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作家吾妻の事件簿

地方紙を読む男

作者: 真波馨

今更ながら読み始めた、松本清張の某代表作品へのオマージュ……か?

始まり


「同じ日付の地方新聞を毎日読む男性について、どう思いますか」

 涼しげな、だが抑揚のない声で問われた。挽きたての珈琲が入ったマグカップを両手に持ったまま、吾妻鑑(あずまかがみ)は足を止める。

「地方紙を読む男?」

「ええ。バスの中で見かける男性なのですが、私が観察している限り、毎日同じ日付の新聞を広げているんです。しかも一ヶ月ほど前のものを」

 ゆっくり瞬く猫目が吾妻を見上げる。長い睫に縁取られた瞳の奥に、好奇の色が垣間見えた。

「俺に推測してほしいのか。毎日同じ日付の地方紙を読む男について」

「そのために、今日はわざわざ非番を取ってお邪魔しました。新聞を見るたびに気になって、ろくに内容が頭に入ってこないんです」

 新聞の内容に集中できないのはその男のせいだ、ということらしい。吾妻は猫目の女性にマグカップを渡すと、お気に入りのカウチソファに腰を落ち着かせた。

「地方紙を読む男にまつわる謎、か」

「先生好みの謎かと思って、まだ誰にも話していないんです」

「別に、謎を独り占めするわけでもないのに」

 苦笑を漏らすと、女性は壊れ物を扱うかのようにマグカップを両手で包み込む。

「私、自分しか発見していないって思うものは他人に見せびらかしたくないんです。他の人が気付いちゃうと、それはもう私だけのものじゃない。今まで特別に見えていたものが、何だか色褪せてしまうようで」

「見つけた宝は自分だけのものにしたい、か」

「子どもっぽいですよね。でも、今は吾妻先生にお話しましたからもう私だけの謎ではありません。自分だけで大事に抱えていても、解かれなければ宝の持ち腐れですから」

 まだ仄かに湯気が立ち昇るマグカップから、猫目が吾妻に移される。

「きっと、謎も先生に解かれるのを待っていると思います」



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇ 



地方紙を読む男――鈴坂万喜子による証言――


 私、朝は毎日バスで通勤しているんです。同じ時刻、同じ路線で見かける乗客が何人かいるのですが、地方紙を読む男性もその中の一人です。

 席は右側だったり左側だったりしますが、だいたい後方に座っています。乗車口より前に座っている日は、少なくとも私は見たことがありません。定位置が決まっているわけではなく、単純に空席が多いのが後方というだけかと思います。通勤客で混雑する時間帯ですが、座れないほどの込み具合ではありません。

 私がその男性を初めて意識したのは、二週間ほど前です。偶然、その男性のすぐ後ろの席に座る日が連続して。最初は「この人、いつも新聞を読んでいるなあ」くらいにしか思わず気にも留めませんでした。ですが、何気なく視線を移したときに新聞の日付が視界に入ることがあって、そのうちに新聞の日付がいつも同じであることに気付いたんです。

 K新聞の、今年十月七日水曜日付けのものでした。一、二度なら「鞄に入れ忘れたものを暇つぶしに読んでいるのだろう」くらいにしか思いませんが、すでに二週間近く十月七日の新聞を読み続けているんです。たまたまではなく、明らかに何らかの意図があって同じ日付の新聞を読んでいると、思わないほうが不自然です。

 男性はいつもスーツ姿で、身長は吾妻先生よりも少し低いくらい――立ち上がったときの目測です――でしょうか。新聞で顔が隠れているので顔貌は詳しくお話できませんが、髪型は黒髪を短く整えている、特に奇抜でも斬新でもないありふれたヘアスタイルです。毎日同じ日付の新聞を読んでいるという際立った特徴さえなければ、特別記憶に残ることもなかったでしょう。

 彼は、私より前のバス停で乗車しているため、私が乗り込むときはすでに新聞を広げた状態が常です。新聞に顔を埋めるようにして、「熱心なサラリーマンだなあ」という印象を抱く人もいるかもしれません。その新聞がいつも同じ日付のものでさえなければ、ですが。

 男性が降車するのは、私が降りる二つ前のバス停です。バスの出入り口側の席に座っているときに、窓から降車した彼の姿が見えることがあるのですが、特に変わった様子もなくバスと同じ直進の方角へ歩き出します。その方向に勤め先があるのかもしれませんね。私が見ていた範囲では、歩きながら新聞を読む気配はありませんでした。ブリーフケースを手にしていたので、その中に新聞を仕舞ったのだと思います。


 こんなことがすでに二週間も続いています。一度気付いてしまうと、気にするなというほうが無理じゃありませんか。彼は一体なぜ、一ヶ月も前の新聞を毎朝読み続けているのでしょう。

 先生に、この謎が解けますか。



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



地方紙を読む男にまつわる考察


「毎日同じ日付の地方紙を読む男、か。確かに心惹かれる謎だな」

 マグカップを優雅な仕草で傾けながら、吾妻は唇の端に微笑をのせる。

「ひとつ確認したいんだが、日付は今年の十月七日水曜日のもので間違いないのか。一度でも別の日付だったり、あるいは同じ日付でも他の種類の新聞を読んでいたりといったことは?」

「ありません。特にこの一週間は細心の注意を払って見ていましたから。K新聞の十月七日水曜日で間違いないです」

 K県警捜査一課の鈴坂万喜子(すずさかまきこ)巡査部長は、法廷で宣誓文を朗読するときのように迷いのない声で断言する。

「同じ地方新聞、同じ日付、か。順序立てて考えていこう。まず、男が広げていた新聞が十月七日であるのは、故意的か偶然的か」

「男性にとって十月七日の日付、あるいは新聞の内容が特別な意味を持っていた場合が故意的ですね。後者の偶然的とはどういう意味ですか」

「たとえば、男は単なるポーズとして新聞を広げているだけで、その行為には新聞を読む以外に別の意味があった。だから、新聞は必ずしも特定の日付である必要はないってことだ」

「新聞を読むふりをしていた、ですか。一体何のために」

「確か鈴坂くんは先の話で、確か男の顔は新聞で隠れていてよく分からなかったと言っていたな」 

 推理作家に問われ、鈴坂刑事は視線をつと斜め上へ向ける。

「ええ。こう、新聞を両手で広げて紙面に顔を埋めるような格好で」

 両腕を広げる仕草をしたところで、不意に言葉を途切らせた。そのまま石像のように数秒間静止していたかと思うと、徐に猫目を吾妻へとスライドさせ、ゆっくり二度瞬きをする。

「顔を、隠す」

 女刑事の言葉に、推理作家はほんの微かに唇の端を吊り上げる。

「男は、公衆の面前にできる限り己の顔を晒したくない事情があった。だが、マスクやサングラスといったいかにもな隠し方は却って周囲の注目を浴びる可能性がある。男は考えた。バスの車中、できるだけ自然に顔を見せない方法はないだろうか。そこで閃いたのさ。自分はスーツを着ている。見た目はいかにも現役ばりばりのサラリーマン。サラリーマンが普段から持ち歩く所持品の中で、適度に顔が隠れてしかも堂々と隠していても違和感のないものがあると」

「それが新聞だったのですね。確かに筋は通っていますが、一つ疑問が残ります。もし地方紙の男性が公衆に自身の顔を晒し出したくないのだとすると、バスの車中に限らず顔を隠したがるはず。ですが先の話でも触れたように、バスから降車後、男性が新聞を読みながら歩いているような様子はありませんでした。とすると、彼はバスの車中限定で顔を隠す必要があったとも考えられます」

「そんな不可解な状況があるのか、と言いたそうだな」

「少なくとも、私には合理的な説明がつけられそうにないので」

 艶めいた黒髪を肩から払い落とし、女刑事は小さく頭を振る。

「理論として美しいとは言い難いが、一応の筋は通っている仮説くらいなら立てられそうだぞ」

「と、言いますと」

「人が顔を隠したい理由は様々だろうが、不特定多数の公衆に対してではなく、特定の人物のみの視線を避けたい場合も考えられる」

「地方紙の男性は、バスの車内で誰かに監視されていたのですか」

「可能性としてあり得るだろう。その監視者からの視線を妨げたいがために新聞という手段を用いたわけだ」

「先生の仮説が正しいとすると、地方紙の男性はかつて何らかの犯罪に関わっており、つまりバスの車内で男性を監視しているのは私と同業者の可能性が高い――とは、職業病的発想が過ぎるでしょうか」

「それは言葉の捉え方にもよりけりだろうな。今、俺は"監視"という言葉を使ったが、単に"見られている"だけであれば何も相手が刑事とは限らない。地方紙の男をストーキングしている者かもしれないだろう」

「ストーカー説ですか。確かに、現実的かつ理論的な説明ですね。ストーカーは男性と同じ路線であるものの、降車するバス停は異なるために男性は降車後まで顔を隠しておく必要はない。バスの車中でのみ、ストーカーからの視線を避けたかった」

「さすがは現役の刑事さんだ。話が早い」

 猫目の女刑事はにこりともしないまま、湯気の消えたマグカップに口をつける。

「しかし、元々は"同じ日付の新聞を毎日繰り返し読んでいる"という前書きで持ち込まれた謎だ。であれば、やはり十月七日という日付には何らかの意味があると考えたくなるのが俺の職業病的思考だな」

「私も同意です。単に新聞を読んでいるふりをするのであれば、普通に毎日その日の日付分を広げておくのが至って自然。ですが、たとえ周囲から多少の違和感を抱かれても、男性は十月七日の新聞に拘る理由があったと考えたくなるものです」

 珈琲を半分ほど残したマグカップを目の前のテーブルに置き、鈴坂刑事は脇に置いたショルダーバッグに手を伸ばす。

「実は、図書館の閲覧ルームに保管されていた新聞をコピーしてきたんです。一ヶ月も前のものとなると、さすがに家にはありませんでしたので」

「相変わらずの手際の良さだな。K県警の若手ホープにも見習ってほしいものだ」

 K県警捜査一課の最年少、若宮暢典(わかみやのぶのり)巡査部長は鈴坂万喜子の後輩刑事にあたる。吾妻は現役の推理作家である一方で、K県警の捜査協力に非公式で参加する「捜査アドバイザー」の肩書きを有していた。よって、県警内の人間には顔なじみも多く、特に若宮青年は捜査現場で顔を合わせる機会が最も多い刑事の一人なのだ。

「若宮にもよくよく指導しておきます――本題に戻りますが、こちらが十月七日水曜日付けのK新聞です」

 ホッチキス留めされたコピー用紙の束を手に取り、吾妻は早速一枚目を捲っていく。

「両手で新聞を広げていたということは、一面のトップニュースや裏面のテレビ欄を見ていた可能性はないな。目的の記事があるとすれば、二面からか」

 鈴坂刑事が珈琲の残りを飲み干したのと同じタイミングで、用紙を捲る乾いた音が止まった。

「何だ、この赤ペンで印がついてるのは。地域ページにあるS市内の記事だ」

 紙面から顔も上げずに問う吾妻。鈴坂刑事はソファから軽く身を乗り出した。

「覚えておいでですか。ちょうど一ヶ月前、S市内から隣のO町行きの路線で起きたバスジャック事件」

「ああ。まだ一ヶ月しか経っていないのか。確か、二十代の男が刃物を取り出して突然車掌を脅したんだよな。そのままバスをジャックしO町までノンストップで走行。男は乗客全員から現金を奪い取り、O町で降車しそのまま逃走した。だが、確か潜伏先の宿で逮捕されていただろう」

「ええ。乗客十一人から計十五万円ほどを強奪し、町内の安宿に身を隠していました。しかし、乗客の証言によってすぐさまモンタージュ写真が作成され、新聞で公開された写真を見た宿の仲居が『写真に似た男が宿泊している』と警察に通報。事件発生から五日後の逮捕に至りました」

「男は犯行を自供し、乗客全員に怪我もなかったとニュースで報道していたな」

「はい。そのバスジャック事件が初めて新聞で報道されたのが、十月七日です――実は、逮捕された犯人について供述の中に気になる点があるのですが」

「気になる点?」

 ようやく新聞から顔を上げた吾妻に、女刑事は僅かに表情を曇らせる。

「捜査本部内では、逮捕された男の単独犯ということで事件は処理されました。ですが、男の供述によると共犯者が存在していたらしいんです」

「だが、車中で凶行に及んだのは逮捕された男一人だったんだろう」

「その男によると、バスジャックの計画を立案した人物がいて、自分は実行犯にすぎないのだと。自分がこんなにもあっさり逮捕されたのは、共犯者が自分を裏切ったからだと繰り返し主張していたんです。しかも」

「しかも?」

「男は、共犯者がバスジャックの現場にいたと言い張ったんです」



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



地方紙を読む男にまつわる考察 その2


 新聞のコピー紙を手にやおら立ち上がった推理作家は、ベランダに面する窓外の秋空にぼんやりと視線を投じる。九、十月と日本列島を立て続けに直撃した台風もようやく懲りたのか、十一月に突入してからは爽やかな秋晴れの日が続いていた。

「バスジャックを計画した共犯者と実行犯が、事件当時に同じバス車内にいた」

「大胆にもほどがありますね。しかも、実行犯という男の主張が正しければ、共犯者は現在も警察の目を逃れて堂々と日常生活を送っている可能性が高い」

「そんなことがマスコミにでもリークされたら、怪我人も出さず早期解決で事件を締めた県警の面子も丸潰れだろうな」

 推理作家の歯に衣着せぬ物言いに、捜査一課の紅一点は露骨に顔を顰める。

「事件を男の単独犯として処理したのはそのためです。事件当時同じバス車内にいた共犯者が未だ逃走中ともなれば、せっかくのスピード解決も水の泡。男の証言以外に共犯者の存在を裏付ける証拠がなかったことからも、男が自らの罪を少しでも軽くしたいために捏造した虚言だと、上は判断したようです」

「だが、当然皆がその判断に納得したわけではないのだろう」

「無論です。小暮警部は未だに『共犯者説をもう一度洗いなおすべきだ』と上へ掛け合っていますよ」

 小暮(こぐれ)警部はK県警捜査一課のベテラン刑事で、吾妻とは昵懇の間柄でもある。普段は物腰柔らかで紳士的な雰囲気を纏っているが、歪みのない真っ直ぐな正義感を併せ持つ職人気質でもあった。

「とは言え、よほど強力な証拠が出てこない限り上が動くことはありません」

 唇を真一文字に結び眉間に小皺を寄せる表情には、悔しさが滲み出ている。

「共犯者ね――待てよ。もし実行犯の男の証言が正しければ、共犯者は事件当時の乗客の中にいた。警察は当然、乗客全員に事情聴取を行ったはずだ」

「もちろんです」

「だったら、実行犯の男から共犯者の外見や特徴を聞き出せば乗客に紛れ込んでいたかすぐに判明したんじゃないのか。十人そこらなら警察も客の顔を覚えているかもしれん」

「それが、実行犯の男は計画立案者らしい共犯者と顔を合わせたことがないというんです」

 戸惑いがちな声で告げる鈴坂刑事。吾妻は雀の巣のような頭髪を苛立たしそうに掻き回す。

「なるほど。それじゃあ男の単独犯と決め付けたくなるのも無理はない」

「共犯者とは、手紙のやり取りのみで犯行を企てたと証言しています。手紙は証拠となるのですぐに処分するようにと互いに取り決めていたらしく、男のアパートを家宅捜索しましたが手紙の類は発見されませんでした」

「原始的だが抜け目のないやり口だな」

「ええ。共犯者が男か女であるかすら最後まで分からなかったのも、捜査員が乗客の中から共犯者を割り出せなかった要因かと。しかも、全員が残らず金銭強奪の被害に遭っていたこともあり、よもや被害者の中に加害者が潜んでいようとは考えもしなかったわけです」

「共犯者がわざわざバスジャックの現場に潜り込んでいたのは、実行犯の男を監視する目的だったのか」

「小暮警部はそう考えているようですね。ちなみに、強奪された金銭は逮捕された男の宿泊先から見つかっています。ですので、共犯者が実行犯を裏切って持ち逃げした可能性もなさそうです」

「自らの危険を察した共犯者が、実行犯を生け贄に逃げおおせたわけだ。しかし、仮に強盗目的だとするならば、結局計画は失敗に終わったことになる。共犯者が実行犯から盗んだ金を奪い取らなかったのは、そこから足がつくと危惧したからか」

「そこは警部や若宮も疑問を抱いていました。十五万円は決して大金といえる額ではありませんが、運が良ければ盗んだ金がすべて実行犯のものになる可能性もありました。逃げる前に分け前を受け取っておくなり、実行犯から奪い取るなりしなかったのはなぜなのでしょう」

「警察の捜査の手によほど神経質になっていたのか。あるいは、共犯者の目的は現金強奪ではなかったのか――ところで、本題から随分話が脱線しているな」

 窓辺に背を向けた推理作家は、再びテーブルを挟んだ鈴坂刑事の向かいに腰を落ち着かせる。

「すみません。どうしてもバスジャックの事件が腑に落ちないもので。実は、こちらの件についても先生の意見を拝聴したくて今日お邪魔したんです」

「おいおい。疑惑が残っているとはいえすでに捜査が切り上げられている事件だろう。しかも一ヶ月も前に起きたことだ。今更どうこう足掻いたところでろくな証拠が出てくるとは思えんが」

 ふと、吾妻は言葉を切った。顎をゆっくり片手で擦りながら、猛禽類を連想される鋭い双眸が向かいの女刑事に向けられる。

「もしかして、何か考えがあるのか」

「どういう意味ですか」

「素直に白状したらどうだ。きみが今日本当に話したかったのは、地方紙の男よりもバスジャック事件のことなんじゃないのか。だが、すでに犯人逮捕で処理された事件を持ちかけたところで俺の反応が鈍いのは目に見えていた。だから地方紙の男という餌で俺の気を惹いてバスジャックの話にシフトチェンジしようとした」

「餌だなんて人聞きが悪い。確かに、バスジャックの件について先生にご相談があったことは認めます。ですが、地方紙の男が単なる取っ掛かりだったというのは間違いです。むしろ、私の中で二つは密接につながっているのですから」

「つながっている? そりゃ聞き捨てならないな」

 緩慢な動作でソファから身を起こした推理作家を、猫目の刑事は真っ直ぐに見据えた。

「もし、地方紙を読む男がバスジャック事件の共犯者だったとしたら、どうですか」



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



地方紙を読む男にまつわる結論


「地方紙を読む男が、バスジャック事件で逃走中の共犯者?」

 吾妻は二杯目の珈琲に口をつけながら、大仰に肩を上下させる。

「じゃあ何だ。きみはバスジャック事件の犯人と二週間以上も同じバスに乗り合わせていたと」

「突飛な考えなのは百も承知です。このことは警部にもまだお話していません。というか、自分でも馬鹿らしくて県警内で話す勇気もないほどです。ですが、万一地方紙の男性とバスジャックの共犯者が同一人物だとすると、説明がつく点も出てくるんです」

 小さく鼻を鳴らして珈琲を一息に飲み干すと、推理作家はソファの中で長い足を組んだ。

「こうなったら、最後までその突飛な仮説に付き合おうじゃないか。鈴坂くんらしくない大胆な発想だ」

「ありがとうございます。まず、地方紙の男に関する最大の謎である"同じ日付の新聞を読み続けている理由"に決着がつきます。自己顕示欲が強い犯人であれば、自分たちの起こした事件が掲載されている新聞を、後世大事にしたくなるものです」

「犯人の心理としては、まあ否定はできんな」

「そして、これは先生にお話そびれたのですが、実は私や地方紙の男が利用しているバスは件のバスジャックが起きたときの路線と同じなんです」

 吾妻はソファから背を離すと、絡まった鉄条網の如き頭髪に手を入れる。

「おいおい、そんな大事なことはもっと早く言ってくれ」

「すみません、タイミングを逃してしまって――最初は、単なる偶然かと思い気に留めないつもりでしたが、地方紙の日付を目にする日が増えていくほど疑惑が膨らむばかりで。偶然で片付けたらそれまでかもしれませんが」

「たまたまバスジャックが報道された日の新聞を読んでいるだけで犯人扱いされたら、そりゃ困るものな。クロスワードを解いたりお気に入りの連載小説を読んだりしているだけかもしれん」

「犯行があった路線のバスで、です」

 強い口調で訂正が入る。吾妻は新聞を閉じると、テーブルの上にそっと戻した。

「たまたまバスジャックが報道された日の新聞を、たまたま事件があった同じ路線で毎日読んでいた。それ以外には何の根拠も証拠もない。共犯者の年齢や見た目はおろか、性別さえ分からないんだろう。これ以上の話し合いは机上の空論にしかならな――いや、まだ証拠はあるのか」

「え?」

「バスの車掌だよ。事件当時にジャックされたバスを運転していた車掌が、もし当時の乗客の顔を覚えていたとしたら。あるいは、地方紙の男と同一人物か判別できるかもしれない」

「残念ながら、当時の車掌は辞職しました。もともと心臓の弱い男性で、バスジャックの体験が相当堪えたようです。確か現在は、大学病院に通院していると風の噂で耳にしました」

「事件時に乗り合わせた乗客の話はどうだったんだ。怪しい言動の人物を見たとか、妙に一人だけ冷静に振舞っていた者がいたとか」

「乗客たちは、犯人の一挙一動に集中していたため他の乗客の様子には注意を払っていなかったようです。命の危険がすぐそこまで迫っているのですから、無理もありません」

「バスには車内カメラが設置されているはずだ」

「実行犯の男が、カメラのレンズにカバーを取り付けていたようです。ですので、声は拾っていましたが映像のほうは」

 緩慢な動作で首を振る女刑事。カウチソファの背もたれに深く身を預け、推理作家は両手を顔の横に上げた。さながら、警察に銃を突きつけられ降参のポーズをとる犯人のように。

「お手上げだ。地方紙を読む男は、一ヶ月前のバスジャック事件における二人目の犯人――いつかの短編もののネタとして温めておこうかな」



       ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



地方紙を読む男にまつわる後日談


「地方紙を読む男」にまつわる推理合戦から一週間が経った日曜日。鳥の囀りとともに珍しく規則正しい朝を迎えた推理作家は、マンション一階の共同ポストで郵便物を確認していた。

 ポストの最奥部に押し込められていたのは、K新聞社からの一通だった。皺の寄った茶封筒を部屋に持ち帰り、鋏で丁寧に封を切る。封筒の中には、一通の縦長の封筒が投入されていた。K新聞の読者からの便りだった。



 拝啓 渋沢巽さま

 

 はじめまして。私はK新聞の愛読者であり、また渋沢先生の作品の愛読者でもあります。

 昨日付けのK新聞で、一年に渡った渋沢先生の連載小説もついに幕を下ろしました。結末を楽しみにしていた反面、先生の作品をしばらくお目にかけることができないのは残念な気持ちでもあります。

 ところで、先生は数週間前に発売された地元雑誌の対談にて、「現在K新聞で連載している小説の謎を解くすべての手がかりは、十月七日付けに掲載された章に隠されている」とおっしゃっていました。お恥ずかしながら、私は連載が終わりを告げた今でも、まだ真相にたどり着くことができていません。これは、ある意味喜ぶべきことなのでしょう。当分の間、先生の連載小説からまだまだ目を離せない日々が続きそうです。

 私は今でも、通勤時間に十月七日の新聞と睨み合う毎日を送っています。


 渋沢先生の連載小説が、書籍となって店頭に並ぶ日を心待ちにしています――『地方紙の男』が、書店で購入できるその日を。


 敬具 深山慎一



 吾妻鑑、もとい渋沢巽(しぶさわたつみ)は、手紙を折り畳むと几帳面に封筒の中へ戻した。のんびりとした動作で書斎の椅子から立ち上がると、リビングへ向かい朝の珈琲を淹れる。

 湯気の柱が昇るマグカップを手に、吐き出し窓から外を眺めた。雲一つない秋晴の候。どこからともなく、バスの乗車口が開くような音が男の部屋に届く。

「『地方紙の男』の結末、ちょいと手を加えるか」

 独り言ちて、珈琲を一口啜る。ガラス越しに映る男の顔はどこか楽しげで、悪巧みを考える子どものような笑みを浮かべていた。

「渋沢巽」は、吾妻がK県を舞台にした作品を執筆時のみに使う第二のペンネームです。

吾妻が実は二重人格とかそんな設定ではありません。

渋沢はK県内では文化人としてそれなりに著名なようです。

今後もどこかで不意に出てくる可能性がありますので、注釈までに。

 

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