第一節 歓迎光臨
惨憺酸鼻とはこのことか。
「却鬼延年・保命陽精・霊源不渇・延寿長寧……急急如瑠璃光大仙律令勅……」
天井。そこからは手枷と鈎のついた鎖が垂れ下がっている。
壁。それはべっとりと血にまみれている。床もまた同様に。
暗い室内には作業台と祭壇。三角錐型に渦巻く線香が、ずらりとすだれを作るように並べて吊るされ燃えている。それでも、血と臓物の悪臭はまったく減じない。
「却鬼延年……保命陽精・霊源不渇・延寿長寧・急急如瑠璃光大仙律令勅……」
うなるように、ブツブツとまじないを繰り返す男の手は、一心不乱に作業を続けていた。肉切り包丁を握りしめ、まな板に叩きつけ、肉塊を細かく、細かく。
「……却鬼延年・保命陽精・霊源不渇・延寿長寧・急急如……瑠璃光大仙律令勅」
男は刻んだ肉と骨を、煮え立つ鍋へ放り込んでいく。厨房の仕込みとしては、そこはあまりにも不潔すぎ、そして暗かった。
何かをはばかるように、照明は最低限のろうそくのみ。だが、それはこの男が自らの所業を直視しないためかもしれない。
天井から吊るされる死体。あるいは、部屋の隅にまとめられた頭蓋骨。
それはまさしく、人間のものだった。
◆
「師父、人殺しって悪いことなんですか?」
若い男のさらし首を見ながら、ウーは問うた。黒髪黒目、年の頃は十五歳ほどの少年だが、体の大きさと不釣り合いに、あどけない表情をしている。
ここは蘿州中部の片田舎、養家村の自警団詰め所前。石畳すらない踏み固めた土の道を、農作業に向かう牛馬や人がぞろぞろと行き交っていた。
夏の暑さが降りるには、まだ早い時間帯。朝露に濡れた草木と、厩舎の臭いが混ざり合う爽やかな朝の空気は、先ほど執行された処刑によってやや濁っている。
「あァ? どうしたんだよ、急に」
師父と呼ばれて振り返ったのは、弟子を置いて数歩先へ進みかけていた長身巨躯の男。おお、その人相の凶悪なことと言ったら! ここ百年で自警団が処刑してきた罪人の中にも、ここまでの面構えはおるまい!
逆立つ赤毛とやたらめったら発達した犬歯は、この世の誰も彼もを叩き伏せるために生まれてきたケダモノのごとし。常に心臓を狙っているような鋭い四白眼、人の腹を低音で殴りつける重い声、立っているだけで野良犬も尻尾を丸めて逃げていく、はたしてこの男、人か鬼神か死神か!? という風情だ。
「だってほら、これ、人を殺して死刑にされたんですよ」
そんないかにも獰猛そうな男の様子など構いもせず、少年はくいくいと服の袖をひっぱって、さらし首を指さす。肝が据わっていると言うより、何か根本的に、善良なる一般市民と生きている世界が違う風格があった。
「そりゃお前、誰かを殺すやつが近くに居たら、こっちを殺しに来ないとも限らねえだろ。そういう時は先に逃げるか、先に殺すかだ」
「そうじゃなくて、ですね」
じゃなければなんだろう? 自分が訊きたいことがよく分からなくて、ウー少年は頭を掻いた。うまく質問がまとまらず、口の中でうにゃうにゃと舌が空回りする。
「ほら貼り紙見てみろ。この者、酒屋の主人とその妻、息子の一家三名を惨殺せり。もって斬首刑とす、だと。金欲しさの強盗殺人だな。そりゃ死刑になるだろ」
「はあ」
一瞬、師父はそういうのはやらなかったのかと訊きそうになったが、それも違うなあと思い直す。金が欲しいなら、コージャン師父は用心棒でも助太刀でも、その剣技を売り込んで稼ぐアテがあるはずなのだ。
「それより飯だ飯、少し早いが、どっか店が開いてるだろ」
考えのまとまらない弟子を促して、凶悪な面構えの偉丈夫こと、コージャン・リーは村の中心部へ向かった。
長年世話になった友人(兼、雇い主)の元を離れて数日。
近道をしようとして山で遭難したり、出会った山賊を斬り殺したり、妙な妖怪の巣へ迷い込んだり色々あったが、ようやくまっとうな人里へ着いたのだ。
近代化いちじるしい大閻帝国は、きちんと整備された街道を通れば、それなりに安全な旅が出来る。不安だったり金銭に余裕があれば、護衛を雇ってもいい。
それはそれとして、この師弟はなまじ人を殴ったり殺したりが得意で、ついでに奇縁悪縁に恵まれているためか、かなり災難に取り憑かれた旅をしている。
「歓迎光臨ー」
店主と店員は師弟、というかコージャンと目を合わせないようにしながらも、きちんと応対してくれた。人もまばらな店内に、新しい油と調味料の匂いが満ちていく。
生米と雑穀を豆乳で炊いた粥、大根と菜っぱの漬け物盛り合わせ、塩焼きの川魚と、黒酢醤油のタレに浸けた蒸し茄子。
運ばれてきた料理をつつきながら、コージャンは先ほどウーが言ったことに、ふと思いを馳せた。
(人殺し、ねえ。なんで今さら、そんなこと訊きやがる)
初めて人を殺した時、やったぞ! と達成感に満ち溢れていたことを、コージャンはよく覚えている。六歳のガキがたった一人で、〝ばあちゃん〟と〝かあちゃん〟を殴った不届き者をこらしめたのだ。我ながら、見事な背後からの奇襲だった。
――おれは家族を守ったぞ!
これなら、大きな町の祝春祭礼にだって連れて行ってもらえるだろう。〝とうちゃん〟が使っている、青い石の長剣をねだるのもいい。
浮かれていた自分は、祖母が既に死んでいることには気づかなかった。
うつぶせになっていたから、胸を刺された傷が隠れていたのだ。血は羊毛の絨毯と、それを彩る青や黄色の鮮やかな染料に隠されてしまっていた。
幼い自分はといえば、見知らぬ男の死体をめった刺しにし続けていて。
「Кям」
六歳まで、コージャンはそう呼ばれていた。母は目の上に青あざを作って、服を破かれ肩をはだけながら、息子を止めようとして声を上げる。
だというのに、心底バカだったその時の自分は、血みどろに染まった顔に満面の笑みを浮かべてこう言ってしまったのだ。
「Ха Аегее моw?(かあちゃんもやる?)」
「それで師父、この近くで会う人って、誰ですか?」
あらかた朝食を平らげた弟子の声で、コージャンは物思いから戻った。
「あ? 言ってなかったか。うちの親父、お前の爺ちゃんってことになるな」
「おじいちゃん!?」
ぱちんと目を見開いて、ウーは熟れすぎた果実のように真っ赤になった。ワクワクが今にもはちきれんばかりだ。
「おじいちゃん……そっかー……おじいちゃんかあ」
しみじみとその言葉を舌の上で転がす弟子を、なんだか不思議な気分でコージャンは見る。二人は剣術の師弟だが、同時に義理の親子でもあった。
師弟としては一年そこそこ、親子としてはここ数ヶ月の関係だが、父に知らせておくべきだろうと思った。と言っても、数年に一度会うか会わないかの親子だが。
「でも、ちょっと驚きました。師父は、えっと、お父さんは、元の家族とは二度と会わないのかなって……思ってましたから」
「ん? ああ」
そういえばちゃんと説明していなかったな、とコージャンは苦笑する。
その表情は幼児が見ればひきつけを起こしそうな恐ろしさだったが、幸い目撃者は慣れきっているウー少年だけだったので、自警団が飛んでくることもなかった。
「俺が故郷を追い出されて、神魁流に預けられたってのは言ったけどな。捨てられたって訳じゃねえからなあ。ガキのころは数ヶ月に一回、母ちゃんや父ちゃんが会いに来たもんだが。武館(道場)を出てからは、そういうこともなくなってよ」
久しぶりに父と再会したのは、半年以上前、耿月山を数ヶ月出入り禁止にされた頃のことだ。偶然の出会いだったが、その時に弟子を持ったことを話した。
「どんな人ですか?」
「会えば分かる。この村を出て、少し山の中の客棧だよ」
その名を、〝陰陽客棧〟と言う。
◆
第一印象は、「走る岩」だろうか。
ウーは見たことはないが、南限の砂漠に転がっていそうな赤い大岩が、ずんぐりむっくりした体躯にも関わらず、軽快な動きでやってくる。
「Нимий гхüü паих, Унл скухалгаахаан!(息子よ、久しぶりだな!) Ыи чамаиг садай wаира.(逢いたかったぞ) 」
大きな護眼鏡に隠れていても、満面の笑顔は明らかだった。よく日に焼けた赤銅色の肌と真っ白な髪が対照的で、大きく丸い鼻が妙に可笑しい。
ずんぐり体型に見えたのは、着込んだ旅装と左右背中に抱えた荷物のせいらしい。
「ま、待った、待った。あー……Ыхüлеей wаи(待ってくれ)」
抱きしめようとしてくる相手を制して、コージャンはウーが聞いたこともない言葉を口にした。師父の意外な知識に目を丸くしていると、更に異国の言語を続ける。
「Зелхенедхуи,…Убаап.(もっと……ゆっくりな)」
「ああ、お前はだいぶしゃべれんくなっとるんだったな」
すっと笑顔を消して、相手の男も軒猿語になる。
待ち合わせ場所に指定された、陰陽客棧の大庁。受け付けの待応生は席を外しているらしく、他に従業員らしき者の姿も見えなかった。
「しょうがねえだろ、親父以外使う相手いねえんだし」
「で、ワシに知らせたいことってのはなんじゃい、ツォルリゴ」
「そりゃ上の兄ちゃんだ」
「あ? お前はユスじゃったか?」
「そりゃ男になった姉ちゃんだ」
「じゃあウルアミラルトか、ニグサヤか、カーチールカールタイ?」
「全部兄ちゃんだっつうの! ヤトガの次のカイムタガーンだよ俺は!」
「おお! 人殺しのカイム!」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねー! 事実だけどよ」
従業員不在で幸いだったが、聞いていたウーはそれどころではない。コージャンはそれを察して、ようやく説明を始めた。
「あ、俺のな、コージャン・リーってのは閻国名なんだよ。元々の名前はえーとな、ウーラン・トーラアミギルリ・カイムタガーン(Улаан・Тоолх Амйгилри・Кямтгаан)ってんだ。神魁流に預けられる時に、呼びづれえってことで新しくつけられてな」
「そしてワシはエンギン(Енгиин)。こいつを入れて十二人の息子と六人の娘、四人の妻を持っとる。ま、あまり家に帰っとらんがな。ワシらは元々、西の也亦遜許地方に住むカリッサ族なんじゃ」
「かりっさ? 十二人の息子と六人の娘と……え? 奥さんが四人?」
一夫多妻は閻一般にはない制度である。示された家族像を理解できず、ウーは目をぱちくりさせ、くるくると頭を振った。異文化にあてられて目が回りかけている。
大閻帝国は軒猿民族を中心とする多民族国家であり、多くの少数民族を抱えている。その一つ、カリッサは帝国西端に居住する遊牧民だ。
彼らは歴史に名高い最後の遊牧帝国・ジェギュンの末裔として知られ、閻国他にも広く分布している。コージャンの出身は高地定住族で、比較的閻に親しい。
「親父、またガキ作ったのかよ……会ったこともねえ兄弟ばっか増やしやがって」
「お前だって作っとるじゃないか、しかもこんなデカイの、いつの間に」
「手紙に書いたろうが。血は繋がってねえんだよ」
「つながっていようがいまいが、息子は出来るもんだ」
父子の会話を傍で聞きながら、ウーは気を取り直した。失礼があってはならない!
「僕はウォンです。コージャン・ウォン。ウーって呼んで下さい」
「おお、孫よ! ワシのことはÖрöö でいい、おじいちゃんという意味だ」
「オローさん」
「それじゃ、おじいちゃんさん、じゃい!」
けらけらと朗らかに笑うエンギンに、ウーは少し緊張をゆるめた。
「オロー、お父さんの兄弟も、みんな顔が怖いんですか?」
「いんや。こいつは二人目の妻の子なんじゃが、その妻のじいさんと、ひいじいさんがこういう顔だったからな。そっちに似たんだ。体は……なんでこんなにデカくなったのだか。昔は普通だったから、神魁流のせいなんじゃろな」
「へぇー」
「なあ親父、こいつらは?」
ウーが初めて聞く師父の来歴に感じ入っていると、当のコージャンは何か見つけたようだった。エンギンの大荷物に隠れていた、小さな男の子と女の子だ。
どちらも毛皮で作った帽子を深々とかぶっているが、くりくりした大きな瞳で、よく似た顔をしている。おそらく双子なのだろう、歳は五歳ぐらいだろうか。
「この子らはな、女の子がモノン(Моноон)、男の子がダイファム(Даифам)」
「ああ、七番目と八番目の孫ってか。名前がナナとハチ、ぐらいそのまんまだ」
「そういうことよ。双子は縁起がいいから、こうして旅に連れてきておる」
「そうかい」
言いながら、コージャンはしかめっ面をした。と言っても、それは彼をよく知るウーやエンギンだから、分かることだっただろう。
双子の方は、感情のうかがえない目で、じーっとコージャンを見つめている。直立不動。生きたまま彫像になったように動かない。
様子がおかしいなあ、と最初に気づいたのはウーだった。
「あの、オロー。この子たち、もらしてます」
「Юуwе(えっ)」
「なんだと」
よっぽど、初めて会う〝カイムタガーンおじさん〟が怖かったのだろう。泣くことも出来ず固まった幼児を前に、三人はしばし奔走するはめになった。