1-3
事前に用意していた手荷物を持って、私は早朝に家を出た。
まだ全員眠っている時間。
起きていたところで、話すことは何もない。見送りも、表面上の言葉も、私には必要ない。
昨夜ですら、私の引っ越しについての話は、ほとんど無かった。
父が一度声をかけてきたのに驚いたくらいだ。
「――の息子も同じ高校に通うらしい」
なんて唐突に言ってきたから、私は聞き流しそうになった。
「え?」
「従兄の一樹くん。同い年だったな」
「いつきくん……?」
「覚えてないか?まあ、しばらく会っていないから仕方ないな」
それだけ。
よろしく伝えてとも言わず、父との最後の会話はそれだけだった。
話しかけられたことに驚いていて、内容を気にしていなかったのを今思い出した。
駅に向かって歩きながら、その従兄について考えた。
私の曖昧な受け答えは、父との会話に対する拒否反応だけじゃない。
本当に、その従兄について思い出せなかった。
一樹くんという名前に聞き覚えもないし、叔母夫婦に子供がいたのも知らなかった。『しばらく』どころか、一度も会った記憶がなかった。それとも、私が認識していなかっただけで、親戚の集まりにはいたのだろうか……?
というか、同い年の従兄と一緒に暮らすって、どうなんだろう。
ろくに話したこともない、ほとんど初対面の男の子と、ひとつ屋根の下で生活するの?親戚とはいえ、私も一応思春期の女の子だし、抵抗あるんだけど。
父はそれについて何か……思うわけないよね。私を追い出しさえすれば、どうでもいいんだ。
せめて優しい人だったらいいなあ、なんてぼんやりと思う。
従兄とどうこうなるとは思えないけど、毎日会うなら仲良くしたい。
見た目もカッコよかったら、とも思うけど、女の子を頻繁に家に呼ぶような感じなら嫌だな。そしたら、また居場所のない人生に戻ってしまう。
友達はいたけれど、恋愛とは無縁だった。自分に自信が持てないのと、人を心から信用できないのと、何より家での自分を知られたくなくて、できるだけ人と深く関わらないようにしていた。たまの告白も、嬉しくはあったけど、すべて丁重に断ってきた。
だから別に、恋人が欲しいってわけじゃない。
私が欲しいのは、誰か、頼れる相手。
悩みを話せて、受け止めてくれて、私をちゃんと見てくれる人に会いたい。
その従兄、『一樹くん』を介してでも、誰かに出会えたら、いい。
……期待はしないって決めたんだけどな。
電車を乗り継いで、2時間ほどで目的のターミナル駅に着いた。高校、および居候する家の最寄りとなる駅へは、さらにもう一本乗る必要がある。叔母夫婦との待ち合わせもそこだったけど、誰にも会わず家を出るために始発に乗ってきたので、予定よりかなり早く着いていた。
途中、ファストフード店で朝食を摂ったけれど、待ち合わせ時間はまだまだ先。どこで潰そうかと考えながら、改札を出て立ち止まった。
「花乃」
すぐに、名前を呼ばれた。
休日の朝、まだ人の少ないホームで、はっきりと聞こえた。
ただし聞き覚えのない声。
振り向くと、少年が一人、改札を抜けてきた。
私を見て歩いてくるので声の主と分かったけど、やっぱり知らない人だった。少年というよりは好青年って感じ。高校生くらいだとは思うけど。
「やっと会えた」
「あの……?」
「一人で大変だったろ。荷物貸しな」
何気ない動作で、私の肩からバッグを外して持っていく。こっちだよ、と示すのは、私が向かうはずの路線。
私のことを認識していて、状況も行き先も解っている、同世代の人物。
そこでようやく、昨夜聞いたばかりの名前が頭に浮かんだ。
「あ、えっと、一樹くん?」
「ああ」
柔らかく微笑む端正な顔に、ドキッとする。なんというか、やや背が高くて細身で、派手ではないけど爽やかで、正直カッコいい。同い年のはずなのに、クールで大人びた雰囲気。
こんな従兄が親戚の中にいたら、絶対気づくはずだ。なんで知らなかったんだろう。
「あの、ごめんなさい、早く着きすぎちゃって」
「大丈夫。ちょっと驚いたけど。まっすぐ家行っていいんだよな?」
「うん。荷物、ありがとう」
「いいよ。朝から疲れたろ。でももう少し頑張って」
口調は少しぶっきらぼうだけど、声色は優しい。
歩きながらときどき私を見る表情も、ずっと柔らかい。
その容貌も相まって、初対面の従兄は、私にずいぶん好印象を与えた。
お陰で、会話の端々に漂う違和感に、まだ気づかなかった。
もう戻らないつもりで、ずっと離れたかった家を出て、鍵も郵便受けに入れてきた。
それだけで、心が軽く晴れやかだったんだ。