お久しぶりでした、さようなら。【再会】
「……ベアトリス……」
浮かれて油断していたのかもしれません。
朝の光が眩しかったのもあるでしょう。
私はなにも考えずに扉を開けてしまったのです。
「ダニエル様……」
扉の向こうにいたのは、一年前に白い結婚で離縁した元夫でした。
私達の祖国は隣国で、彼は子爵家の当主です。
隣国は魔獣の多い土地です。幼いころに両親を魔獣に奪われた彼は、若くして子爵家を継ぎました。
子爵領は魔獣による危険が大きい土地です。
魔獣に対抗するために領主も領民も体を鍛えるのが常でした。
私は元夫を認めてからずっと扉を閉めようとしているのですが、彼の力は強くて押し戻されてしまいます。ダニエル様は鍛えた体を買われて、隣国の王太子殿下の側近をなさっていました。
「待ってくれ、家の中にまで入れてくれなくて良いから、このまま話を聞いてくれ。俺は君に謝りに来たんだ」
「なにを謝罪してくださるというのでしょう。隣国の貴族子女と裕福な平民が通う学園で、婚約者だった私を放っておいて治癒のお力を持つ聖女アロガンシア様の取り巻きをなさっていたことでしょうか。私がどんなに婚約解消を申し出ても、王太子殿下とご婚約された聖女様との関係を周囲に誤解されないようにと、婚約を継続なさったことでしょうか」
「……」
私はダニエル様の青い瞳を見つめました。
遠い昔は愛していた瞳です。
その瞳に聖女様ではなく、婚約者の私を映して欲しいと何度願ったことでしょう。
「結婚した後は王太子殿下の側近として王都に入り浸り、子爵領の運営を放棄されていたことでしょうか。王太子殿下が流行り病でご逝去なさった後、白い結婚を理由に私を離縁して追い出したことでしょうか」
「……本当に、すまなかった」
学園の卒業後、王太子妃となった聖女様と親しい自分が独身のままだと醜聞が流れるかもしれないからと、彼は私と結婚しました。
彼女には王太子殿下を始めとする多くの取り巻きがいらっしゃいましたが、皆様まだご令息でございました。
ご自身の自由になるお金は少なかったのです。
当主であったダニエル様は、学園在学中も卒業後も自分の財を投げ打って聖女様に貢いでいました。
実際のところ、平民出身だった聖女様には後ろ盾がなく、彼の援助がなければ、どんなに愛し愛されていても王太子殿下とご結婚なさることはなかったでしょう。
そんなダニエル様の聖女様への献身は、魔獣による危険が大きい代わりに魔獣素材による利益も大きかった子爵領を蝕んでいました。
彼が私と結婚したのは、裕福な我が家からの援助目当てもあったのでしょう。
財がなければ、聖女様に貢ぐことは出来ませんものね。
愛されていないとわかっていても、当時の私はダニエル様を愛していました。
援助目当てでも妻にしていただけたのです。
子爵領を立て直せば、運営を正常化して領民に尽くせば、いつか愛していただけるのではないかと思っていました。だって彼が愛する聖女様は王太子殿下のお妃様、他人の妻なのですもの。
婚約解消を認められず結婚を強行された以上、そうでも考えるしかないではありませんか。
「うん?」
扉の隙間から見えるダニエル様が首を傾げました。
「今、家の奥で物音がしなかったかい?」
「……奥の部屋の窓を開けていたので、風が吹き込んでなにかが倒れたのでしょう」
「女性のひとり暮らしなのだろう? 気をつけなくてはいけないよ」
「そうですね……」
いつもは気をつけています。でも今日は……私は言葉を飲み込みました。
「……私と離縁して、聖女様と再婚なさるのではなかったのですか?」
「アロガンシア様は新しい王太子となられた王弟殿下と再婚なさるそうだ」
ダニエル様の青い瞳が、探るように私を見ます。
「……君は知らなかったのか?」
「隣国のことですので」
本当は知っていました。
その後のこともです。
でも口に出してはいけません。ダニエル様が本気を出せば、無理矢理扉を開けて家に入ることも出来るでしょう。今の状態は、彼が無理を通そうとしていないから成り立っているのです。
「そうか、そうだな。知らなくても仕方がない」
「王弟殿下は私達とは年が離れていましたよね。王家の方々がお決めになって聖女様に強要したのですか?」
「……」
あまり良い話題ではなかったようです。
ダニエル様の顔が赤く染まります。
しばらく沈黙した後で、彼は低い声を絞り出しました。
「……いいや。違う、そうじゃない。アロガンシア様が決めたんだ。王弟殿下がどんなに遊び人でも、彼女のことを愛さないとしても、田舎子爵家の当主に過ぎない俺の妻になるよりも王太子妃のままのほうが良いと言ったんだ!」
興奮したダニエル様が扉を殴りつけます。
振動と恐怖で体が震えましたが、私は扉を押さえ続けました。
先ほどの奥の部屋からの音について考えます。隙を見て扉を閉められなかったとしても、彼に話をさせて時間を稼いでいれば、きっと──
「愛していたのにッ! 俺は彼女を愛していたのにッ! 平民聖女と莫迦にされていた彼女を飾るために、子爵家の家宝を売ったッ! 魔獣に破壊された道や橋を直すための金を寄進して、神殿に彼女の派閥を作ったッ!」
……そのせいで子爵領の財政はボロボロでした。
ダニエル様がそこまでしたのに、前の王太子殿下が亡くなった流行り病のとき、神殿の治療者も聖女様ご自身も子爵領には癒しに来てくださいませんでした。
そのとき援助を頼み過ぎて、私は実家に縁を切られてしまいました。ほかに金策のしようがなかったのです。取り引きのあった商会には、とっくに見捨てられていましたから。
必死に頑張って、なんとか領民を救って、ひと息ついたところでダニエル様が戻って来て──愚かな私は褒めていただけると思っていました。
まさか子爵領に援助してもらったことで実家に絶縁されたと伝える前に、離縁されて追い出されるとは思っていませんでした。
領地の状況を確認もせず、離縁届けを持った彼が嬉し気に王都へとんぼ返りするなんて想像もしていませんでした。
「王太子殿下とのことは応援出来た。俺がアロガンシア様と出会う前からの仲だったし、互いに愛し愛されていらっしゃったからだ」
ダニエル様に私がいたように、本当は王太子殿下にも婚約者がいらっしゃったのですけれどね。私は冷めた心でそんなことを思いながら、語り続ける彼を見ていました。
「だけど……だけど王弟殿下は違うだろう? あんなに年の離れた、遊び人で、アロガンシア様のことを愛してもいない男だなんて。俺のほうが良いはずだッ! なのに、なのにアロガンシア様は王弟殿下のほうが良いって、王太子妃のままでいたいって……そんなの酷いじゃないかッ!」
仕方がないではありませんか、それが聖女様の選択だったのですから。
私は心の中で反論します。
愛したからって尽くしたからって、相手が想いを返してくれるとは限らないのです。ダニエル様だって、私の愛に応えてはくださらなかったではありませんか。応えてくれないくせに、離れることも許さずに利用し続けていたではありませんか。
「……だから殺したのですか?」
「?」
尋ねたのは私ではありませんでした。
背後にいたエンリーケが、振り返ったダニエル様を取り押さえます。
奥の部屋の窓から出て回り込んできただけではなく、近くの衛兵詰所からも助けを呼んでくれていたようです。エンリーケの後ろには衛兵隊の皆様の姿がありました。
「再婚ということで、隣国の聖女様と新しい王太子殿下の婚姻は密やかにおこなわれた。貴方は前の王太子殿下の側近だったときの知識を利用して、王太子の寝室へと忍び込み、王弟殿下を襲って聖女様を攫ったのですね。でも彼女が自分の気持ちを受け入れてくれなかったから、殺してこの国へ逃げて来た。……聖女様のご遺体が見つかって、王弟殿下の証言から貴方は指名手配されています」
「お、お前はだれだっ!」
「この国のこの町で衛兵隊長をしているエンリーケと申します。ご同行をお願いします、ダニエル殿。……ベアトリス、せっかくの蜜月休暇なのにごめんね。彼を詰所に連れて行ったら、副隊長に任せてすぐ帰ってくるから」
「はい、待っています。私こそ確認せずに扉を開けてしまってごめんなさい」
実家に絶縁されている私は、ダニエル様に離縁されると行くところがありませんでした。
幸い子爵領の家令が書いてくれた、こちらの商会への紹介の手紙だけを頼りに国境を越えたのです。
紹介先の商会もダニエル様の暴挙で子爵家を見捨てて取り引きをやめていたのですが、長い付き合いの家令とは手紙のやり取りだけは続けてくれていたのです。
令嬢として学び形だけの子爵夫人として磨いた読み書き計算の腕で商会に雇われて、勤務先の近くにある衛兵詰所の隊長のエンリーケと知り合って、恋をして──結婚したのは昨日のことです。
私の働く商会の方々にも、夫のエンリーケの部下の衛兵の方々にも祝福されて、幸せな結婚式が出来ました。絶縁したはずなのに、実家からも祝いの品が届いたのです。
今朝までずっと幸せだったので、浮かれて油断してしまったのでしょう。
「ベアトリス……」
呆然とした顔のダニエル様が私を見つめます。
謝罪さえすれば、私が彼を受け入れるとでも思っていたのでしょう。
でもそれは無理な話です。だって彼といるよりも、エンリーケと一緒にいるほうが、ずっとずっと幸せなのですもの。
「お久しぶりでした、ダニエル様。どうか罪を償ってください。……さようなら」
とはいえ、新しい王太子となった王弟殿下を襲い、聖女様を攫った上に殺害したのです。
たぶん処刑一択でしょう。
子爵領が身勝手な当主から解放されるということですね。それに彼にとっても悪いことではないのではないでしょうか。聖女様はきっと、ダニエル様が行くのと同じ場所にいらっしゃると思いますから。
私は衛兵隊の皆様に挨拶をして、家の中に入りました。
昨日からは女のひとり暮らしではなくなったのです。
扉に鍵をかけ、私はエンリーケが戻って来るまでに朝食を作ることにしました。夫はちゃんと合鍵を持っています。あ、奥の部屋の窓も閉めておかなくてはいけませんね。
<終>