幽霊とゲリラ豪雨と三島由紀夫
空から不快なゴロゴロという音が聞こえ、肌にじっとりと湿気がまとわりつき、大雨の予感がそこかしこに現れ、これはくるなと思い、私はいち早く近くのカフェに入ることにした。私の予想は見事に的中し、ものの数分で一帯は水浸しになり、地面はしぶきを上げ、人々は軒下に逃げいていく。私は窓側の席から、そのような風景をコーヒーとサンドウィッチを口に運びながら眺めた。私の後を追うように次々と客が避難して入って来るが、どれも髪と肩を濡らし、彼らが開けた扉からは雨の臭いと、むあっとした空気が滑りこんでくる。たちまち満席となった店には、落ち着きは無く、避難民の安堵と興奮が場をざわつかせていた。
店内に流れるバッハの音楽を聴きながら、自身の判断の速さと的確さにうぬぼれを心地よく感じ味わっていると私は何かに気付いた。激しく降る雨の中に傘もささずに立ちすくんでいる男がいる。その男はグレーのスーツに身を包んで背中をこちらに向けているが、雨に打たれているにもかかわらず濡れた様子もなく、ただ歩道の脇に立っているのである。その男のそばを傘をさした会社帰りの女性が足早に横切るが、全く気付かない様子だ。私は不安を感じ店内を見渡したが、あの男の存在に気付いている人はいなく、黙ってスマホの画面を睨んでいたり、ひそひそとおしゃべりに興じている人達しかいなく、私一人だけがこの異変に関心を持っていた。
(彼は実在しているのだろうか?)
こう疑問が浮かんだが、見えているのに実在しない事なんてあるのだろうか?そもそも見えるものを実在とし、見えないものを実在しないなんてそんなこといったら、今私が食べているサンドウィッチのパンとパンに挟まる具のキュウリさえ実在しないことになる。では、確かめればよいのではないか。サンドウィッチを食べるようにあの男の前に行く行動をとればいいのではないか。だが雨の勢いは激しいままで、車が通る度しぶきを周囲にまき散らし、風も強く吹いていたし、くわえて私は傘を持っていなかった。私は車道を挟んだ向こう側の男を見つめ続けるしか他なかった。
学生の頃、幽霊が見えるという女がいた。私は単なるかまってちゃんだと思って取り合わなかったが、彼女もこんな風に見えていたのだろうか?その女はよくタバコを吸う女だった。アキ・カウリスマキの映画を好み、三島由紀夫を熱烈に愛する変わった女だった。ある日私は煙草をやめるように言ったが、彼女は幽霊と童貞を遠ざけてくれるからやめないと語った。幽霊はタバコが嫌いなのかと聞くと、どうやら煙が苦手らしく幽霊に煙を吹きかけると顔をしかめて逃げていくそうだ。それって普通の人間もそうだろ?と私がつっこむと、どっちも一緒でしょと彼女は妙に悟った感じで言うのを私は思い出し、急に胸を締め付けられるほどの懐かしさに襲われた。別にその女とは親しい関係にはならなかったが、今まで一度も思い出しもしなかった他愛もない場面が突如と蘇ったことに驚き、自分自身を疑い、動揺した。もしかしたら、あの頃の自分は彼女の事好きだったかもしれない。
そんなことを考えながら私は窓の外を見ると、まだグレーのスーツの男は大雨の中佇んでいた。私はその淋しげな背中に同情を感じた。私は今人生の中盤に差し掛かろうとしている。身の回りには、アキ・カウリスマキの映画を好む女はいなく、三島由紀夫どころか小説すら読む人間はいない。マーケティング映画とビジネス書に占領された世界で生きている。私は人生に退屈していた。雨の勢いは次第に落ち着き始めていた。気のせいか、グレーのスーツの男の姿が薄くなっているような気がする。雨が止んだら、きっと彼も消えてしまうかもしれない…。
「三島は肉体と精神を高い次元で統合しようとしたの」
女は三島の評論の「太陽と鉄」の感想を私に体を寄せながら言った。当時の私にはその思わせぶりな意味を解読できなかった。あの時、私がその意味を理解し彼女を抱いていたら、今とだいぶ違う人生を歩んでいたかもしれない。マーケティング映画とビジネス書の世界ではなく、アキ・カウリスマキと三島由紀夫の世界に。