思うわけないでしょう?【視線】
侯爵令息ジャコモは、伯爵令嬢カロリーナとの婚約を解消した。
その後、彼は親友の子爵令息アルベルトの義妹イーラを好ましく思い、彼女に婚約を申し込んだ。
しばらくして、アルベルトの婚約者が襲われた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「……今日は会ってくれてありがとう」
ここは王都にある伯爵邸の中庭だ。
ジャコモは元婚約者のカロリーナに面会を申し込んだのだ。
以前婚約をしていたとき、毎月の交流お茶会をしていた中庭である。
当時はジャコモが不機嫌そうな顔をしていて、カロリーナが必死に話題を作り出していた。
しかし今日は逆であった。
不機嫌そうなカロリーナと必死な表情のジャコモの周囲には、前と同じように侍女や侍従達が控えている。
「なんのご用でしょうか。私達はもう婚約者ではありません。私の新しい縁談に差し支えるようなことはやめていただけますか?」
カロリーナはもうジャコモの機嫌を取るための笑みを浮かべていない。
いや、婚約を解消する直前のカロリーナはいつも怒っていた。
潤んだ瞳でジャコモのことを責め立てていた。あのころの伯爵令嬢はジャコモを愛していたのだ。
ジャコモは重い口を開いた。
「……君は、気づいていたのか?」
「なににでしょうか?」
「僕が彼女を、親友アルベルトの義妹イーラ嬢を愛していたことを」
カロリーナの瞳が丸くなる。
それから憐れむような表情を浮かべた。
溜息をついて伯爵令嬢は答える。
「ええ。何度も貴方ご自身に申し上げたではありませんか。彼女を見ないで、休みの日に私を放っておいて彼女とばかり出かけるのはやめて、彼女に貴方の髪と瞳の色の装身具を贈らないで、と。……気づいていらっしゃらなかったのですか?」
「僕は家を出て学園の寮に入った親友のアルベルトの代わりに、彼の義妹の世話を焼いているだけのつもりだった」
「義兄のアルベルト様がしなくても良いと判断したことを赤の他人の貴方がなさる必要はございません」
「はは、そうだな。確かに前も君にそう言われていたっけ」
「私だけではございませんわ。貴方は邪推による嫉妬を理由にして、私有責の婚約破棄をお申し出になりましたが、ご家族の方は双方に責のない婚約解消ということで収めてくださったでしょう? 私の父が異議を申し立てて裁判になれば、貴方の不利は明らかだったからですわ」
伯爵令嬢は歌うように、貴方はいつも彼女を見つめていた、と口遊んだ。
「だから新しい縁談が来ないのです。学園に通っていた人間はみんな知っています。貴方が彼女を愛していたことを」
カロリーナがジャコモを見つめる。
「貴方は本当に、ご自身のお気持ちに気づいていらっしゃらなかったのですか?」
「僕は……」
「母親の再婚でいきなり平民から貴族ばかりの学園に通うことになった連れ子の彼女を心配しているだけだ。君の目が曇っているからそんな風に見えるんだ。君の想いは狂恋だ。だれのことも幸せに出来ない歪んだ心の持ち主だ……でしたかしら?」
普段は都合よく忘れていても、はっきりと浴びせかけられれば思い出す。
伯爵令嬢の言葉は、すべてジャコモ本人の罵りだ。
ただ、そのころのジャコモが本当にそう信じていたのも事実だった。事実だったけれど、婚約者のカロリーナにそんな言葉をぶつける必要はなかった。
「それにしても……」
カロリーナは扇を手にして口元を隠す。笑っているのか呆れているのか、ジャコモにはわからない。
「あれだけイーラ様を見つめていたのに、彼女が義兄のアルベルト様を慕っていたことにも気づいていらっしゃらなかったのですか?」
アルベルトは婚約者を愛していた。義妹の気持ちを受け入れることは出来なかった。
しかし父の再婚を否定したかったわけではなかった。
だから彼は家を出て、学園の寮に入ったのだ。
──それでもイーラの気持ちは変わらなかった。
家族であることを理由にして寮に押しかけてくる義妹に辟易したアルベルトは、自身の友人を彼女に紹介した。
おもに貴族家の次男以降だ。
婿入り予定の婚約者がおらず、有能さを買われて養子に入ったり、自力で得た騎士爵で生きる将来を掴み取った素晴らしい青年達だった。
ジャコモを虜にしたほど美しかったイーラは、そんな青年達の心も掴んだ。
でも彼女自身は彼らを受け入れなかった。
アルベルトへの執着を手放さずにイーラがお気に入りに選んだのは、婚約者のいる貴族令息達だった。アルベルトが紹介しようとしなかったのに、イーラの美しさを聞いて自分から花に吸い寄せられてきた間抜けな蝶達だ。
「彼女は美しい方でしたものね。下町にいるころから噂になっていたと聞きますわ。下町にいたころから……」
カロリーナは言葉を濁したが、ジャコモはアルベルトに聞いて知っていた。
美しいイーラにとって、障害のない相手に口説かれるのは当たり前のことだった。
障害──婚約者や配偶者、恋人のいる相手の心を奪って初めて彼女は愉悦を感じたのだ。そんな彼女にとって、自分に靡かない義兄アルベルトは特別な存在となった。
お気に入りの貴族令息達の婚約者が傷つき苦しみ嫉妬するのを楽しみながら、イーラはアルベルトを求め続けた。
義兄の答えはいつも同じだ。
婚約者を愛しているから。
『婚約者がいなくなれば彼女を愛するなんて意味じゃなかった!』
事件の後、会いに行ったジャコモにアルベルトは叫んだ。
身分の高いジャコモに婚約を強要されるかもしれないと怯えたイーラは、アルベルトの婚約者を襲って顔に傷をつけたのだ。
そうすれば義兄が自分を愛すると思い込んで。
イーラは捕縛された。
アルベルトの父は彼女をこの王国の貴族子女が通う学園へ入学させていたが、正式に養女にして子爵家の令嬢とするかどうかは、学園卒業時に本人に決めさせようと考えていた。跡取りで次代の当主であるアルベルトとその妻の意向も確認するつもりだった。
そのため彼女はまだ平民だった。
アルベルトの婚約者は男爵令嬢だったので、平民が貴族令嬢を襲ったということになりイーラの罪は重くなった。
男爵令嬢は肉体の傷以上に心の傷が深く、後は神殿で余生を過ごすと宣言している。
貴族令嬢の人生を奪ったことになるのだから、イーラは殺人罪で処刑されるかもしれない。少なくとも子爵家へ戻ることはないし、ジャコモの婚約者になることもないだろう。
「僕がイーラ嬢に婚約を申し込まなければ良かったのだろうか……」
「そのときは学園卒業後も子爵家に居座った彼女が、嫁いできた男爵令嬢に危害を加えただけではないかしら。ご自分の美しさに自信があったイーラ様には、義兄のアルベルト様を諦めるという選択肢はなかったのですもの」
「……」
「ねえ、ジャコモ様。私、貴方はイーラ様の想いを知った上で、義兄への不毛な恋心から救おうとして婚約を申し込んだのだと思っていましたのよ。だって、思うわけないじゃないですか」
義妹が傷害事件を起こしたため、アルベルトは学園を自主退学した。
婚約を解消された後も子爵令息は男爵令嬢を愛していて、元婚約者が神殿へ入るのなら自分も神殿に入ると言っている。
彼の父親もイーラと縁を切り、彼女の母親とも離婚していた。
「あれだけイーラ様を見つめていながら、ご自身のお気持ちに気づいていらっしゃらなかっただなんて。あれだけイーラ様を見つめていながら、彼女の視線の先を辿ることもなかっただなんて!……ねえ、ジャコモ様。貴方は嫉妬に狂う私を嘲り罵られましたけれど、貴方のほうが狂った恋をなさっていたのではありませんの?」
扇に隠されてカロリーナの口元は見えなかったけれど、婚約者の男爵令嬢さえいなくなれば義兄を自分のものに出来ると思ったイーラ様も狂った恋をなさっていたのではありませんの? そんな言葉がジャコモには聞こえていた。
「ねえ、ジャコモ様。私には新しい婚約者候補の釣り書きが寄せられています。はっきりと決まってはいませんが、良いなと考えている方がいるのです。ですからね」
噛んで含めるようにカロリーナは言う。
「貴方と再婚約したいだなんて、思うわけないでしょう?」
<終>