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周辺の施設やお店などの説明をしてもらいながら、私鉄で数駅。
そこから徒歩で数分。
いくつか建ち並ぶ中で、一番高くて綺麗なマンションに、一樹くんは入っていった。私も緊張しながら後に続く。
エレベーターは最上階まで昇っていく。
聞いていた住所に違いなかったから、私は何の疑問も持たずに彼についていった。
カッコよくて紳士的で頼りになりそうな従兄は、私が知らなかっただけで本当に親戚なのだと。
あのタイミングで現れて私に声をかけたのも、彼なりの理由や都合があったのだろうと。
カードキーで開錠し、ドアを開けて私を中に入れる。
お邪魔します、と言いながら玄関に足を踏み入れて初めて、何かおかしいと思った。
綺麗すぎる室内。
足元に、靴は一足もない。シューズボックスの上にも、何も置かれていない。
照明のついた廊下は、真っ白な壁に木目調の床。
開け放されたドアの向こうに、奥の部屋が見える。何にも遮られず、日が差し込んでいる。
物音もしない、静かな部屋。
……生活感が、まるで無い。
後ろで玄関の戸が閉まり、「上がりなよ」と促す声。私は言い知れぬ何かを感じたまま、ゆっくりと靴を脱いで、綺麗な床に足を乗せる。
「花乃?」
「……あの、叔父さんと叔母さんは?」
指し示された方向に、リビングダイニング。テーブルやソファなどの家具はある――けれど、部屋全体は装飾も何もなく無機質。システムキッチンにも、何も物が置かれていない。
それに、家族三人が暮らすにしては、狭すぎると思う。
後ろから、変わらず穏やかな声。
「いないよ」
「外出?お仕事?」
「いや、いないんだよ」
おそるおそる振り返る。
見上げた従兄の顔は、やっぱり柔らかく微笑んでいる。
花乃、と優しく呼ぶ声が、怖かった。
「今日からオマエは、悪魔と二人暮らしするんだよ」
「……え?」
掠れた声が出た。
眼前の微笑みは、変わらない。
私の恐怖と混乱に気づいてか気づかずか、同じ調子で話を続ける。
「オマエの部屋はそっちの広い方。もうひとつは一応オレのだけど、ほとんど使わないから好きにしていいよ。荷物来るの何時だっけ?」
「え、夕方、だけど……あの」
「結構時間あるな。先に買い物行こうか。そろそろ店も開くだろ」
「ち、ちょっと待ってよ」
さっきなんて言った?
悪魔と?
二人暮らし?
どちらも頭に入ってこない。この人は何を言ってるの?
「状況が分かんない。ここには一樹くん……」
「一樹でいいよ」
「独りなの?叔父さん叔母さんがいないって、どういうこと?」
だって、私は父の指示に従った。確かに当日まで挨拶すらもしていなかったけど、勝手にあれこれ進めているだろう父に、私は何も訊けなかった。
知らない従兄の存在だって、父が嘘を吐いているとも思わなかった。意味がないから。
初対面のこの人についてきたのだって、向こうが先に私の名前を呼んだから。向こうは私のことを知っていて、話に食い違いもなかったから。
「そのままだよ。オマエが預けられる予定だった叔父叔母は、最初から存在しない。全部オレが設定したんだ」
「設定……?」
「言ったろ、オレは悪魔だ。オマエに会うために、今まで工作してきたのさ」
あくまで爽やかに言ってのける。
悪魔って、性格が悪いとかの比喩?
だとしても、この好青年がそんな風には見えない。外見も立ち居振る舞いも、悪意なんて微塵も感じられない。危害を加える素振りもない。
だからこそ、余計に怖い。
「ふ、ふざけないでよ。意味が……目的が分からない。何言ってるの?」
「ふざけてない。目的というなら、そうだな、オマエを食うためだ」
「は?」
「オレはオマエを食うために、ずっと準備してきたんだ。あ、食うのは今すぐじゃないけどな」
鼓動が速まるのを感じる。
思わず後ずさるけど、後ろにあるソファすらも怖い。
「……なんで」
なんでこんなことになってるんだろう。
せっかくあの家から出られて、
あの人たちから離れられて、
新しい環境で新しい生活ができると思ってたのに。
悪魔だとか意味の分からないことを言うこの男と、これから一緒に暮らさなきゃいけないの?
豚みたいに肥えさせて食べるために?
「花乃」
強張っていた身体から力が抜けて、リビングの床に座り込んだ。フローリングがひんやりとする。
泣きそうになるのを隠すため下を向くと、自称悪魔が驚いた声を出した。
「ごめん、最初からいろいろ言い過ぎた」
気遣うような言い方をするのも、解らない。
「細かいことは後でちゃんと説明するから、とりあえず、オレはオマエを大事にしたいんだってことだけ分かってよ」
「……悪魔なのに?」
「悪魔として、大事にする。時期が来るまでな」
時期って私を食べる時期?
やっぱり、食べるために育てるってことじゃん。
滲んだ視界に、男がしゃがみ込むのが映る。
距離を空けたまま、私の様子を見守るように。
悪魔なら、私を食べるというなら、今すぐ殺せばいいのに。なんで、私を気遣う素振りを見せるの。
「……一樹」
「うん?」
なんで、駅で出会ってから今の今まで、ずっと優しい声をかけるの。
「証明してよ。悪魔だって……人間じゃないってとこ、見せてよ」
もし本当に悪魔なら、諦めがつく。普通の高校生活を送るのは無理だって。逃げた先も地獄だったんだって。
性格がただ『悪魔的』だというのなら――同じだ。どちらにしても私の人生は終わっている。
「それでオマエが納得できるんなら」
絶望を抱きながら、顔を上げた。
私を見つめる温かい瞳が、一瞬キラリと光った。
そして、黒髪から角が生えた。緩やかに曲がった、左右対称の長い角。
背中に、コウモリみたいな黒い羽根。耳が尖って、瞳は妖しげな赤。
「こんな感じ?あと尻尾もか?」
目の前の好青年が、想像でき得る悪魔の姿に変わった。
体つきや服装、柔和な笑みはそのままに。
何度まばたきしても、目を擦っても、変わらない。幻覚でもない、はず。
「納得した?あ、これ人間のイメージな。別に普段こんな姿してないから」
そう言って、さっきまでの、普通の人間の外見に戻った。
もちろん、驚いた。
本当に彼が人間じゃないということ。
一連の変化が、あまりに滑らかで自然だったこと。
一般に想像する悪魔の姿が、恐ろしいはずなのに、なぜだか全く恐怖を覚えなかったこと。
ずっとそう。
彼の優しさは、表面だけ取り繕ったものとは思えない。私を騙そうとする悪意が見えない。
今まで家の中で纏わりついていた、チクチクと刺さるような視線を、息の詰まるような冷たい空気を、今日は一度も感じていない。
「……本当だってのは分かった」
諦め、かもしれない。
もうどうでもいいや、って気分。
でもそれは、あの家にいたときとは違う。心ごと死んでしまえばいいという自棄、じゃない。
悪魔に食われるのでもいい。
信用はできないけど、
あそこにいるより、何倍もマシだ。
「とりあえず、話は聞く」
そう言うと、悪魔はにっこりと笑って、立ち上がった。
差し出された手をそっと握ると、今までに触れた誰よりも温かかった。




