あら? 少し気になりますわ
ベアトリス姉様と騎士団の模擬戦を見た日から数日経った今でも気持ちが晴れない。ふとした瞬間にあの時の会話を思い返している。
とうとう集中力を切らして、書類を机の上に置いた。
ずっと手に入れたかった爵位。
自分の不満な気持ちを封印してでも欲しかった。
ベアトリス姉様は政略結婚したわたしを可哀そうだと嘆いたが、わたしにとってはそうではなかった。
この結婚は契約だ。契約の相手は陛下。もう少しで希望がすべて叶うことになる。
「……なんでこんなにモヤモヤするのかしら?」
「エリノア様、お茶をどうぞ」
ジニーが心配そうな顔をしてカップを机に置いた。侍女としてずっと側にいる彼女はわたしにとって唯一の相談相手だ。頬杖をついて、ジニーへと目を向ける。
「政略結婚と引き換えに爵位をもらったし、もう少しで他の国に行くことができるようになる。望み通りになったのに、どうしてかしらね?」
爵位はお父さまが持っている爵位の一つを継承させてもらった。大貴族は幾つか爵位を持っていて、そのうちの一つを子供に分け与えるのは普通のことだ。だけど女性が爵位を継ぐためには、それなりの理由がないと難しい。とにかく親類が煩い。
その声を抑えてどうしても爵位が欲しかったのは、自由に他国に行くためだ。この国の貴族女性は結婚後は家に入り、夫と領地のために働く。主に社交シーズンには王都で、それ以外は領地で夫の補佐を行う。その生活は貴族に嫁ぐ女性なら当たり前のこと。
それが幼いころから不満で、どうすれば女性でも国外に自由に行くことができるかだけを考えてきた。だから、この政略結婚に満足している。
それなのに、なんだろう、この割り切れない変な気持ちは。
「王太子妃殿下の愛される姿を見て、羨ましく思ったのでしょう。女性が愛し愛されることを望むのはごく当たり前の感情です」
くすりと笑われて、むっと唇を尖らせた。
「愛し愛されなくても、国外の騎士大会を観戦できるもの。長い目で見れば、わたしは幸せなはずだわ」
「見ているだけでいいのですか?」
「そうよ。あの幼い頃の感動を毎年味わいたいの」
目を閉じれば、初めて他国の騎士大会に連れて行ってもらった時のことをはっきりと思い出せる。あの時はお父さまがその国の王に招待され、家族全員で訪れた。
最初は騎士大会がどういうものかわからず、大して興味はなかった。長旅は疲れるし、移動の馬車の中で何日も過ごす。面白いことは何もない。留守番でもいいと思ったぐらいだ。
でも、その気持ちはすぐに吹っ飛んだ。
「あの時の感動は忘れないわ」
「大興奮でしたね。わたしには良さが少しもわかりませんが」
逞しい体をした騎士たちが所狭しといた。
その時に初めてお父さまとは違う筋肉を見た。
ゴリゴリ、ごつごつ、厳つい岩のような筋肉ではなく、しなやかで服を着てしまえばその逞しさがわからない。筋肉はないのではないかと疑問に思って、子供の無邪気さで練習風景も見たいと我儘を言った。
許可をもぎ取り練習しているところをそっと覗けば、上半身裸で鍛錬をする騎士たちがいた。
剣を振るう姿は美しかった。背中の筋肉の盛り上がりや剣を振る動きに合わせて伸縮を繰り返す筋張った腕、一つ一つ動きが滑らかでいて、剣は決してぶれない。
お父さまの筋肉がこの世界の至宝だと全力で語るお母さまの価値観しか持っていなかったわたしにとってあの経験は人生の転換点だった。
「……やっぱり我慢しても手に入れるべきものよね」
「エリノア様、そう思うのでしたら、決裁をお願いします」
「わかっているわよ。バリバリ働いて、いずれは海の向こうの国の大会を見に行きたいわ」
気合を入れて書類に目を通した。次から次へと書類を読み、領地の状態を確認する。本当ならお母さまのように領地に入り、直接見ることができるのが理想だ。
今はまだグレアム様が王籍を持ったままのため、その正妃になるわたしも王城を出ていくことができない。領地を管理する代官たちが優秀なので問題はないのだけれども、いずれは自分の目で確かめながら治めていくつもりだ。
「エリノア様、そろそろ休憩のお時間です」
「ありがとう」
声をかけられて時計を見れば、午後のお茶の時間になっていた。ふうっと体を反らす。ずっと同じ姿勢だったためか、非常に体がこわばっている。体をほぐそうと立ち上がった。
「気晴らしに散歩でもいかれたらどうでしょうか?」
勧められて窓の外を見れば、綺麗な青空。
部屋の中に閉じこもっているのはもったいない気持ちが膨れ上がってくる。
「じゃあ、少しだけ」
ジニーにこの後の予定を伝えてから、わたしは庭へと降りていった。
そして見てしまった。
さっと彼らから姿が見えないように木の影に隠れる。護衛達も警戒した顔をしたが、しっと唇に指をあてて静かにするようにと指示をした。
大きく息を吸って吐く。
うん、落ち着いている。何を見ても大丈夫だ。理想ではない筋肉を見ても、グレアム様を嫌いにはならない。だってわたしたちは陛下によって決められた政略結婚。好きと思えるほどの筋肉も交流もない。
ゆっくりと呼吸を繰り返しているうちに落ち着いてきた。いつもと変わらない顔になったことに安堵しながら、グレアム様の方へと歩き出した。
「エ、エリノア」
護衛騎士を相手に模擬剣を振るっていたグレアム様はぎょっとした顔をした。慌てて隠すように手に持っていた模擬剣を背に隠す。どうやら見られたくなかったらしい。
わたしは困ったような表情を作って首を傾げた。
「お邪魔でしたか?」
「いや、いいんだ」
彼は諦めたようにため息を落とし、首を緩く振って俯く。彼の動きを見逃さないように、瞬きを最小限にする。
模擬剣を振って上気した滑らかな頬、はだけた胸元から覗く白い肌。
陛下譲りの明るい金髪は日の光を浴びてキラキラしている。俯いているせいか、ほっそりとした首筋が丸見えだ。
伏せられた目を見たい。
そう思ったら自然に一歩、近づいた。自分の肩からストールを外す。
「冷やすと体に障りますわ」
「いらない」
はっきりとした拒絶をした彼は伏せた目をわたしの方へと向けた。初めて真っ直ぐに見つめられて、ひゅっと息を呑む。
美しい濁りのない青い瞳が切なげに揺れた。何か言いたそうにしているが、言えずに彼は唇を軽く噛む。
なんなの、この乙女のような色気は?
元々、口数が少なく、目もなかなか合うことがなかった。嫌われているのだろうと思っていたけど、単純に人見知りなだけだろうか。
落ち着かない気持ちを誤魔化すように、彼の胸元に目を向けた。先程より近いためか、胃の辺りまで見える。
「……」
白くて薄い胸は今まで見てきた誰よりも頼りない。厚みもないし、筋肉もない。鎖骨はくっきりと浮き上がり、肩幅はわたしよりも少し広い程度。はっきり言って華奢。
でも目が逸らせない。
「やっぱり、借りる」
じっと見つめられていることに気が付いたのか、彼はぶっきらぼうに呟いて、わたしの手からストールを奪った。それを肩に掛け、走り去ってしまった。その後ろを剣術の練習に付き合っていた護衛が会釈をした後、続く。
「ねえ、グレアム様はいつから……?」
「半年前から、徐々に訓練しています」
護衛たちは知っていたようだ。
「そう。では、これから訓練の後は卵と肉料理を増やしてちょうだい。卵は白身だけよ」
いつまでも彼の頼りない胸元が頭から離れなかった。
あの白い肌に触れたいと初めて思った。