だれでも良いなら恋などいらない。【再構築】
恋をしていたことがあります。
でも私が恋した方は、私に恋してはくださいませんでした。
彼は私以外の女性に恋をして、私との婚約を破棄したのです。
あれはこの王国の貴族子女が通う学園の卒業パーティのときでした。
王族として卒業パーティを運営していた彼は、壇上から私に言ったのです。
彼の隣には彼の恋人の姿がありました。
『公爵令嬢。君は未来の王妃になれたら、相手がだれでも良いのだろう? 私は恋人との真実の愛を貫くために太子を辞した。君との婚約は破棄してやるから、どこのだれとでも結ばれて未来の王妃となるが良い』
投げつけられた言葉は一言一句思い出せるのに、今の私は彼の顔を思い出すことが出来ません。
顔だけではありません。名前もです。どんな声だったかもです。
覚えている言葉から彼が王太子だったことはわかりますが、それ以上はなにも。
たぶん私が一度死にかけたからでしょう。
婚約を破棄されて自害しようとしたわけではありません。
もっとも周囲はそう思っているようですが。
私は自害しようとしたのではなく、恋を捨て去る薬を飲んだだけなのです。
とはいえ、公爵令嬢ともあろうものが得体の知れない薬を飲んだのですから、自害しようとしたと思われても仕方がないのかもしれませんね。
死にかけるという副作用はありましたけれど、その薬は正しく私の恋を消し去ってくれました。
恋した方の顔も名前も声も、過ごした日々の思い出も、そのときの気持ちも全部。
もう二度と思い出すことはないでしょう。
ただ、今の夫には申し訳ないと思っています。私は公爵令嬢でしたからね、婚約を破棄されたからといって一生独身でいるわけにはいかなかったのです。
夫を愛しています。
家族として、我が子の父親として、なにより大切な夫として。
それなのに私は夫に恋することだけは出来ないのです。私は恋を捨ててしまったから、消し去ってしまったから。唯一無二の恋を失って心に空いた穴を惜しみない愛で埋めてくれたのは、彼なのに。
ごめんなさいと謝ると、夫は温かな微笑みを浮かべて、君の恋した相手は私だよ、と優しい嘘をついてくれます。私を傷つけたことまで謝ってくれます。
そうだったら良いのにと思いながらも、私はなにも言えずに笑みを浮かべることしか出来ません。
それは違うとわかっているからです。恋はだれにでも出来るものではありません。私の恋は、もうどこにもないのです。
★ ★ ★ ★ ★
恋をしていた。今もしている。
私が恋した彼女は私の婚約者で、だれよりも熱い恋心を向けてくれていた。
どうして、それを素直に受け止められなかったのだろうか。
王太子だった私の周りには、公爵令嬢だった彼女を貶めることで実家の勢いを削ぎ、自家が成り代わりたいと思っている人間がたくさんいた。
私はそんな輩の戯言をそのまま信じてしまったのだ。
彼女は私を好きなのではない。未来の王妃になりたいだけだ。本当はほかに好きな男がいるのに、家のために我慢して婚約しているだけだ、なんて言葉を。
おまけに、この王国の貴族子女が通う学園で男爵令嬢に擦り寄られた私は、欲望を恋だと見誤った。
彼女に対する想いよりも男爵令嬢への欲望のほうが真実だと思い込んだ。身分差があるからこそ真実の愛なのだと嘯いて、不貞の関係だということから目を逸らしていた。
欲望に溺れる自分を正当化するために、彼女の行動すべてに悪意の籠った視線を向けた。
そして、卒業パーティで婚約破棄をしたのだ。
彼女は王家から分かれた公爵家の令嬢だったから、私を夫としなくても未来の国王の妻になることが出来た。
好きにだれでも選べという私に、彼女は言った。
──だれでも良いのなら恋などいりません。
そうだ、その通りだ。
だれでも良いのなら人は苦しまない。
長い年月をかけて愛し愛されることは出来るけれど、一瞬の煌めきのような恋は強制されて出来るようなものではない。私と彼女が婚約者で、恋し恋されていたことは奇跡だったのだ。
今ならわかるそのことが、そのときの私にはわからなかった。
それでも騒ぐ胸を押さえて、私は男爵令嬢をエスコートしていた私の代わりに、父親の公爵にエスコートされていた彼女を見送った。
彼女が自害しようとしたという知らせが届いたのは、卒業パーティから数ヶ月ほどしてのことだった。
自害ではない、と彼女は言う。
恋を捨て去る薬を飲んだだけだと。
でも得体の知れない薬を飲んだのは悪かったと思う、と申し訳なさそうに謝る。
その薬は本物だった。
彼女は私のことを忘れてしまった。
私の顔も名前も声も、過ごしてきた日々の思い出も、そのときの気持ちも全部。
私が廃太子になったのは、自分ひとりで決めたことだった。
男爵令嬢にも、公爵令嬢に関する戯言を私に吹き込んできた周囲の人間にも話していなかった。もちろん両親の国王と王妃にもだ。
それでも国内外の要人が集まる学園の卒業パーティで宣言したのだから、それは本当のことになった。
いろいろなことがあって、私は幸運にも彼女の夫となることが出来た。
だれでも良いのなら恋などいらない、と言った彼女だが、貴族令嬢として家のために結婚することは受け入れてくれたのだ。
もちろん政略結婚だからこそ、愛し愛される努力もしてくれた。
同い年の私を少しも知らなかったことを不思議がりながら、家族として子どもの父親として夫として、私を愛してくれている。
ときおり申し訳なさそうに、私に恋することが出来ないことを謝ってくれる。
君の恋した相手は私だよ、と何度言っても信じてくれない。いや、どうしても思い出すことが出来ないのだろう。思い出してもらえないのだから、謝罪の言葉も宙を舞うだけだ。
私は君に恋している。今日も、昨日も、明日も、ずっと。
君は私に恋してくれていた。だけど──その気持ちは消えてしまった。
私は君を愛しながら、君に愛されながら、この世にたったひとつだった君の恋を懐かしく思い出す。愚かな私の心に空いた穴を埋めてくれる君の愛に、失った恋の残骸を探しても見つからないのに。唯一無二の恋を失ってしまった自分の愚かさをどんなに悔やんでも、取り戻すことは出来ないのに。
<終>