おじさん、美玖が彼女になってあげよっか?
「今回もダメだったか……」
不採用の通知と共に送り返されて来た履歴書を見て、ため息が出た。
とある事情で、新卒以来12年も勤め上げた会社をクビになり一年が経つが、いまだに再就職の目途が立たない。
「はぁ……」
貯蓄はあるのだが、いつまでも無職のままというわけにもいかない。
とりあえず正社員は一旦忘れ、雇ってくれる可能性が高そうなアルバイトでもするべきか。
それですら落とされるかも知れないが……物は試しである。
俺はポスティングで入って来ていた求人広告を眺め、適当にスーパーの品出しを選んだ。
「もしもし……あの……谷垣と申しますが求人広告を見てお電話差し上げたのですが……」
『はい』
「面接……やって貰えますかね?」
『大丈夫ですよ。いつ来れます?』
「いつでも大丈夫です」
『じゃあそうですね……今日でも良いと言えば良いんだけど……実は明日一人面接が入っているんですよね。バラバラにやるのも面倒なので、こちらとしてはその子と一緒にやりたいです。ですので、谷垣くんが構わないのであれば明日の午後3時に来てください。面接は店長の僕が行います』
「あっはい。全然大丈夫ですので、それじゃあ明日の午後三時でお願いします」
電話を切って俺は安堵の息を吐いた。
「……明日を待つか」
ゴロンと横になり瞼を伏せる。
まだ夕方にもなってはいないが、ここ最近ずっと就職活動で昼も夜もなく動き回っていた。
疲れていた。
うだるような暑さに汗が滲んだが、すぅっと眠ることが出来た。
季節は7月。
夏だ。
※
太陽がまだ昇りきっておらず、外はうっすらと暗く空気はひんやりとしている。
そんな朝の4時に目が覚めた。
随分と早く起きてしまったものだと苦笑しつつ、面接まで時間があるので、俺は昼までぼーっとして過ごした。
本格的に動き出したのは昼飯を食べ終わってから。
髭を剃って履歴書を書き、準備を万端にして午後の2時を過ぎたころに家に出た。
スーパーまでは徒歩30分くらいで遠くは無いが、早めに着いてもなんなので、ぶらぶら散歩しながら向かった。
丁度良く2時45分ころに到着。
「あのー面接の予約を取っていた谷垣と申しますが……」
「店長から聞いてたわよ。あそこの扉からバックヤードに入って、奥に事務室あるからそこで待っててだって」
初老の女店員にそう言われ、俺はバックヤードへと入った。
天井まで届きそうなほどに積み上げられた段ボールたちの横を通り、奥に見えた事務室という表記がある部屋に入る。
すると、夏だというのに長袖を着た、小柄で細く可愛らしい顔の女の子が椅子に座っていた。
店長……では無い。
電話で店長と名乗ったのは男だった。
それにそもそも、見た目がどう見ても十代半ばだが、こんな年齢の管理職などまずいない。
「あっ……」
女の子は俺に気づくと驚いて、それからすぐに縮こまってもじもじと俯いて前髪をいじり始めた。
「てんちょーさん……ですか?」
「へ……?」
「あああ、あの私今日面接の予約してた三坂美玖で、あの、その……」
そういえば、俺のほかにも面接に来る子がいるとか電話で言われたな。
この子がそうなのか。
社会経験など無さそうな子ではあるが、それにしても俺を店長と間違えるか普通?
こんなくたびれたスーツ着た35歳のおじさんが店長に……いや見えなくもないか……というか、自分で言うのものなんだが実際いそうではある。
「……俺は店長ではない。面接を受けに来たおじさんだ」
「えっ……?」
「なんだその顔は。おじさんがスーパーの面接に来るのは駄目か? 何か問題か?」
「ぷっ……」
なぜか笑われた。
若い子の笑いのツボが良く分からないが……なんといえばいいのか、それが分からないということは、俺は間違いようもなく”おじさん”だ。
俺は自分のことを”おじさん”と言ったが、実は心のどこかでは、まだ35歳は若いのではないかと思っていた。
しかし世間的に35歳は完璧に”おじさん”なのである。
「人のことを笑うのは感心しないな。相手の気分を害する行為は失礼だ」
「おじさん怒ってるの……?」
「いいや、子どもの些細な言葉に怒ったりしない」
「……どう見ても怒ってるじゃん」
「何か言ったか?」
「なんでもないでーす」
三坂美玖は袖で口元を隠しつつも、くすくすと笑っていた。
馬鹿にされているのは十分に理解したが、これ以上何かを言っても大人げないだけな気もしたので、俺は黙ることにした。
数分ほど沈黙が流れ、店長がやってきた。
「……お待たせしました。僕が店長です」
壊れかけの眼鏡をかけた50歳くらいの男性だった。
電話越しの声を聞いた限りでは、俺より少し上くらいな感じだとは思っていたので、まぁ大方予想通りだ。
「昨日お電話差し上げた谷垣です。谷垣 正直です。こちら履歴書になります」
斜め45度の見事なお辞儀をして履歴書を両手で渡すと、隣でそれを見ていた三坂美玖が慌てて俺の真似をし始めた。
「は、はじめまして三坂美玖です。あの……えっと履歴書がこれです」
やはり子どもだ。
俺のようにスムーズな挨拶を行えてはおらず、社会経験のなさが露骨に出ている。
これはこの子落ちたかもな……等と俺が考えていると、店長が妙に優しい笑顔で三坂美玖の履歴書を受け取っているのが見えた。
若いと言うだけで甘く見て貰えて――いや待て、俺はこんな小娘相手に何を競争意識を抱いているのか。
落ち着くんだ。
気持ちを落ち着けて冷静になれば、こんな子どもと張り合う必要は何も無いことは容易に分かる。
「はい、それじゃあ面接を始めますね。お二人とも座って」
言われた通りに座ると、面接が始まった。
アルバイトの募集だから当然と言えば当然だが、どうにも肩透かしな軽い感じの雰囲気で進められた。
三坂美玖はあたふたとしていたが、見る限りに働くということが初めてなのだろうから仕方がないな。
「若い子は貴重だから、美玖ちゃんは採用でいいかな」
「えっ! 本当ですか!」
「いろいろ大変なようだしね。履歴書見ると今年高校入ってすぐ辞めたようだけど、何かワケがあるんでしょ?」
「その……色々と事情というか……」
「家族構成見ると母子家庭のようだし……健気だねぇ」
なにやら三坂美玖には色々と事情があるらしく、遊ぶ金欲しさでなんとなくバイトに来た、というわけでは無さそうだ。
まぁともかく、一足先に採用を勝ち取られてしまった。
次は俺の番だ――と言いたいが、経歴が経歴ゆえに厳しい現実が待ち受けているのは分かっている。
「それで……次は谷垣くんだね。受け答えもしっかりしているし、経歴もとても立派……」
俺は誰が見ても思わず唸ってしまうような経歴ではあるのだが、残念ながらそれは事件が起きていなければ、という注釈がついた。
「……国立大学卒業後に新卒でT柴に入社。営業部に配属され、東南アジア支部を経てアフリカ支部とヨーロッパ支部にも異動経験があって……そして三年ほど前に経理・財務部に?」
やはり、そこを突かれてしまうのか。
「君が財務部にいた時期に、世間を騒がせた大ニュースがあったね。毎日のように報道されていたから、僕のような何の変哲もない一般人でも知っているよ。巨額粉飾決算事件」
「……」
「一流大企業で起きた戦後最悪の不正事件とニュースではやっていたけど……この経歴だと君も関わっていた?」
「……」
「何か事情があるのであれば、できれば教えて欲しいな。いくらアルバイトの採用と言っても、何かをしでかすかも知れない人間は雇えないよ。これはうちだけじゃなくて、どんな場所に行ってもそうだと思うよ。あれだけの騒ぎこの国で知らない人間の方が少ない。……それぐらい、君のような人間が分からないということもないよね?」
それぐらい理解していた。
今まで書類選考で落とされ続けて来た理由も、まさにその事件が影響している。
俺は傍から見れば何かをやらかしそうな経歴だ。
再就職が厳しいのは分かっていた。
ついでにT柴の上層部からも嫌われ、徹底的に潰すという宣告も受けている。
『――全くやってくれたもんだよ。まさか告発するなんてね。……もうこの業界で君が生きていけないように手をまわした。いや、経済団体に圧をかけ例え他業種であっても締め出すようにする。これから先この国でマトモな場所で働いて生きていけると思うな』
『せっかく目をかけてやったというのに。何の為に君にいくつもの海外支部を渡らせたと思っている? 世界市場で更なる躍進を見据えた幹部候補と目していたからだ』
『粉飾に手を貸したのならば、君には最年少役員というポストを用意していたのだが……我々を裏切ってどんな気分だ?』
『正義のヒーローにでもなったつもりか? 勘違いも甚だしい。君はむしろ悪魔だ。例え我々の手が届かないような場所の人間であっても、君を訝しみ疎み疑う。大騒ぎの渦中の部署にいた事実しか人々の目には映らない。君は正義のヒーローなどではない』
何十人もの役員の前に立たされ、そこで色々なことを言われた。
まるで裁判のようだった。
思い出すだけで頭が痛くなってくるが……俺は正しいことをした。
間違ってなどいなかった。
仮に苦しくなったとしても、T柴は終わりになんかならない。
再建ができるだけの体力がある企業であったし、それに国だって見捨てられないほどの規模だ。
事実として、国家の支援も受けることが決まったとつい最近に報道もあり、瓦解することなく存続が確定している。
T柴は今後クリーンさを求められる。
俺に捨て台詞を吐いた役員たちも、あと数年は力を保ち続けはするだろうが、徐々に入れ替わりが始まり遥かな未来では駆逐されるハズだ。
時間はかかるかも知れないが、膿は確実に取り除かれる。
これから先の世界市場で戦う為にも、クリーンさはとても重要であり、従来のグレーなビジネスは今後の市場では弱みにしかならない。
進出先の国の政府から後ろめたい部分をネタに脅迫を受けたり、あるいは自国産業を守る為の締め出しの理由とされてしまう可能性も高い。
明確な技術差や影響力があればまた別だが、昨今は新興国も発展し、それらの格差の境界が非常に曖昧となっている。
日本企業というだけで黙らせることは難しくなった。
だからこそ、告発は俺なりにT柴の未来を考えての判断である。
だが、そうして社の為を思い行動した俺自身の人生はおかしくなった。
描いた未来は理解されなかった。
保身を考え過去の栄光に縋り、自分の代だけ何事も無ければ……ということしか頭にない人たちには届かなかったのだ。
「……谷垣くん?」
「……」
「何か言って貰わないと僕も困るんだけど……」
このまま黙秘を続ければ、不正の片棒を担いでいたと暗に認めたように見える。
経緯はきちんと話すしかない。
信じて貰えるかは分からないが、それで駄目なら……その時はその時だ。
「私が……」
「うん?」
「私が粉飾決算を告発しました」
※
「はぁ……」
スーパーの外に出てため息が出た。
話すべきことを全て話したら、店長は悩まし気に『少し考えさせて欲しい』と言った。
俺が本当のことを言っているのか、それともウソを言っているのか分かり兼ねている、という表情だった。
駄目かも知れない。
「……他に面接にこぎつけられる場所があったとしても、アルバイトだろうが似たような反応されるんだろうな」
視線を下に落とすと、くたびれたスーツの皺が目についた。
しばらくクリーニングにも出していない。
貯蓄はあっても働く先が見つからなければ減っていく一方なのだから、無駄遣いが出来ないと思って節約中だ。
「おーじさんっ」
少し休んでから帰ろうと思い店の軒先にある長椅子に俺が座ると、ふいに三坂美玖から声を掛けられた。
「……何の用だ?」
「べつに。……これあげる」
三坂美玖は俺の隣に座ると、いかにも安そうな棒アイスを差し出して来た。
「なんだこれは」
「帰り際についでに買ったー。あっ私の分もあるから別におじさんの為だけに買ったんじゃないからね」
「……なぜ俺にこれをくれるのかは分からないが、それはさておき勤め先に貢献しているように見せるのは重要だ。購入はいい判断だ」
「よくわかんないけど、私は頭良くないからおじさんが考えてるような理由で買ったんじゃないよ?」
「……じゃあどうして?」
「私がアイス食べたかったのと、あとなんかおじさん大変そうだからかわいそだと思って」
「10代の子に心配されるほど俺は落ちぶれて見えるか?」
「……くたびれてるなぁっては見えるけど、落ちぶれてはないと思うな。……よくわかんないけど、正しいことをしたら前の場所を追い出されたって感じなんでしょ? だからかな。おじさんはこうなんていうのか、違うよね。私が知ってる大人と全然違う」
「まぁそれはそうだろうな。普通の大人は俺と違ってもっと世渡りが上手だ。笑っていいぞ。アホな正義感で突っ走って底辺無職になったおじさんだってな。……というか、さっきの話で俺がどんな事件に関わっていたのか分からないのか? ニュースとか見ないのか?」
「ニュースみないよー。っていうかうちテレビ無いし」
「テレビが無くてもネットでもニュースは流れるだろ。連日連夜続報が出るたびにトップニュース扱いで一覧が埋め尽くされていた。スマホくらい持ってるだろ?」
「……ないよ」
「は……?」
「スマホとか私持ってないもん。……お母さんが駄目だって」
そういえば、家庭の事情が云々と三坂美玖は面接で言っていた。
しまったと思った。
今のは完全に俺の不注意による失言であった。
T柴にいた頃なら絶対にこんなミスはしなかったが、退職してから数か月が経っていることもあり、だいぶ気が抜けているようだ。
「……悪かった」
「なんで謝るの?」
「持ってるのが当然って言い方で嫌な気分になっただろ。だから謝るんだ」
「変なおじさん」
「変じゃない」
「変だよ。大人は子どもに謝らないものだよ」
「悪いことをしてしまったら、言ってしまったら、それが誰であれ謝るべきだ。そこに大人も子どもも関係ない。その誠実さが”信用”と”信頼”を産む」
「やっぱり変。まーでも良い感じの”変”だなって思うかな?」
「……変に良いも悪いも無いだろ」
「あるんだなー美玖的には」
最近の若い子は本当に良く分からない。
ただまぁ、慰めてくれているのだろう、ということだけは伝わって来る。
10代半ばの子に慰められる30代半ばのおじさん……なんとも情けない絵面だ。
というか、三坂美玖の一人称が”私”ではなく自分の名前になっている。
こっちが素なのか。
「……ねぇおじさん」
「なんだ」
「おじさんって独身?」
「急になんだ本当に」
「ケッコンとかしてるのかなーって」
若い子が恋がどうとか愛がどうとか言う話が好きだ、というのは分かるし、三坂美玖の年齢と性別を考えればそういった事柄に興味を持つのは普通だ。
しかし、俺は年齢=彼女いない歴であるし、そもそも仕事一筋で恋愛など考えたことすら無かった。
面白い話も為になるような話も出来ない。
「はぁ……」
「答えてよー」
「……していたらもっと必死に就活してる。さっきも土下座とかしていたかもな。嫁じゃなくて彼女がいても同じだな」
俺は適当なことを言うと、すっと立ち上がった。
厳しいのは分かっているが職探しを再開しなければならないし、それに何より若者とのコミュニケーションを続けるのは疲れる。
「じゃあ俺はもう行くぞ――」
「――待って」
立ち去ろうとした俺の服の裾を、三坂美玖が掴んで来た。
なんだと言うのか。
「放せ。俺は次の仕事を探さないといけないんだ」
「まだここの結果出てないじゃん」
「考えさせてくれ、とは言われたがどうみても無理だろ。見切りをつけて次にいかないとな」
「……簡単に見切りなんてつけちゃダメだよ。そんなことされたら……悲しくなるもん。捨てられたって思っちゃうもん」
「……何の話をしている?」
話がかみ合っていないような、そんな感じだ。
三坂美玖は何を言いたいのだろうか?
分からない。
俺が「はぁ」と深くため息を吐くと、三坂美玖は突然にこんなことを言った。
「……おじさん独身なんだよね。美玖が彼女になってあげよっか?」
さすがの俺も混乱して硬直した。
「おじさん可愛いね。固まっちゃった」
「……わけの分からないことを」
「美玖的には本気なんだけどなー」
何度も言うようだが、最近の子は本当に分からない。
一体どういう思惑があるのか。
分からない。
「……いいでしょ。ね?」
三坂美玖の目には涙が溜まっていた。
詳細は知らないが家庭の事情が大変そうなのも鑑みるに、もしかすると何かを抱えており、助けを求めているのかも知れない。
しかし、正直を言って俺はもう面倒ごとに首を突っ込むのはこりごりだ。
「……助けてよ。美玖は辛いの……苦しいの……」
震える声で三坂美玖がそう言って来た。
俺の推測通りこの子は何かを抱えているらしく、助けを求めている。
人としてなんとかしてやりたい気持ちはあるが、T柴の時と同じで、どうせまた俺にとってはロクな結末にはならない気しかしないのだ。
世の中はそういうものだと身を持って知っている。
だから、俺は申し訳なさを感じつつも断ろうと口を開くが――
「……分かった」
――出て来た言葉は了解だった。
俺は馬鹿だ。
どうにも馬鹿だ。
しかし、分かってはいても見捨てることなんて出来なかったのだ。
笑いたければ笑えばいい。
おかしなヤツだと後ろ指さされるのはもう慣れている。
※
さてそれから。
俺はひとまず泣きじゃくる三坂美玖の背中をさすりながら、家まで送ってやった。
すると、木造のアパートが見えて来た。
築何十年になるかも分からない、今時こんな建築物が存在するんだなと思ってしまうぐらいボロボロなヤツが。
「美玖の家はここ……お母さんは多分もう仕事に行っていないけど……」
「母親は何の仕事をしているんだ?」
「……えっちなやつ」
今日二度目の”しまった”と思った。
「美玖は違うから……お母さんと違うから……そういうのしてないよ……」
三坂美玖は唇を噛み締めて俯いた。
「……すまなかった。察するべきだった。言わせてしまった」
「ううん。おじさん悪くないよ」
「……気を使ってくれてありがとうな。それで、助けて欲しいってのは具体的にどうしてほしい?」
「……美玖はね、お母さんから助けて欲しいの」
「母親から?」
「……見て」
三坂美玖は長袖の裾をまくった。
そこには夏だと言うのに長袖である理由が隠されていた。
切り傷に火傷……”虐待”の証がそこにあった。
「酷いな……」
「お母さんは機嫌が悪くなるとすぐに美玖の腕とか足を切ろうとしたり、熱いお湯をかけて来たり……」
「児童養護施設に連絡が必要そうだな」
「そんなの意味無いよ」
「……は?」
「前に助けて欲しいって交番に行ったことあるの。そしたら、施設の人が来ることになったんだけど、その施設の人をお母さんがえっちに誘ってそれで何も問題ないって言い出して……」
規模という点ではT柴と比べるまでも無いほどに小さいが、救いが無いという性質の極悪さではこちらに軍配が上がりそうだ。
T柴の件では取れた外部を頼る方法が、三坂美玖はもう封じられているからだ。
と、その時だった。
三坂美玖の自宅から長い黒髪の女――母親が出て来た。
「美玖じゃん。帰って来たの?」
「お、お母さんまだいたんだ……」
歳は若くも見えるが……よく見れば恐らく俺と同じくらいだ。
「まだって何その言い方」
「ち、違うよ別にそういうんじゃなくて……」
「今から仕事に行く母親に向かってそういう口の聞き方ってある? 舐めてるでしょ? 菓子代くらいは渡してやってるのに我儘ばかりで面倒なメスガキが。……こっち来い」
「いやっ! やめて!」
三坂美玖が母親に腕を掴まれたところで、俺はハッとして間に割って入った。
「やめろ」
「は? なにあんた?」
「この子を救いに来た者だ」
自分で言っていて顔が真っ赤になりそうだった。
もっと言い方というものがあるだろうに、焦った結果まるで子ども向け特撮の主人公みたいな台詞を口走ってしまった。
「警察ってわけじゃなさそうだけど……いい歳したおっさんがそんな台詞吐いて恥ずかしくない?」
「お、俺よりもお前の方がよっぽど恥ずかしいことをしているだろう。娘だろうこの子は。なのに虐待している」
「ちっ……面倒くせーのが来たな。その話はもう終わってるんだってば。擁護施設の人も問題無しって言った」
「言わせたんだろう。自分の体を使ってな」
「なんでそれを――まさか美玖あんたっ!」
黒髪の女は鬼の形相で美玖を見た。
美玖は震えながら俺の後ろに回ると、ぎゅっと服の裾を掴んだ。
反射で怯えて怖がっている。
体罰のほかに日常的に恫喝され続けて来たのが分かる。
「そうやって脅して、この子の体も心も傷だらけにして――」
「――うっせぇわ! いい加減にしろよ。だからその話はもう終わってんだっつの!」
「終わってない。虐待という罪は消えない」
「虐待じゃねーよ! ”しつけ”だっつの! いうことを聞かねーんだからしょーがねーだろ! このメスガキに客取らせようとしたのに、後生大事に処女守ってやりたくねーって言うんだから、分からせてやらねーと駄目だろ! 今のままじゃ金食い虫なんだよ!」
なんという女だ。
堂々と言った。
自分の娘に体を売らせるつもりだ、と。
「……自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「は? ガキは親の所有物だろ。どう扱ったって構わないっつーの。……体はもう傷だらけにしたけど、それでも美玖は顔が良いから売れる。単価下がるけど客一人あたり一万は取れる。それともなに、あんた美玖の人生を買う? そんなに救ってやりたいなら買えよ」
「……腐ってる」
「いいたい放題言ってくれんじゃん。でもあんたの方がヤバイんじゃない。美玖まだ未成年だしねぇ。あんたに連れ去られたって言えば捕まるのはあんただよ。ははっ」
痛いところを突かれた。
虐待の一件は既に終わったものとして一度処理されているからこそ、警察もそこは疑問を持たず、通報があれば悪者になるのは俺だ。
金で人をやりとりすると言うのは虫唾が走るが、しかし今は乗る他にはなさそうだ。
貯蓄はある。
多少であれば払える。
「……いくらだ?」
俺がそう問うと、三坂美玖の母親はニヤッと笑った。
「一億」
金額の大きさに思わず俺の顔が引き攣った。
なんだその金額は。
「なに驚いた顔してんの? 美玖には1人1万で1日最低10人は客取らせるつもりしてたから、1日で10万×30で1ヶ月300万1年12カ月でさらに×12で3600万。酷使しても5年は体持つだろうから×5で1億8000万。そこから服やら香水やらもかかるからそれ差し引いて……まぁ普通なら1億5千万は貰うのを5千万も値引きしてるんだから良心的な価格でしょ」
「その計算だと休み無しでやらせるつもり……だったのか? 何年も」
「当たり前じゃん。危ないとこからの借金がドンドン増えてくからさ、それぐらいやらせないと返せないんだよね」
「借金を子に背負わせるなんて正気じゃない」
「何回も言わせんなよ。ガキは親の所有物。だからどうしようが私の勝手。で、買うの買わないの? 私も今からが仕事だから早く決めて。この黒髪見れば分かると思うけど清楚系で売ってるから、遅刻とかしたくないんだよね。イメージ崩れるじゃん」
「一億……」
「あと五秒ね。ハイ五、四、三、二、一、ゼ――」
「――分かった」
相手の交渉術に嵌ってしまった自覚はある。
だが、この機会を逃してしまえば三坂美玖はもう救えないような、そんな気がした。
「ははっマジで買うの? 男気あるじゃん」
「……本当なんだろうな? 一億あればいいんだな?」
「払えればね」
「ならその時は署名しろ」
「署名? 何に?」
「婚姻届の証人欄にだ。未成年は親の同意が無ければ婚姻が出来ない。証人欄に一筆あれば同意したとみなされ受理される」
それは俺の頭が捻りだした解決策だった。
民法の規定では未成年が婚姻した場合、これによって成年に達したものとみなす、という規定がある。
成年扱いになれば親の権限は無くなり、あとは受理された後に頃合いを見計い離婚すれば、三坂美玖は晴れて自由の身となる。
ただ、未成年と婚姻を結ぶには親の一筆が必要なのだ。
「……ふぅん。救うってのはもしかして、美玖のこと本気で好きだからなんだ? 結婚したいってそーいうことだよね?」
どうやら三坂美玖の母親は無知なようだ。
運が向いている。
下手に知られていた場合、よからぬことを企まれハードルを追加される危険性があったが、そのリスクが無いのは僥倖だ。
「好きにとれ」
「なるほどね。ふふ、まぁいいよ。ただし、もちろんだけど署名するのは金を貰ってから」
「分割にはなるだろうが必ず払うが、それまでの間にお前がこの子をさらに傷つけないとも限らない。今日から俺の家に住まわせる」
「は? なに急に舐めたこと言ってんの?」
「手付金として明日一千万持ってくる。それならいいだろ?」
俺の貯蓄ほぼ半分だが、いまさら惜しい等という気は無かった。
救うと決めたのだから、それがたとえ俺自身を削る手段であっても使うだけだ。
「一千万そんなすぐに払えんの? ……ウソじゃないよね?」
「証拠を見せてやろう」
俺は鞄の中を漁ると、二つある通帳のうち一つを取り出した
銀行のペイオフ制度が一千万までということもあり、一千万を超えた段階で別の銀行にも口座を作るといったことをしていたからだが……とにかく俺は通帳を二つ持っている。
だが、見せる通帳は一つだけだ。
一億という金額を達成するには、普通に働くだけじゃ届かないのであって、最終的に自分でビジネスも考えなければならないが、そうなってくると元手が必要なのだ。
もう一つを見せてそれも全部、なんて言われたら困る。
とにもかくにも一千万を持っている、という事実だけ示せばいいのだから、俺は一冊だけ見せた。
「……ひひっ。本当に持ってんだ?」
「だから言っただろう。明日持ってくる」
「分かった。いいよ。今日からもう美玖連れてっていい。ただし、逃げんなよ? 連絡先も置いてけ。……約束破ったら許さない」
通帳の金額を見た途端に目の色が変わった。
分かりやすい。
だが、これぐらいガツガツしてくれた方が、俺としても予想がつきやすくて助かる。
お陰で三坂美玖を今日から保護出来ることになった。
※
「お、おじさん一千万円を明日って……それに一億って……ってか結婚って美玖の頭じゃ何がなんだかよくわかんないよ……!」
帰路の途中で、三坂美玖が取り乱してそんなことを聞いてきた。
俺はため息を吐いた。
「一度婚姻を結べば未成年でも成人になったとみなされる。そうなれば、お前は法的にも親のことを気にしなくてよくなる。……要するにお前を救える方法なわけだ」
「お金は? すごい金額なんだよ! くたびれたおじさんじゃ無理だよ!」
「……通帳に一千万って書いてあったろ。とりあず明日の分はなんとかなるし、それとは別に貯蓄もまだあるしな。前に勤めてたところは、それなりに良いとこだったからな。趣味も特に無かったから全部溜めてた」
「でもそれってつまりおじさんの全財産……」
「お前は黙って俺に救われていろ」
「どうして……どうしてここまでしてくれるの?」
「……助けてって言っただろ」
「それは言ったけど……」
「なら気にするな」
「するよ……気にするよ……こんなおっきなことになるなんて、おじさんにいっぱい迷惑かけるなんて思ってなくて……」
まったくもって三坂美玖の心境が理解出来ない。
助けて欲しいと言ったかと思うと、急に申し訳なさを感じると言い出した。
一体どうして欲しいのか。
まぁ、もう俺もここまで来たら引き下がることも出来ないのだから、嫌だと言っても無理やりにでも救うつもりだが。
「大したことじゃない。もう一度だけ言う。黙って俺に救われていろ」
「ずるいよ……そんなのずるいんだよ……そんなこと言われたら……嬉しくて……美玖もう駄目なんだよ……」
三坂美玖の泣きじゃくりがピークが迎えたようで、俺の耳では今の発言を半分も聞き取れなかった。
だが、嬉しいという単語だけは拾えた。
とりあえず救われる気はある、というのは伝わって来た。
「……そんなに泣くな」
「美玖は男の子じゃないもん……女の子だもん……泣いてもいいんだもん……」
「どうしたら泣き止むんだ? 悪いが俺は若者がどうすれば落ち着くのか分からん。だから言ってくれ」
「……だっこして、ぎゅーってして、あたま撫でて欲しいの。してくれないとずっと泣く」
どうにも幼い要求を突き付けられた。
だが、子どもらしいことをさせて貰えたことも無いのだろうから、仕方が無いのかも知れない。
35歳のおじさんが16歳の女の子を抱っこして頭を撫でる――どう見ても事案でしか無いが、そうしないと泣き止まないと本人が言うのだ。
やらないわけにもいかない。
俺は三坂美玖を抱っこして、頭を撫でてやりながら歩いた。
大きな子どもがいきなり出来たみたいで、なんともいえない不思議な気分だった。
「よしよし」
「……もっとなでなでして」
「はいはい」
なるべく人目に触れないようにするのが大変だった、というのはさておきだ。
三坂美玖は軽かった。
体が想像以上に細く、ろくなものを食べて来なかったのが容易に分かる。
自宅に戻り、ベッドに寝かせると三坂美玖はすやすやと眠り始めた。
泣くにも体力を使うと言うし、安心出来る場所に来て溜まっていた疲労が一気に噴き出したに違いない。
「それにしても一億か……」
ソファに座り、俺は深く重く息を吐きだした。
勢いで払うと言ってしまったが、そうそう簡単に稼げる金額では無いのだ。
だが、やらなければならない。
救うと言ったのだから救わなければならない。
本当に面倒なことに首を突っ込んでしまったものだと思うが、しかし、俺の心が見て見ぬフリをすることを嫌がった。
「浅はかだと、とんでもないマヌケだと他人は口を揃えて言うだろうが……俺はそれでも」
場合と状況によっては、俺の人生は今度こそ本当に終わる。
分かってはいる。
必要のない重荷を背負っている。
しかし、ここで目を瞑ってしまえば俺は俺で無くなるのだ。
それだけは許せなかった。
前を向いて歩くのは辛い。
暴風雨に晒され進む先さえ分からない時ですら、足を動かし続けなければならないからだ。
正しさを貫き通すのは苦痛だ。
誰からも疎まれ蔑まれ、十字架に磔にされては殴られるからだ。
人間社会という枠組みの中では、俺は恐らくマトモではない異常者である。
だが、そんな人間が一人くらいても良いじゃないか。
そう思うのは間違いだろうか?
分からない。
分からないが……ただ、なんとなく、そうなんとなくだが三坂美玖を救えばそれが分かるような気がする。
七月某日、季節は夏――妙に蒸し暑い夜に俺は心の中でそう独りごちた。
※
最後までお読み頂きましてありがとうございました。
おじさんが取った手法は決して褒められるものではありませんが、それがおじさんの選択であり、そして三坂美玖も受け入れるようです。
問題があるとすれば、おじさんは三坂美玖を大きな子どものように捉えていますが、三坂美玖の方はおじさんを一人の男として意識してしまい惹かれてしまった部分でしょうか。
この年齢差はさすがに世間が許してくれなさそうですが……しかし、おじさんは作中で分かる通りに世間をあまり気にせず、加えて押しに弱いです。
心を許した相手に甘えたがる三坂美玖の性格との相性がある意味抜群なので、結果はなんとなく想像がつきますね。
それでは最後になりますが、↓にある☆応援評価や感想など頂けると嬉しいです。創作の原動力になります! ぜひぜひ。
※
6/30追記:
新作の短編を投稿しました。良かったらそちらもどうぞです。
タイトル:元アイドルの担任の女教師(28歳独身)が僕に雑用を頼みまくって来たのは好きだからって、それマジなのですか?
Nコード:N3237HB
URL:https://ncode.syosetu.com/n3237hb/
です。
↓にリンクも張っていますので、そこをクリックでもいけます。