような方ではありません。そして、エレナ様はとても純真な方です。母君がご自分の行いを反省していたからこそ、そういったことから離してお育てになったのだと、以前お話したときに知りました」
エレナの母と当時から妻子持ちだった男爵の関係は、どんなに言い訳しても不倫でしかない。
「エレナ様……殿下になにをされたのですか?」
ロザに問われ、エレナは大粒の涙をこぼしながら答えた。
「キ、キスを……キスをいっぱい……赤ちゃんが出来ちゃう」
出来ない! エレナ、キスでは赤ちゃんは出来ないんだ!
というか、君は俺とキスするのが嫌だったのか? そんなの気づかなかった。だっていつも笑顔だったじゃないか。
俺の気持ちを代弁するかのように農夫が叫ぶ。
「キスで子どもは出来ない、エレナ! 王太子と百回キスをしたとしても、俺と二百回、いや三百回、いいや千回のキスをすればなかったことになる! してみせる! だから……帰って来てくれ、エレナ。俺の畑のカボチャ、もう君の頭より大きくなったんだよ?」
「ガスパル……ガスパルッ!」
エレナは壇上から駆け下りて、ガスパルの厚い胸の中に飛び込んだ。
今にも倒れそうな様子のロザが俺の前まで進み出て、畏れながら、と話し始める。
「エレナ様の笑顔は鎧です。知らない土地で、知らない人々の中で、ご自分を守るための鎧でした。ですから外すことが出来なかったのです。そして殿下、確かに彼女は王太子としてでなく、男性としての殿下を見ていらっしゃったでしょう」
そこで一呼吸おいてロザは続けた。
息は荒く顔色は悪い。肩が大きく上下している。
……疲れた『振り』なのではなく、彼女は本当に疲れ切っているのか? 国内で最も力を持つと言われているテイシェイラ公爵家の令嬢で、王太子の婚約者である彼女がなぜ、こんなに弱り切っているのだ?
「女性よりも体が大きくて力が強く、低い声で威圧してくる男性として」
「お、俺は彼女を威圧したことなど……」
「ええ、わかっています。殿下にそんなおつもりはなかったことを。でも彼女には違ったのです。母親に男性の怖さを聞かされて育ち、いきなり現れた恐ろしい実の父親に高位貴族を誑し込めと命じられ続けた彼女には」
ちらりとロゼに視線を送られて、コンセイソン男爵が唇を噛んだ。
反論したいのだろうが、俺との婚約が破棄されてもロザはテイシェイラ公爵家の令嬢だ。
彼女ではなくエレナをパートナーとしてエスコートしてきた俺の代わりに、ロザに付き添ってきた公爵家の嫡男に睨まれていたのでは男爵風情はなにも出来ない。ああ、そうか。今の男爵と同じように、エレナは俺に逆らえなかったんだな。
「愛してる、愛してるよ、ガスパル!」
「俺もだ、エレナ! 手紙の返事をくれなかったから捨てられたのかと思ったけど、どうしても諦めきれなくて……王都の男爵邸に押しかけて叩き出されたところを公爵家のご令嬢に助けていただいたんだ」
「ロザ様……ありがとうございます」
「お礼を受けるようなことはしていないわ、ガスパルさんと会ったのは偶然よ。ごめんなさいね、もっと早くなにか出来ていたら良かったのだけど。王宮での教育を受けるだけで手いっぱいで……私は無能な女だから……」
ロザの瞳にも涙が滲んでいたが、彼女はそれを飲み込んだ。
俺は、さっき自分が言った言葉に自嘲する。──どんなものからも君を守ってみせる、か。彼女が一番守ってほしかったのは俺からなのに。というか、俺よりそこの農夫のほうが体が大きくて力が強そうで声が低いぞ!
手紙を見るエレナが暗い顔をしていたのは、本当に愛している男のことを思い出していたからだったんだな。
俺にはだれも守れはしない。
目の前で音もなく崩れ落ちた元婚約者でさえ、抱き上げたのは彼女の兄だ。
ロザの真っ青な顔は、なにかをやり遂げたものだけが見せる満足げな笑みを浮かべていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ロザはべつに病気でもなんでもなかった。
卒業パーティに出席するため、無理をして公務と教育をこなしていたことによる寝不足と疲労で倒れたのだった。仕事を減らすために疲れた『振り』をしていたのではなく、彼女に与えられた量が多過ぎたためにいつも疲れ切っていたのだ。
……私は無能だから人の倍頑張らなくてはならなかったのです、と彼女は笑った。
彼女と公爵家嫡男の尽力で、卒業パーティでの騒ぎはコンセイソン男爵を断罪し哀れな娘を救い出すための茶番だったことになっている。
しかし、婚約破棄は継続された。
ロザ自身が、もう無理だと白旗を上げたのだ。
「……ロザはこれからどうなるのだろうか」
もう二度と彼女が訪れることのない王宮の執務室で、俺はフェリーペに尋ねた。
「彼女は王太子殿下の婚約者としての教育で、絶対に外部へは漏らせない国家機密をお知りになっています。テイシェイラ公爵領で軟禁され、どこかへ嫁ぐこともだれかを愛することもなく生涯を終えることでしょう」
「……俺のせいで」
「……私にも咎があります。言動はともかく能力だけは秀でている殿下を基準に彼女を見下し、無能だと罵っていました。王宮の人間はみなそうです。能力はあっても人として大切なものを持ち合わせていない殿下には、普通の人間の感性を持った彼女こそが必要な存在でしたのに」
「お前、どさくさに紛れて俺を貶めてないか? だが……」
悔しいが事実だ。俺は人の心というものがわかっていない。
表面だけを見て上辺だけを知って理解したつもりになっていた。
恋をした相手の気持ちすら読み取れていなかった。──彼女は農夫と農村へ戻った。コンセイソン男爵の庶子というのは間違いだったと発表されている。別れを告げるエレナは、俺が好きになった明るく元気で、花のような笑顔を浮かべていた。
ロザも別れの席では笑顔だった。
何年にも渡る王太子の婚約者としての激務で衰えた体はまだ回復しておらず、顔色は死人のようなままだったけれど、瞳には光が戻っていた。
ああ、そうだ。疲れ切り、幽霊のように影が薄くなっていても彼女は笑顔を心掛けていた。俺にはいつも笑みを向けてくれていた。
彼女は言った。
──今度は私が笑顔でなくても愛してくださる方、私を笑顔にしてくださる方と出会いたいと願っています。
ロザが知る国家機密が、だれもが知る無価値な事実に変わるころ、そんな相手が現れるようにと俺は願った。
その人物になりたいと願うことは、俺には許されていない。
<終>