第一節 不死の生き甲斐
「首無し人鬼からようやっと、仙人らしくなったじゃないの」
白い道服と水色の背子姿になった狗琅真人を見て、女殺師・白魂蝶は安堵したように述べた。「そうしてるとやっぱ色男だし」とも付け加える。
「酷使し過ぎたので、修理中だった躯体だがネ」
そう言って狗琅真人が撫でた片頬には、うっすらと亀裂のような赤い痕があった。女と間違えそうに端麗な容色は、その程度では損なわれない。
耿月山は守墓人洞の、ウーには勝手知ったる地底温水湖。若仙の棲み家は師弟が出ていった時のまま、変わらず無愛想で殺風景だった。
ただ、そこにコージャン師父の姿はなく、代わりに白魂蝶がいる。
「智能人形だっけ? あっちも予備の体なんじゃないの」
「それは予備のまた予備に過ぎなくてネ、機能が制限されているんだ。少し具合が悪くても、こちらの方が何倍もマシだよ」
「これでいつでも反撃に出られますね!」
勢い込むウーに、狗琅真人は「いや」と軽く首を振った。
「まずは相手の居場所を特定しなければならない。私は占術のためにしばらく籠もるから、君たちは食事でも取って、戦いに備えておいてくれないかネ」
「えー。その場のノリで『反撃開始だ』とか言っといて、まだですか」
「ウォンくん、戦いは準備が肝心だとリーくんから聞いてないかネ?」
「準備ついでに、着替え欲しいんだけど」
白魂蝶は自分の一件式洋装を指す。
「妹の服じゃ戦いづらいのよ、私」
「では君の衣装箪笥から何か持ってこさせよう」
「はぁ? どういうこと」
「城隍神に頼んでそちらの座標と繋げてもらうんだよ。人形はそこから適当に服を見繕うだけで、座標を私が知る訳ではないから安心して欲しい」
城隍神とはまたの名を土地公といい、土地を管理する神灵のことである。大都市の社会基盤を管理する都市樹霊もその一種だ。
「だったら箪笥繋げたトコに私を呼びなさい! 自分で選ぶから!」
「分かったよ」
「……なんか、思ったより落ち着いてますね、狗琅真人」
ぽたり、と。一滴の冷たい汗のように、ウーはつぶやきを漏らした。若仙と女殺師の目に映る少年は、四肢に力を込めて挑むようにこちらを見ている。
その手足に張り詰める力は、隠しきれない不安と緊張だ。
「師父は拷問されたり、殺されたりしてるかもしれないんでしょう!? 早く僕たちが探して、やっつけて、助けなきゃ!」
在りし日に見た雪色の稲妻が、ウーの脳裏で繰り返し反響している。それは今日までずっと、常に彼の心の奥で閃き続け、輝き続ける、かけがえのない物だ。
仙人は自ら目標を持って不死を選ぶ。
では、生まれついての不死は何を目標にして生きれば良い?
ウーにとって、自分を斬り殺したコージャンの剣がその答えだ。
「僕はまだ、師父の剣を受け継いでいないんです。今あの人が死んでしまったら、その剣がこの世から消えちゃう、無くなっちゃう。そんなのは絶対嫌なんです!!」
「リーくんは強いんだ、簡単に殺されたり壊れたりしない」
陽が東から昇るのと同じぐらい当然という顔で、狗琅真人はのたまった。それは虚勢でも空元気でもなく、心底〝そうでなければならぬ〟と凝り固まった岩の一念だ。
その異様さを、ウーは小さな違和感でしか受け止められなかった。それすらも、横からあっけらかんと声をかけてきた白魂蝶によって霧散する。
「私なんて、妹がほとんど死んだようなもんだしねー。落ち着きなさいよ、とにかく相手の居場所を突き止めなきゃ、どーしようもないんだからさ」
ぽんぽんと肩を叩く女殺師に、ウーは「でも!」と言い返そうとした。
「まあ、放っておいても、連中はここに来るよ」
「へえ?」
狗琅真人の一言に、白魂蝶は興味深げに片眉を上げた。
「あの女は術でリーくんを深く支配した。そこまでするなら、記憶を覗き込むなんて簡単さ。つまりここの場所も、私の本体も筒抜けだ」
「確実にあんたを殺すため、こっちに来るしかないって訳ね」
「でも、攻めてきてからじゃ、きっと師父は……」
「善処する、としか言えんネ」
ばきん、と硬質な破砕音――ウーは足元の石畳を踏み割っていた。全身から発する苛立ちの引力が、今にも彼を暴発に導こうとしている。
「なんでさっきからそんなに冷静なんですか、クソ仙人! 師父は【大事之物】じゃないんですか!」
「慌てても何もならない、むしろ判断を誤れば、助かるものも助からないからだよ」
顔を真っ赤にして声を荒げるウーを前に、狗琅真人は変わらず凪の面もちだ。それがますますウーに火をつけた。背筋のバネが不穏にたわみ、弾け――、
「安穏鎮心」
少年が動く一瞬前、若き仙人の声が水を打った。しん、と広がる静寂の波紋がウーの脳髄にひんやりと染み渡る。
「すこしは頭が冷えただろう?」
「……クソ仙人。またそうやって、勝手に僕の頭の中いじって」
腹立たしいはずなのに、心に熱が沸いてこない。意識を集中すればもう一度怒りが燃え立つかもしれないが、今それをやる無益さは、流石のウーにも分かった。
「今日は後回しにしますけど、二度とやらないでください。あと、いいんですか?」
「何がだネ」
「嘆蝉さんと会う前に、自分の昔のこととか、たくさん話しちゃったじゃないですか。あれ、本当なら言いたくないことでしょ。消さなくていいんですか?」
どういうこと、と物言いたげな白魂蝶の視線は無視された。
「そんなことはしないよ、今までだってしたことはない。それを知っていることで、君たちが困る、忘れたいと言うなら別だが。お互い、特に害はないだろう」
「……じゃあ、実験で僕の記憶をいじったのは?」
「死の苦しみの記憶なんて、有害極まるからに決まっているいるだろう。戻せと言われても断るよ」
「ちょっと待った」
白魂蝶はずいっと身を乗り出して、己の存在を主張する。
「さっきからの話、何? 狗琅真人は人の記憶を操れて、あんたの記憶をポイポイ消したり差し替えたりしてたワケ?」
「前者はそうだが、後者は違う。差し替えるものも特に無いしネ」
「最悪」
とんでもなく臭くて汚くて耐え難いものに出会ったように、白魂蝶は目鼻口を顔の真ん中にくしゃっと集めた。美人が台無しだなあ、とウーは残念に思う。
「でも、狗琅真人。あなたは、離天荒夢に実験された苦しい記憶を、そのままにしてるんじゃないですか? 今からでも消せるのに」
「ああ、それかい」
二人にはよく見覚えのある顔で、狗琅真人は微笑んだ。玲瓏と危うい、背筋が寒くなるような沸き立つさざなみの破顔。
「これは、大事に取っておかなくてはならないんだ。《《返す相手》》がいるからネ」
◆
着替えを終えた白魂蝶は、食堂を探して通路を彷徨っていた。
灰色を基調とした旗袍に、金糸で綴れ織られた花辺束腹を巻いている。妹と違って近眼ではないので、眼鏡は外していた。
「仙人の棲み家って、もっと面白い場所だと思ってたわ……」
窓も装飾もない灰白色の石壁が延々と続く光景にうんざりしながら、こっちだっけ、あっちだっけ、と幾度となく角を曲がることしばし。
「なにかお困りかネ」
にゅっと壁の中から狗琅真人が現れ、白魂蝶は思わず殴りかかる所だった。
「気持ち悪い出方してんじゃないわよ! あんた占術は?」
「分身をまた分割して飛ばしているんだ。どうも道に迷っているようだったのでネ」
「ご親切にどうも。まあいいわ、訊きたいことあったし」
白魂蝶は狗琅真人の耳を掴み、壁から野菜のように引っこ抜いた。「何をするんだネ」と問われたが、それは無視して手を離す。
しまった、顔が近い――その動揺を悟られまいと息を整え、彼女は口を開いた。
「あんた、ウォンの〝痛覚〟になんかしてる?」
「何か、とは?」
「トボけんじゃないわよ。我慢強すぎるでしょ、九歳児が」
ウーは実年齢は九歳でも肉体は十五歳、精神もそれに引きずられ、歳に対して落ち着いている。九年分の経験しか持たない十五歳、と言い換えても良い。
そんな事情を、教師として師弟に接してきたノイフェンを通じて、白魂蝶も理解している。それを差し引いても、ウーの苦痛に対する耐性は異常だった。
今日だけで、ウーは頚椎を折られ、内臓破裂するまで蹴ったぐられた。それなのに、声を上げこそすれ泣きもしない。
「痛みは体の危険信号と言うだろう。だが、不死の体にとっての危険とはそもそも何か? 彼の魄がそれを学習したなら、痛みに強くなるのは必然のことだよ」
「理屈はね。で? あんた、学習するまで、何やったの」
正面から顔を見ないよう、必死に視線を逸らしながら白魂蝶は言った。
何しろこのクソ仙人ときたら、顔容だけはことのほか麗しいので、うっかり「なんで私、こんな天女みたいな美形と口きいてんだろ」と訝しんだら最後、頭が呆けて思考が吹っ飛んでしまうに違いないのだ。
「死因検証実験のことかな。どんな死に方をしても間違いなくよみがえるよう、繰り返し試したんだ。学習はその際に完了したんだろう」
その言葉が指し示す事実を察して、白魂蝶は表情を消した。
「あの子は、あんたのお人形じゃないのよ」
この二ヶ月、妹の生徒としてウーのことは傍で見ていた。だから情でも移ったのだろうか? この仙人が何やら哀れな来歴の持ち主らしいのは分かったが、白魂蝶としてはウーや妹の方がずっと気掛かりだ。
コージャン・リーが死んでも自分は「ま、いっか」ぐらいにしか思わないが、その息子であるウーは気の毒なことになる。
「今はネ。私は大事な友人の一人息子として、彼を尊重している。リーくん以外、誰もそうは思ってくれないようだが」
「そうね、あんたの取り柄が顔の良さ以外にあることを祈っとくわ」
離天荒夢とかいう邪仙とこいつと、何が違うのだろう。白魂蝶は吐き捨ててその場を立ち去り、また道に迷った。
◆
通路で遭難しかけた白魂蝶は、見つけた空き部屋でそのまま眠り、一夜明けてウーに発見された。案内された食堂で、白く丸いものが浮いた椀を受け取る。
「さっき鍋に石入れてなかった?」
「仙人の台所じゃ、石だって食えるようになるんです」
「そ。……なにドヤ顔してんのさ」
「いえ、別に」
薬のような緑茶のような味わいの汁に、もちもちした団子のようなもの。よく分からないが、飽きの来なさそうな味だ。
ウーはなぜか、自分で山ほど入れた辣椒粉に苦しみながら食べている。
「ごちそうさま、チビクロ(小玄)ちゃん」
「ウー(少玄)です、ウーって呼んでください!」
「じゃ、私のことも蝶々じゃなくてお蝶って言いなよ」
そんな他愛のないやり取りのさなか、ふっと何かが切れた。灯りが瞬いたような、一瞬だけ全ての音が消えたような、世界が変質したという気配。
「来たよ」
食堂の入り口に、忽然と狗琅真人の姿が現れていた。
「調子はどうかネ?」
「いつでも」
「すぐにでも!」
二人が応じて立ち上がった瞬間、そこは食堂から地底温水湖に変わる。辺りには長物や剣などで武装した智能人形たちが、既に待機していた。
湖面が鏡のように凪ぐと、外の様子を映し出す。灰色の雲が垂れ込む空の下、銀と灰色の雪景色。寂寥とした眺めの中に、不吉な黒い影が二つ動く。
「山の結界を突破してきたらしいネ。このまま洞府に侵入する気だ」
『その通り!』
水面の向こうから、瑣慈がはっきりとこちらを見据えて言った。
『すぐにそっちへ行くよ、タイタイ♪』
「師父はどこですか!」
湖に飛び込みそうな勢いでウーは食ってかかる。ぎらぎらと両目に燐光を燃やし、交互に瑣慈とイン・キュアの姿を忙しなく睨んだ。
『形が変わったから分かんないか。今、きゅうちゃんが持ってるよ』
「持ってる?」
改めて、ウーはキュアの手元に注目した。彼は一振りの大剣を提げている。見せつけるようにそれを掲げると、鞘を抜き払った。
全長一公尺を越す幅広の直剣で、真紅の剣穂(房飾り)に、鬼神を模した剣格。美しくも重厚な造りだな、というのがウーの感想だ。
特に目を引くのは、剣身に描かれた荒々しい赤龍の絵だ。彫刻でもなく、こうした装飾が施されているのは珍しい。
(赤い、龍?)
その絵に、ウーと狗琅真人は見覚えがあった。
――神魁流のワ(福)師兄が、事故で片足無くして辞めた後、入れ墨屋になってな。剣で食ってくかって決めた時に、景気づけで入れてもらったんだよ。
「その、剣……が、師父なんですか?」
「ちょっと、何言ってんの!?」
「……リーくん。嗚呼! 嗚呼!」
二人がすべてを察する傍ら、白魂蝶だけが置いてけぼりだ。がくん、と狗琅真人はその場に膝をついた。瑣慈はそれを尻目に、鼻高々だ。
『名付けて〝赫煉之利剣〟! 時間を早回しにしたから、中々大変だったよ。けれど、その価値は十二分に余りあるね! 思った通り、彼は良い剣になった。やっぱり私が見込んだ通り、コージャン・リーは人間に生まれたのが間違いだったのさ』
「お前っ」
ウーは思わず湖面を叩いたが、映像が歪み、また戻るだけだった。
あの剣が、コージャン師父? 自分で動けない、話すことも出来ない、あんな姿が? そんなザマで、彼の剣技はどこへ行ってしまうのだ。あの日の稲妻は。
「はあ、とにかくあいつは剣に変えられたワケね? 分かった、分かった、良くないけど好《O》的《K》。ほら、あんたたち! 腰抜かしてないで迎え撃つわよ!」
白魂蝶は怒りに震える少年と、うずくまる若仙それぞれの背中に、力いっぱい張り手を食らわせた。げふ、とウーは思わず咳き込む。
けれど、それで少し余計な力みが抜けた。
「あんたら不死身なんでしょ? 二百年も生きた仙人様でしょ? 情けなく固まってんじゃないっつーの。私は一人でも行ってやるからね!」
「だ、大丈夫です! ほら、狗琅真人も」
しゃきっと背筋を伸ばし、ウーはまだ動かない仙人の肩を叩く。狗琅真人はゆらっゆらっと体を揺らし、「嗚呼」と息を吐いて、のっそり立ち上がった。
「殺你」
「いいわね、元気出てきたじゃない」
感情の色が見えないつぶやきを、女殺師は全肯定して武器を取り出す。ウーもそれに倣い、前もっての打ち合わせ通り動き出した。
だから、その後に続いた言葉を、二人は聞き逃してしまう。
「先を越されたなあ……」
湖面に映るコージャン・リーが変化した剣。それを見つめる狗琅真人の眼差しは、暗く潤みながら、ぎらぎらと底光りしていた。




