第二節 この世に壊れぬものなく、戻らぬものもなし
(ただでさえ近眼だったのに、失明でもしたのかしら?)
その可能性に思い当たり、チャ・ノイフェンは慄然として立ち止まった。
気がつけば一寸先も分からない暗闇に居て、自分の顔を触る手すら見えない。もはや暗すぎるのではなく、視覚その物が失われたと考えた方が自然だった。
「誰か……」
声を出そうとして、彼女は思い留まった。危険な何かの注意を引いてしまったらと考えると、しゃっくりみたいに喉がおかしくなって、もう叫ぶ気にはなれない。
ここは一体どこなのだろう。寒くて、足元はごつごつと固く、岩肌のような感触だ。どこかの洞窟にいるのだとしたら、この異様な真っ暗闇も納得が行く。
しかし、自分は少し前まで、姉と一緒に喫茶店へ入ったはずだった。それがなぜこんな所に? ノ フェンにはまるで分からない。
――ここは生と死の狭間、〝中有〟の世界。外法重魂体イン・キュアに【魂】を取り込まれたものが送られる、いわば牢獄だ。それを彼女が知る由もない。
取り込まれた者は本来、醒めることのない眠りに就く。ところが、仙人に手を加えられた特異魂魄者であるノ フェ は、誤作動によって起きてしまった。
それが幸か不幸かは、まだ闇の中。
◆
瑣慈に対する殺意を口にしたものの、それは今更な話で。
さておき、狗琅真人はコージャン・リーを剣に変えられたことに、さほど怒りを感じていなかった。もちろん最初は愕然としたが、むしろ好機と思い直す。
「ウォンくん、あの剣を手に入れるんだ」
「言われるまでも!」
智能人形が武器庫から運んできた得物を見繕いながら、ウーは応じた。
「まあ、あの状態でも、棺に収めてやったほうがいいわよね」
女殺師・白魂蝶は、二対一組の黒い櫛に内力を込める。櫛に加工されてなおも生きる樹霊は、それを受けて凶悪な鉄爪に変形した。
特注の樹巧暗器〝黒翅風〟、彼女愛用の武器である。
「やめてくださいよ、お蝶さん!」
「でも、剣の材料にされたんでしょ? そりゃ、ぼうやにはお気の毒だけど」
「不然」
固い声で狗琅真人は異議を唱える。
儚き定命の者を【大事之物】に選んだ以上、いずれ命尽きることを予期して、若仙は幾つかの計画を用意していた。
コージャン・リーを不朽の剣に造り変えるというのも、その一つだ。
彼の【魂】を注いだ剣を鍛造し、蔵魂器――【魂】ある道具――にしてしまえば、法に記された「人間」の定義から外れる。
すなわち、冥府が定めた寿命が適用されなくなる。
忌々しいことに、幾つかあった問題点は瑣慈によって解決した。
「形は変わってしまったが、まだリーくんは生きている」
もっとも、ただの蔵魂器では人格と肉体が伴わない。
まず彼の人格を剣に込められた【魂】から引き揚げ、変化術を施して人の肉体を作るのだ。歳経た狐などの精怪や、妖怪変化が人間に化けるのと同じ要領である。
名実ともに、コージャンは「剣の変化」に生まれ変わるが、余命十年などというふざけた話は言うに及ばず。共に悠久の時さえ過ごせる。
自分は彼を愛玩物として侍らせたいのではない。この世で健やかに生きて、数年に一度顔を合わせてくれるなら、それで不足はないのだ。
「ホントに? あんな状態で?」
「フム。白魂蝶女士、君は反魂されてよみがえった人間を、生前とは別の人物と考えるかネ」
人は誰でも神灵から【魂】を賜り、定められた寿命の内は、死してなお反魂により生き返ることが出来る。白魂蝶は怪訝そうに眉をしかめた。
「はぁ? 【魂】が反って来るなら、同一人物でしょ」
「よろしい。ではウォン君、キミは私の手で不死身に生まれ変わる前と後では、自分を別人と思うかネ」
「そんなワケないじゃないですか。僕は小さい時のことも覚えてるし、性格とかも特に変わってないです」
「だろう?」
白魂蝶と同じく、ウーもまた眉間にシワを刻む。そんな二人を前に、狗琅真人は我が意を得たりと満足げだった。
「その人がその人であると断言するに足る物は、記憶と自我と自己認識だ。万神万死が手にしている物は蔵魂の剣、大なり小なりリーくんの意識や自我が残っているはずだ。取り戻してくれさえすれば、私が何とかしてみよう」
そこで「ちょい待ち」と白魂蝶は口を挟む。
「あれが蔵魂の剣って決まったワケじゃないでしょ。単に材料にされただけかもしれないのに、何でそう言い切れるのさ」
「? 見れば分かるよ。あの剣は霊魂を宿している」
「あ、ホントだ。なんかぼや~って青く光ってますね」
「いや見えないって!?」
若仙と少年にきょとんとした表情を向けられ、白魂蝶は〝自分がおかしいのか〟と一瞬ぐらついたが、即座に気を取り直した。こちとら単なる凡俗なのだ。
「フム。狭間を通った程度では、さほど霊識が深まらなかったようだネ」
「お蝶さんも、一回冥界に行ってみるといいかもしれませんね」
「絶対嫌。それより、ほら、あいつら迎え撃つわよ!」
釈然としないものを覚えながら、白魂蝶は先頭を切った。
◆
自分はもう死んで、地獄に落ちたのだろうと思いながら、 フェ は闇をさまよい続けていた。時々、人の形をしたものが倒れているのに行き遭うが、どれも生きているのか眠っているかも分からない。
飢えと寒さと喉の渇き、それらをも上回る強烈な眠気。既に何度か眠りに落ちてしまったようだが、段々と落ちる間隔が短くなっているようだ。
次に眠ってしまったら、もう二度と目を覚まさない気がする。
不意に目の前の闇が開けた。眩しさに目を細めながら、反射的にそちらへまろび出る。白い、明るい、何か……銀色の、金属のようなものが辺りに広がっていた。
染み入る光に目が慣れてくると、そこは一面ぴかぴかした鋼の洞窟だ。座り込んだ真正面に、誰かがあぐらをかいていた。見知った顔に思わず安堵する。
「 さん」
呼びかけた瞬間、相手の名前が フ の中から消失した。
知っているはずの相手だ、一度見たら忘れられない強烈凶悪な人相で、でも息子にはわりと甘くて、それから……それから……何だったっけ?
いや、それよりも重大なことがある。
(――私の名前、なんだったかしら?)
親は? きょうだいは? 生まれ育った土地は? 生業は?
どれも思い出すのは簡単に思えた、当然知っていると疑いもなく感じていた。だが、今改めて自問すれば、何一つ答えが出てこず、己の存在感がぐらつく。
(私は……私は誰!?)
はもはや、己が何者かのよすがすら失って、力の限り悲鳴を上げた。
◆
青々と柔らかな芝生と、いくつかの果樹や花々。季節に関わらず暖かな陽光が降り注ぐこの庭園は、殺風景極まる守墓人洞で貴重な憩いの場だ。
だが今は、戦いを前に張り詰めた空気に満ちている。
瑣慈とイン・キュアが中庭に足を踏み入れると、ウーと白魂蝶が待ち構えていた。
この洞府は四方どの棟に行くにも、必ず一度は中央に設置されたこの庭を通らねばならない。更に、嘆蝉道人の助力を得るには「水辺のある場所」が望ましい。ここならば、景観のため池も設置されており、条件として申し分なかった。
「来たか、紛い物」
「七殺不死、コージャン・ウォンです」
少年が手にしているのは、木製の柄に赤い房飾りがついた紅纓槍だ。対するキュアが手にする〝赫煉利剣〟は長さ一公尺ほどの大剣。
ウーとて、徒手空拳で挑むほど馬鹿ではない。長さ七、八尺の槍ならば、同じく剣を取るよりはまだ有利というものである。
「そして私は黒爪虎が一番弟子、白魂蝶。あんたが喰った妹のチャ・ノイフェン、奪い返す!」
白魂蝶が奔り、風が起こった。地下で待機している狗琅真人が仙術で起こしたものだ。瑣慈が毒香を使うならば、決してあの女を風上に置いてはならない。
彼女はコージャン・リーのような無双の剣技も、七殺不死のような莫大な内力もなければ、不死身な訳でも何か術が使える訳でもない。
ただ、武術の習熟において、ウーよりも遥かに上を行っている。
女殺師は猛攻を開始した。柔らかく、素早く、遠くへ伸びてしなる打撃――手の甲ではたく踤掌、裏返して平で叩けば拍掌、上へ向けながら指先で刺せば穿掌、手刀で断ち切る劈掌、捻るように突く鑚掌。その全てに、鋼も切り裂く鉄爪がある。
動作の組み合わせによって百手以上も変化する攻勢を、しかしキュアは巧みな脚捌きとわずかな上体の移動だけでかわしていった。剣を抜いてすらいない。
「師父を返せッ!」
横合いからウーが槍を突き入れた。キュアはそれも余裕を持っていなす。
「ならん。これは瑣慈の宝だ」
脇に抱え込む形で、キュアは槍の柄を押さえた。奪い返そうとウーが力を込めるが、びくともしない。白魂蝶の攻めは続いているが、男は意に介さなかった。
この戦いを見守っている瑣慈が、いつ手を出してくるかこちらは気が気ではない。ウーは少しでも相手の気をそらすべく、口を開いた。
「お前は師父に切り刻まれて、死ぬに死ねなくて苦しんだ、って言ったな」
「ああ。我が父を殺したその上に加えて、な」
ぎしりと、キュアが抱えた槍の柄が不吉に軋む。
「離天荒夢を殺したのは間違いないけど、苦しんだのは師父のせいじゃない! あの瑣慈って邪仙のせいだ!」
コージャンが「ちゃんと死なせてやれなくて、すまなかったな」と言ったことを気にしていたウーに、狗琅真人はこんな話を聞かせた。
――「死者蘇生は私の専門分野なんだ、あの場では首を落とされて反論している暇がなかったが、万神万死が味わった地獄の苦痛は、つまり瑣慈の仕業だよ。手違いなのか故意かはともかく、彼はよみがえらされた瞬間に、『死んでいた間、絶大な苦痛に苛まれていた』という誤った記憶が形成されてしまった」
「師父を恨ませるために、そんなことを!?」
「そもそも反魂自体が、一歩間違うとよみがえった者が破壊的な苦痛を受けてしまうのだよ。だから反魂法は、仙人以外には決して知らされることはない」――
「それが事実だとして、俺に何の意味がある」
キュアは取り付く島もなかった。
「狗琅真人とコージャン・リーは我が父の仇であり、貴様は父上の研究成果を盗んで造られた紛い物だ。俺の味わった痛苦など、復讐する理由のついでに過ぎん」
不意に、キュアは槍を持ち上げ、それを握るウーごと投げ飛ばした。耐えきれず柄が折れ、残った部分で迫る白魂蝶の胴を突き飛ばす。
たまらず地面に転がった二人に、キュアはつまらなさげに鼻を鳴らした。瑣慈もそれをニヤニヤと眺めている。と、足元を細い稲妻が数条落ちて抉った。
「タイタイの雷法だ。相変わらず下手くそみたいだねえ」
放電や等離子体を武器として揮う雷法は、仙人にはありがちな攻撃方法である。ただ、狗琅真人はかなり救いがたい没有控球力なのだ。
後詰めで待機しているのも、白魂蝶が「一緒にいられると足手まといだから」と提案したためである。
「……仙人は、記憶を消すなんて簡単だ」
体勢を立て直しながら、ウーはキュアを睨みつけた。狗琅真人が離天荒夢から受けた仕打ちを思えば、この男が同じような目に遭わされていないはずがない。
「父上だなんて言っても、お前は実験体だったんじゃないか! 酷いことされたはずなのに、きっと都合良く記憶を……」
「ならば自分は違うとでも言うのか?」
「いじられましたよ、ええ! でも」
――それはそれで、嘘じゃねえ。あいつはあいつなりに、俺に対して誠実だし情もある。俺はそれを信じているから、記憶をいじるだの消すだのやらかしても、あいつなりの言い分ってモンがあるだろって思うのさ。
「……師父は、狗琅真人を信じてる。だから、僕も信じる」
「うすっぺらな信頼だな。考えなしの言い草だ」
「違う! 狗琅真人も師父を助けたいんだ、それだけは嘘じゃない!」
利害の一致。今この場で戦うのに、これ以上などいらぬ。
槍を無くして素手で挑みかかるウーを、キュアは軽くあしらった。半身をずらして右手側に立つと、伸び切った拳が戻る前に腕を取り、逆側へ折り曲げる。
「――ぎっ!?」
血と骨髄がしぶく見事な開放骨折。腕を放し、喉を肘撃すれば、ウーはもはや声も上げられない。キュアは服を掴み、倒れることも許さなかった。
上体を引っ張られた少年の首が掌握される。一瞬、男の全身にみなぎった内力がそれを握り潰した。絶命したウーは、手を離され、地面に落ちる間に復活する。
「ったく、どいつもこいつも!」
入れ替わりに白魂蝶がキュアの前に立った。両手の鉄爪を構えるが、どう仕掛けたものかと攻めあぐねる。ウーは苦い思いで、女殺師の背中を見るしかない。
「きゅうちゃん、せっかくの剣、使わないともったいないだろう?」
「ちゃんはやめろ。だが、そうだな」
瑣慈に言われ、キュアはおもむろに鞘を払った。濡れたように輝く刃がさらされ、ウーは小さくうめきを上げる。剣身に刻まれた赤龍も荒々しく、美しい。
〝赫煉利剣〟の切っ先はゆるやかに弧を描き、ウーには見覚えのある構えを取らせた。矢を引き絞るがごとく、大きく柄を引いた独特の構え。
総身を弓弦となす必殺の〝迎風月鈎牙〟、まごうことなき神魁流の業である。
(……師父……!)
瞬間、これが蔵魂の剣かとウーは理解した。【魂】が磨き抜いた技巧と、それを記憶した魄が、剣を媒介に他者の肉体で業を再現する……。
何か言わねば、と思ったが、何を言う間もなかった。
ぶつかり合い、交差は一瞬。妙に粘つく血飛沫が芝生の青を汚す。
「かはっ、はっ……の」
白魂蝶は脊髄や心臓といった致命傷をなんとか避け、代償として右脇腹を串刺しにされていた。苦痛を堪えながら、彼女は悲鳴ではない何かを喉から押し出す。
「ノイフェン!」
内力とはすなわち【魂】の力。キュアがそれを喰らって操る外法重魂体である以上、蓄えた【魂】が手元の武器に注がれるのは必然。
〝今なら聞こえる〟という双子の直感に従って、彼女は妹に呼びかけた。
◆
ぱちりと、闇の中で火花が弾けた。ちりちりと脳の奥底で何かが閃くような感触に、 フ が何だろうと思う内に、もう一度弾ける感触がする。
火花の音が、くっきりと フェ に何かを言っていた。
――ノ フェ 。
「なに? なんなの?」
涙が出るほど懐かしい声だった。胸の中がじゅわっと炭酸のように熱く、騒がしくなって、今すぐそちらへ向かって駆け出したい。
――ノ フェン!
ああ、間違いない。この声は。
「わた、しの……名前?」
彼女がその音を正しく認識した瞬間、失われかけたものが一気に戻ってきた。
私の名前はチャ・ノイフェン。チャ・スーフェンお父さんと、ヤン・ノイ爸爸の娘。白魂蝶という【魂】を分けた双子の姉が一人。生まれは媽京、育ちは武海。新しく開いた学習塾は、ただいま生徒募集中!
ああ、それでは、前の前にいるこの誰かは。
「コージャンさん! そうよ、あなたはコージャンさんだわ! どうしてここに? いえ、そもそもここはどこ? ねえ、起きて下さい。私たち、帰らなきゃ。うちの姉さんや、あなたの息子さん、ウォンくんが待っているんですよ!」
「ウー……」
ぼそり、と。あぐらをかいている男が、息とも声ともつかぬものを吐く。その時になって、ノイフェンは初めて相手の姿を正しく認識した。
それは、幾千幾万の刃で形作られた金属の像だ。背中と尻は鋼の洞窟と一体化していて、どこから来るとも知れぬ明かりにぎらぎらと光っている。うかつに手を伸ばせば、ざっくりと切り裂かれそうで、彼女は不意に怖くなってきた。
「狗琅……」
「そうそう、クロウさんも。……えっと、なんか様子がおかしいけど、コージャンさんですよね? あ、私分かります? ほら、学習塾のチャですよ!」
鋼の洞窟が明滅する。ただでさえ低かった気温が更に下がる。嫌な予感がして、ノイフェンは自身の体を掻き抱いた。ぎゃり、と金属がこすれる不快な音がする。
それは、刃物の像になったコージャン・リーが、閉じた瞼を開ける音だった。




