彼女が愛した、ただひとり
「愛している人がいる」
王太子殿下が婚約者である公爵令嬢におっしゃったのは、婚礼を一ヶ月後に控えた、ある春の日のことでした。
お茶会を開催中の王宮の中庭には、春の花が咲き誇り風に揺れています。
少し考えて、公爵令嬢は尋ねました。
「……では、私達の婚礼は取り止めになるのでしょうか」
「いや、それはできない。王家としても公爵家を外戚とすることで手に入る利益は失えない。式典は予定通りおこなう。ただ、私が愛しているのは君ではないことを覚えておいてほしいだけだ」
「かしこまりました、王太子殿下」
公爵令嬢は満面に笑みを浮かべて頷きました。
王太子殿下の顔色が曇ります。
「怒らないのかい?」
「未来の国王陛下に怒るなど、そんな不遜な真似はできませんわ」
「そうか。……悲しんでいる様子もないようだが」
「みだりに感情を表に出すようでは貴婦人にはなれませんわ」
王太子殿下の眉間に皺が寄ります。
「……もしかして君も、私以外に愛するものがいるのではないのか?」
公爵令嬢は首を傾げます。
「いないとでもお思いでしたの? 私が好き好んで殿下と結婚すると?」
瞳を見開き言葉を失った王太子殿下を見つめながら公爵令嬢は──私は、テーブルの上から茶碗を持ち上げて、芳醇な香りを楽しみながらお茶を口に含ませました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
──というのが前世の記憶です。
いきなり蘇ったのは、そのときと状況が似ているからでしょう。
春の花が咲き誇る王宮の中庭、目の前には王太子殿下、懐かしくも芳醇な香りのお茶。以前と違うのは王太子殿下だけでなく弟王子殿下もいらっしゃることと、公爵令嬢である六歳の私はまだどちらとも婚約していないことくらいでしょうか。
前世では婚礼から三年間の白い結婚の末、国王陛下は愛する人を愛妾としてお迎えになりました。
王妃であった私は愛妾の産んだ庶子を養子にして王位継承権を与えることで役目を果たし、王宮の離れに閉じ籠って余生を過ごしました。
愛する人のことだけ思って生きるのは大変楽しゅうございました。……できたら今回もそうして生きていきたいのですが。
前世で私の夫となった王太子殿下、後の国王陛下は、今世では弟王子殿下のようです。
そして今世の王太子殿下は前世の宰相閣下によく似ています。
愛妾の産んだ庶子は宰相の娘と結婚したので血が受け継がれたのですね。どちらも前世の記憶は持っていないことと思います。持っていたら面倒くさいこと極まりありません。
前世の国王陛下は愛する人がいるくせに、何度か私に迫ってきました。
たぶん性的なことにしか関心のない色魔だったのですね。
せっかく国内最高峰の知識と文化を手に入れられるお立場でしたのに、お可哀相。
前世の宰相閣下は、離れに籠もっていた私を頻繁に訪ねてきました。
自分も国王陛下には不満を持っているから、一緒に国家を転覆しようと誘われたのです。おそらく反社会的な思想の持ち主だったのでしょう。
今世ではご自分が権力の頂点にいらっしゃるので、国家転覆ができなくて残念ですわね。
前世の記憶が戻る前に読んだ歴史書によると、結局宰相閣下が国家を転覆させることはなかったようです。
国王に娘を嫁がせているくらいだから当然ですね。ご自分が権力を握りたかっただけなのでしょう。
というか、私を旗頭にして利用するつもりだったのでしょう。前世の母は王妹でしたから、愛妾の産んだ庶子などよりも遥かに正統な王位継承権を持っておりましたしね。
王宮のお茶は相変わらず芳醇な香りですが、私は早く家へ戻りたくてたまりませんでした。
前世と同じ外見が前世と同じ性格を現すのなら、兄の王太子殿下は反社会的な思想の持ち主で、弟王子殿下は性的なことにしか興味のない色魔です。
どちらとも婚約なんてしたくありません。
とはいえ、今世でも私の母は王妹なのです。
王妃の実子を跡取りにはできなかったものの、公爵家は今も豊かで強大な権力を保持しています。
王子殿下達の婚約者には格好の存在です。
そういえば前世でも今と同じ年、六歳で婚約したのでしたわ。
あのときは同い年の王太子殿下とだったのですけれど、今回の王太子殿下は二歳年上です。
それから十二年の王妃教育を経て、婚礼の一ヶ月前に愛している人がいる宣言でしょう? 本当に莫迦らしい時間の無駄でしたこと。
……あー、早く帰りたいものです。
今日は王都の公爵邸に近い通りへ吟遊詩人が来るのです。メイドと護衛を同行させれば行ってもいいとお父様に許可をもらっています。
当代一と言われている彼は、前世の吟遊詩人達とはどう違うのでしょうか。死んで生まれ変わっても、吟遊詩人の追っかけはやめられませんわー!
★ ★ ★ ★ ★
「吟遊詩人?」
離れに引き籠って人生を終えた王妃の遺した日記には、王宮を抜け出して聞きに行っていた吟遊詩人達の歌の記録が綴られていた。
彼女の夫であった国王が安堵の息をつく。
「なんだ、彼女には愛するものなどいなかったのだな。私に対抗して言っただけで、本当は吟遊詩人に憧れていただけだったのだ」
「どうですかな、陛下」
そう言うのは国王の腹心である宰相だ。
彼がふたりの結婚前から王妃を慕い、離れに籠もった彼女を何度も駆け落ちに誘っていたことを国王は知らない。
もっとも誘い方が悪かったので、王妃のほうは国家転覆の企みに誘われていると思っていたのだが。彼女が国王やほかの文官に密告しなかったのは、宰相は確実に旗頭を得てからでなくては動かないだろう、と考えていたからだ。
「ただひとり愛した吟遊詩人を庇うため、ほかの吟遊詩人のことも書いているのかもしれません。少なくとも陛下を愛していらっしゃらなかったのは一目瞭然かと」
「うっ……」
「よろしいではないですか。陛下にはあの方がいらっしゃるのですから」
「あ、ああ……」
国王と愛妾の間は、上手く行っているとは言い難かった。
ふたりが禁断の関係に酔っていたころは楽しかったのだけれど、きちんと愛妾として認められ、跡継ぎの作成を望まれるようになると義務でしかなくなってしまったのだ。
跡取りの王子が生まれた後の愛妾は、国王との同衾を拒んでいる。彼女の口癖は、あんな男に騙されるんじゃなかった、だ。
「……ふふっ……」
「宰相?」
「いえ、妃殿下にも楽しみがおありだったことを嬉しく思っただけです」
形だけの結婚だったが、彼女は王妃としての役割を見事に果たしていた。
離れに引き籠ったのも愛妾に公務を引き継いでからのことである。
正式な跡取りとなった庶子のためにも継母に過ぎない自分が出しゃばらないほうが良いと考えたのだ。……たぶん。
羞恥から項垂れた国王を見て、これなら……と宰相は思う。
愛している人がいると婚約者の公爵令嬢に打ち明けたことを国王本人の口から聞いてからずっと、宰相は彼に殺意を抱いていた。
これまで殺さないでいたのは、王妃が愛しているのが国王かもしれないと疑っていたからだ。その場合、国王を殺したら嫌われてしまうかもしれない。
でもそうではなかった。
吟遊詩人全般が好きだったのか、だれかひとりが好きだったのかまでは不明だが、これだけの記録を残すほど好きでのめり込んでいたのは事実だ。
国王のことなど考える暇はなかったはずだ。
──それからしばらくして、国王はこの世を去った。
残された王太子は宰相に支えられて成長し、即位後は宰相が親族から引き取って養女にした娘と結婚した。
新しい国王も王子が生まれてすぐ、まだ若いころに亡くなったが、まあそういうこともある。宰相は娘と一緒に孫の王を支えて長生きした。
★ ★ ★ ★ ★
「あ、あの……」
弟王子殿下が口を開きました。
「そなたには愛する人がいるの?」
「いきなりなにを聞いてるんだい、お前は」
苦笑して窘めた王太子殿下も私の返事を待っているようです。
こんなくだらない質問に答えなくてもいい、とは言ってくださいません。
私は微笑んで、おふたりに告げました。
「はい、愛している人がおります」
それこそ前世からずっとずっと、私は私ただひとりを愛し続けていますとも。
才能のある吟遊詩人を見出して追っかけをする、自由な私を。ほかの方はそんな私は愛してくださいませんもの。周囲が愛するのは、自分達に都合が良い行動を取るときの私だけですわ。
王太子殿下と弟王子殿下はなぜか、とても残念そうなお顔をなさいました。
まあ政略的な関係ですし、浮気せず努力してくださるのなら、私も婚約者となった方を愛する努力はいたしますわよ?
婚礼を一ヶ月後に控えたある日に突然、愛する人がいるなんて告白されたりしなければ、ですけれどね。
前世のときはあの瞬間に、自分自身に対する以外のすべての愛が消え失せたのです。無意味だった王妃教育に私を駆り立てた家族への愛もですわ。
……今回はそんなことになりませんように。
思いながら私は、テーブルの上から茶碗を持ち上げて、芳醇な香りを楽しみながらお茶を口に含ませました。
<終>




