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気持ちが追いつかない


 ――グレアム様のことが頭から離れない。


 わたしはあれからこっそりとグレアム様を観察していた。初めは突撃していたのだが、顔を赤くし鍛練をやめてしまうので遠くから眺めることで我慢している。


 この位置に決まるまで10日、決まってから観察を開始してから5日。

 今日も庭の木の影から彼を見守っていた。こうして頑張っている彼を見守っていると、もっと近寄りたくて体がうずうずする。


「グレアム様、今日こそ脱いでくださらないかしら?」


 後ろ姿がしっかりと見える位置にいるが、グレアム様は鍛えている騎士とは違いふにゃふにゃの筋肉だから、遠目になってしまうと本当に筋肉がわからない。僧帽筋とか広背筋とかの動きをじっくりと見たい。是非ともシャツを脱いでほしい。


「……グレアム様は脱がない主義だと思います」

「そう? じゃあ、どうやったら脱いでくださるかしら? やっぱり水をかける?」

「どうやって水をかけるのですか?」


 ジニーのつれない返事に、わたしはため息をついた。


「どうしてこんなにも気になるのかしら。わたしの好む筋肉は一つも持っていないのに」

「グレアム様もエリノア様をすごく意識していますよね」


 ジニーが驚くようなことを言った。考えていなかった言葉に、目を丸くする。


「え?」

「気づきませんでしたか? さりげなくグレアム様もこちらに目を向けてきます」

「本当に?」

「ええ、今振り返ってみてください」


 断言されて、ちらりとグレアム様の方を向く。ぱちりと彼の視線とぶつかった。彼も視線が合わさったことに気がついたのだろう。慌てふためいている。

 その様子を唖然として見つめていれば、彼は何やら複雑な顔をして、歩き出した。


「え? こっちに来る?」


 グレアム様はしっかりとわたしに目を合わせたまま、どんどんこちらに近づいてきた。


「え、え、どうしよう!?」


 彼がわたしに向かって来ていることがわかって、大いに慌てた。逃げてしまおう、と考えたけど、ここで逃げてしまっては今後、側に近寄ることができなくなる。

 ぐっとこらえて余裕のある笑顔を浮かべようとした。だけど、彼の目に映ったわたしの顔は無様にも真っ赤になって狼狽えていた。


「エリノア、少し話がある」

「は、はい」


 初めて強い言葉をかけられて、背筋を伸ばした。何を言われるのか不安で、視線を少し下に向ければ、彼の手が落ち着かない様子で開いたり閉じたりしているのが見えた。どうやら緊張しているのはわたしだけではないようだ。


「この1年、どうしていいかわからなくて放っておいて、申し訳なかった。今更のように聞こえるかもしれないけど、できればもっと……夫婦として親しくなっていきたい」

「グレアム様」


 驚きの内容に顔を上げた。緊張も不安も忘れて、ただただ彼の顔を見つめる。彼は徐々に余裕さを失って、視線がうろつき始める。


「正直に言えば、僕は人とあまり接したことがない。君ともどうしたらいいのか……。こんな綺麗な君がつ、妻だなんて」

「綺麗……妻……」


 言われなれない言葉を拾えば、恥ずかしさが全身を襲った。体中が熱くなり、汗が背中を伝う。何か言わないと、と慌てていればぐっと肩を掴まれた。


「え?」


 そっと頬に唇が触れた。


 本当にちょんと触れるだけの子供の様なキス。

 目を見開いて彼を見上げれば、彼の顔も真っ赤だ。


 やだ、可愛い。


「……っ! また後で」


 ぼそぼそと早口で言って、グレアム様は走って行ってしまった。そっとキスされた頬に手を当てる。自分とは違う体温を確かに感じた。


「エリノア様、よかったですね。殿下も歩み寄ろうとしているのですね」


 ジニーの言葉に、頭が冷静になった。ジニーも護衛も生ぬるい目を向けてくるが、睨むこともできない。次第にいたたまれない気持ちになってくる。


「……今日はもう引き上げるわ」


 細い声で告げて、自分の執務室へと逃げ帰った。


 執務室に入ると、すぐさま椅子に座って机の上に突っ伏す。顔があげられない。自分でもわかるぐらい、体中が熱かった。変な汗も出ている。


「キスされたわ! なんであんなにも乙女なの! しかも何も言わないなんてわたしってどうしてバカなの!」


 机に伏したまま、悶えた。まさかグレアム様からキスをされるなんて思っていなかったから、完全に油断した。取り繕うこともできなかったし、何も気の利いたことも返せなかった。


「エリノア様もグレアム様と距離を縮めたいのですね」

「それはそうよ。政略結婚でも結婚したのだから。できれば無関心よりも仲のいい方がいいわ」

「でしたら、年上の女の余裕を見せて、エリノア様から距離を詰めていったらいいのではありませんか?」

「だって……恥ずかしいじゃない」


 ジニーの呆れたような言葉に、弱々しく答えた。


「……嬉々として騎士たちの筋肉をガン見するエリノア様が恥じらい躊躇われる理由は何でしょう? しかも、あれだけ殿下の筋肉を見たいと渇望しているのに」


 ちらりとジニーの方へ視線だけ向ける。彼女は心底不思議そうな顔をしていた。

 確かに色々な騎士たちの筋肉を堪能し、その美しさにうっとりしていた。それはわたしの生きがいであり、今さら止めることなどありえない。

 理想の筋肉を見つけ、その姿をこの目に焼き付けることは悪いことではないはずだ。他の人たちが好むものをコレクションするのと何ら変わりはない。


 だけど、違うのだ。

 見知らぬ人の筋肉を賛美するのと、知っている人、つまり夫の筋肉を堪能するのは意識がまったく違う。


「グレアム様は知らない人ではなくて自分の夫なのよ? 見るだけじゃなくて触ってみたくなっちゃうじゃない」

「理想の筋肉ではないのに、触りたいと思うものですか?」


 ジニーは理解できないのか、首をかしげている。

 確かに今までのわたしであったら、触ってみたいのは理想の筋肉だ。大きすぎず小さすぎず、それでいて美しい形を持つ筋肉たち。許されるものなら、その感触を確かめながら心ゆくまで触れてみたい。


「……理想ではないけれどもグレアム様を綺麗だと思ってしまったのよ。騎士たちに比べたら筋肉があるのかどうかすらわからないけれども、その未熟さとまだ世間を知らない肌がなんだかとても……とても……」


 ぽたりと何かが落ちる感じがして、机の上を見た。ねっとりとした赤が目に飛び込む。驚きに固まってしまった。その間もぽたりぽたりと赤が増えていく。


「鼻血が出てしまうほど、ということですね」


 冷静に言われ、ハンカチで鼻を拭われた。机の上の血もさっと拭いて綺麗になる。茫然とその様子を見ていたが、正気に戻るとじたばたとしてしまう。


「ううう、情けない! 筋肉に興奮して鼻血を出したのは10歳のとき以来だわ!」

「あれは理想的な筋肉を見つけたときでしたか」

「でも! グレアム様は全く違うの! 鍛え始めたばかりだから理想からは遠いけど、そのうち筋肉が乗り始めるのよ。無垢な乙女が恋を知って女になるような、そんな、見ていて恥じらってしまいそうな何かがあるの!」


 高ぶった気持ちを叩きつける様に、どんと机を拳で叩く。


「だからシャツを脱いでほしいと思うし、つ、つ、妻としてその、あの色々できるのなら! 今はどんなに筋肉がなくてへなちょこだって、見ていたいのよ!」

「――わかりました。頼りない筋肉が成長する様を見守っていきたいと」

「そうね、多分そういうことだと思うわ」


 興奮してしまったのが恥ずかしくなって、ツンとした様子で頷いた。ジニーはしばらく考えていたが、すぐに笑顔になる。


「でしたら、襲ってみてはいかがでしょう?」

「はい?」

「幸いなことにグレアム様とは夫婦です。そして、今まで交流もなく夫婦の絆もできていません。お互いに距離を縮めたいと考えている。でしたら、強行突破しかないでしょう」


 笑顔で言い切られて、思わずたじろいだ。


「え? わたしが襲う方なの? その前にまずは気持ちから距離を縮めるものではないの?」

「気持ちなんて後からでも大丈夫です。まずはエリノア様の好きなところからいきましょう」

「……お互いにもっと好きになってからの方がその、色々しやすいのでは?」


 直接的な言葉を口にすることができない。こんな話を誰かとしたことがない。


「エリノア様の方が2歳年上ですし、グレアム様は女性をあまり知らないようですから主導権を握ってもいいと思います」

「でも、それって」


 嫁ぐ前に一通り、マル秘夫婦生活の教育は受けてきた。もちろん、具体的にだ。だけど実践はしたことはなく、何も知らないという意味ではわたしも一緒で。


 まごまごしていれば、ジニーがふふふと笑った。


「見たくはないですか? まだ若い瑞々しい小さな筋肉。あれが1年もすればどんなに素敵に成長するのか……。今、決断しなければきっと後悔なさるはずです」

「そう言われてしまうと、確かにもったいないわ」


 目をつぶり、そっと彼の胸に手を置いたところを想像する。今はまだつるぺたの薄い胸板。あれが徐々に成長していくのだ。その成長記録と、涙の訓練の様子を見守るなんてなんて素敵なのだろう。


 でも、でもよ?

 そのために襲うなんて……。


「難しく考えないでください。さりげなく隣に座って、乗り上げてしまえばいいのです。グレアム様は華奢ですから、エリノア様がのしかかってしまえばきっと動けないはず」

「そうかしら?」

「ええ。勢いよく胸に体当たりして押し倒し、両腕を縛ればシャツのボタンをゆっくり外すこともできます」


 自然とその様子を想像してた。


 お酒を飲ませて、少し油断させて。

 酔いが回って赤みのさしたグレアム様。

 いつもよりも近い位置に近づいてそのまま――。


 一人、想像して悶えているとノックの音が聞こえた。ジニーが対応すれば、家令を連れてもどってきた。家令は普段、あまり感情を表に出さないのだが、明らかに困ったような顔をしている。


「どうしたの?」

「殿下にお客様が来ています」


 意味がわからず、首を傾げた。今までもお金の絡まないグレアム様個人の付き合いに口を出したことはない。なので、訪問客が来たと報告されたのは初めてだ。


「グレアム様にお客様? わたしに断りを入れなくても」

「相手はメリック前伯爵夫人です。殿下が押し切られそうなので、是非とも手を貸していただけないでしょうか」

「まあ」


 夫の愛人になりたがっている女が乗り込んできたらしい。


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